29-2 疑惑と思惑 クラウスの心配
授業を受けながらどれだけ思考を巡らせても、考えがまとまることはなかった。終鈴が鳴りクラスルームの空気が和らぐと、クラウスはアンジェの席までわざわざやってきた。
「セルヴェール。……その後、体調はいかがですか」
「アシュフォード先生……」
アンジェは立ち上がってクラウスを見上げた。青年のメガネの奥の緑の瞳が、心配そうに少し細められている。離れた席で、ルナがこちらの様子を伺っているのが視界に入る。
「おかげさまで……もう影響はないように思います」
「そうですか、それは良かった。……その、セルヴェール」
クラウスはなにかを誤魔化すように、言葉を選んでいる自分の口許を手で隠す。
「魔物の気にあてられた時のことを、覚えていますか」
「……フェリクス様もシュタインハルトさんも他の方も、みなわたくしをにゃんじぇと呼ぶのですが、詳しくは教えてくれませんの」
「にゃんじぇ……」
クラウスは肩を震わせたが、何とか吹き出すのを堪えるのには成功したようだ。アンジェは気付かぬふりをして、率直にクラウスの顔を見上げる。
「アシュフォード先生もその場にいらっしゃったと伺いましたわ。教えていただくわけにはいきませんでしょうか?」
「……殿下か、スウィートか、他の学友に聞きなさい。僕からは……」
「……承知いたしました」
アンジェが肩を落としたのを見て、クラウスは口許から手を外し、少しためらってからもう一度自分の生徒をじっと見る。
「……セルヴェール」
「……はい」
「……魔物の気にあてられている時は……良くも悪くも、特定の感情や想いが極端に増幅されています。だから、それが貴女の本来の姿そのままだというわけではありません。なので……あまり、気落ちしないように。魔物はその隙を突いてきますから」
「そこまで仰って、それでも教えて下さいませんの?」
「……すみません。では、次の授業がありますから」
アンジェは怪訝な目線で睨むようにクラウスを見たが、クラウスはさらりと視線をかわし、苦笑いしながらクラスルームを出て行ってしまった。アンジェは大きくため息をつきつつ教室を見回すと、こちらの様子を伺っていた──もしかすると三メートルは離れているが聞き耳を立てていたかもしれない、ルネティオット・シズカ・シュタインハルトの方を振り仰いだ。ルナはアンジェの目線が自分を捉えるのを予測していたのだろう、自分の机に頬杖をつきながらばっちりとアンジェを見返している。アンジェも唇を噛み、ルナの方に歩き出そうとしたが、そこでちょうど予鈴が鳴ってしまった。
「……もう……」
独り言ちつつ自席に戻ったアンジェを見て、ルナはいつものようにクックッと笑ったのだった。
* * * * *
その後の授業でも、放課後も、アンジェはクラウスについて考え続けていた。
(先生……わたくしを気遣ってくださって……)
(やはり、お優しい方なのだわ……)
授業中はノートをとるのを書き忘れ、カフェテリアでは食べ物を購入して席についても、フォークを手にした形のまま考え込んでしまう。
「アンジェ様? おーい」
同席していたルナが爆笑し、相席にやってきたリリアンが心配そうにアンジェの顔を覗き込み、それでようやっと自分が食べる動作を忘れていたことに気が付く有様だ。
(クーデター、クーデターというけれど……権力争い? 政権争い? ということよね……)
(国王陛下から王権を……あるいはフェリクス様から王位継承権を奪う……)
(アシュフォード先生は、フェリクス様よりも年上の男性でいらっしゃるから、体面上の動機は十分すぎるほど持っていらっしゃる……けれど、政治介入を嫌って神職に就かれるような方だもの、それだけでクーデターに加担なさるとは思えない……)
「こら、稽古中に違う考え事をするな、危ないぞ」
剣術部の部活動で型稽古をしながらルナに叱られる。
(あんなに……フェリクス様と、仲睦まじくしていらっしゃるのに……)
(アシュフォード先生がクーデターに加担するだけの動機を、お持ちだとは思えないわ……)
(けれど、本当にクーデターがあるのなら……ゲームの通りなら、武装蜂起を伴うのでしょう? それこそ着々と準備を進めていて、もうそれも終盤に差し掛かっていないといけない頃合いの筈……わたくしならそう計画するわ……)
「アンジェ、上の空の君も可愛いね。そんなにぼんやりしているとキスしてしまうよ」
貴賓室のお茶の席で、ニコニコしながら迫りくるフェリクスを押し退ける。
(そもそも……クーデターをたくらむ集団が実在したとして、彼らは何を求めて決起しようとしているのかしら……?)
(アシュフォード先生の王位継承に関することが動機そのもの、ということはないはず……)
「アンジェ様ぁ、殿下じゃなくて私に構ってくださいにゃあー、うにゃーん」
「りっ、リリアンくんなんだその話し方は! しかもアンジェにそんなに密着して! 可愛いっ! 可愛いぞっ!!!!」
「殿下のための可愛さじゃないんですう、ねーにゃんじぇ様ぁー」
お茶会でフェリクスとは反対側の隣に座っていたリリアンが、ニコニコしながらアンジェの腕に抱きついてきて、フェリクスが驚き慄いて顔を両手で覆う。
(分からない……分からないわ……)
(誕生祝賀会の時も……必死に、わたくしを、助けようとして下さった……)
(気をしっかり保つことも教えて下さって……)
(それなのに……フェリクス様に、仇なすと言うの……?)
(そういえば、あの時……いえ、ここしばらく、なにか違和感を感じたような……)
(マラ、キオンが潜んでいたから、そのせいかしら……)
「とても素晴らしい会合でしたのよ、わたくしもシャイアも感動してしまいましたの」
「ええ、本当に! 部活にとって文化祭の成功は重要な意味があって、来年度の予算にも大きく影響するんだとかしないんだとか」
お菓子クラブの打ち合わせで、魔法部の卒業生が主催するという会合に参加したという青コンビのシエナとシャイアが、興奮した様子でその時のことを語っている。アンジェはそのあたりでようやっと思考を放棄し、不自然でないようにゆっくりと息を吐きだす。今日はフェリクスとイザベラは二人とも用事があるとかで不参加だ。
(何にせよ……アシュフォード先生ご本人よりも、クーデターの活動を探らなければいけないということね……)
「お話しは、文化祭に関することだけではなく、フェアウェルローズを担う生徒としての心構えまで示し導いてくださる、素晴らしい会でしたの」
「シエナさん、それってエイズワースさんの講演でして? クラブやクラスルームでも、その方のお名前をちらほら聞きますわ」
「そう、それよ、エリンさん! ご存知でしたのね!」
クラブ活動担当、黄コンビ二年のエリンの言葉に、シエナは嬉しそうに頷いて見せた。ルナのスカラバディのグレースが、怪訝そうな顔で一同とルナの顔を見比べている。リリアンはじとじとした瞳でアンジェのことをじっと見上げていたが、視線が合うと、たんぽぽが咲くようにふわりと微笑んで見せた。
「お帰りなさい、アンジェ様」
「……ただいま帰りましたわ」
苦笑いをするしかできないアンジェを見上げ、リリアンは嬉しそうに何度も頷いていた。