29-1 疑惑と思惑 断片
[兄上……!]
スマホの画面に、攻略対象が悲痛な表情で叫んでいるスチルが表示される。
[僕はただ……子供の頃のように、兄上とご一緒に過ごすことが出来れば、それで良いのです……!]
「フェリ様ぁ……」
スマホを握り締めた安藤祥子が、画面を食い入るように見つめながらぽろぽろと涙を流す。
[出自が……玉座が何だというのです! 僕は兄上と共に歩む未来しか欲しくない……! 兄上が心から望むなら、玉座など差し上げましょう……! けれど、誇り高い兄上が、そのお心を踏みにじる逆賊にいいように利用されるなど……僕は……耐えられない!]
悲壮感を煽る音楽と共に、画像がぼやけ、画面が切り替わった。金髪に緑の瞳の幼児と、オリーブ色の髪に、幼児と同じ緑の瞳の少年が、頬を寄せ合って絵本を覗き込んでいるスチルが映る。
[子供のころ……僕は兄上と遊ぶことを何より楽しみにしていた……兄上はいつもお優しくて、何でも知っていて……僕の憧れだった……]
「うきゃああああショタフェリ様きたああああああああ」
祥子はベッドの上にばたんと倒れ、スマホを顔面に押し付けて足をバタバタさせる。
[兄上……! どうか……!]
夕日で黄金色に輝く草原を駆けていく兄弟ふたり。
「ああああああああ」
[兄上……!]
一緒にパンを食べながら笑い合う兄と弟。
「うわああああああああああ」
[……フェリクス……]
敬称でなく、名前で弟を呼んだ別攻略対象の顔が映し出される。
「クラウスせんせ──いっ!!!!!!!」
スマホのゲーム画面には、「クラウスを説得しなきゃ。どちらにつく?」「王子側に降参」「クーデター側で戦う」と選択肢が表示されている。祥子は両手でスマホを押し抱き、大きく深呼吸をしてから、震える指で「王子側に降参」の選択肢をタップした。
[ああ、兄上、兄上、兄上! 僕の兄上が帰ってきて下さった!]
[……フェリクス。僕は目が醒めました。何と愚かなことをしたのだろう]
スマホの中で、攻略対象と別攻略対象が手を取り合い涙を流している。
[良いのです、兄上、償える罪は償えば良い……僕は兄上と共にこのフェアウェル王国を守りたいのです……! 兄上がいなくては……僕は……!]
[フェリクス……!]
[リリアン、ありがとう、君が兄上を説得してくれたおかげだ。兄上を騙した逆賊どもを僕は絶対に許さない!]
「ああ~最っ高……! 最の高……! 年の差兄弟はかどりすぎる~~~!!!!!!」
祥子はスマホを胸の上に置いて抱き締め、なにかとても良い香りでもするかのようにしみじみと鼻で深呼吸を繰り返し、天井を見上げてにんまりと笑った。ゲーム画面を閉じてメッセージアプリを開き、二、三操作すると、またゲーム画面に戻り、兄弟の顔を眺めてにやつく。ほどなくしてメッセージの通知が届く。祥子はにやにやしながらそれを読み、ことさら満足そうに大きく息を吐いた。
「次に凛子ちゃんに会った時に語らせてもらおう……良きすぎて溶ける……」
攻略対象と別攻略対象は、感極まった表情のまま、画面の中でいつまでも微笑んでいた。
* * * * *
フェアウェル国王ヴィクトルの庶子クラウス・アシュフォードは、神官であると同時にフェアウェルローズ・アカデミーで教鞭をとっている。
「では、教科書の五十二貢を開いて下さい。シルド・カファンの戦い以後、国内でも変化がありました。それは税金が……」
担当教科は歴史と魔法学で、アンジェのクラスでも歴史を担当している。落ち着いた様子ではあるがまだ二十代で、母親似でありつつどこか異母弟である王子にも似た高貴な雰囲気、柔らかな言動と物腰は生徒たち──特に女子生徒からの人気が高い。教師として生徒との色恋沙汰はご法度であるし、神官としてもその身を清く保つべきであるが、それを押しても月に数人の女子生徒から告白されるという噂がある。
実際、アンジェもクラウスと面談する行き帰りに、いやに必死な様子の女子生徒が数人で彼を取り囲んでいるのを見かけたことがあった。クラウスはアンジェを見かけるとほっとした様子でその包囲網を抜け出してきたが、彼女らの恨みとも羨望とも嫉妬ともつかぬ目線が肌に刺さるようで不快だったのを覚えている。フェリクスの婚約者である自分にまでそんな視線を向けるとは浅ましいことこの上ない、と思っていたが、異母弟の婚約者だからこそ彼に尊重されていて、それを羨んでいたのかもしれない、と、アンジェはクラウスがかけているメガネをじっと眺めながらそんなことを考えた。
(……まだ、妙な発言があった、というだけだわ……)
教科書に書き込み、ノートをとりながら、アンジェの内心は授業とは全く違う悩みの只中を進んでいく。
(それがそのまま、クーデターにつながっているかどうか、分からない……)
乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」のシナリオについて、アンジェはエリオットの時と同じように、自分が書きつけたメモを隅から隅まで読み返した。しかしやはりクラウスに関する情報は断片的で、後半のストーリーのクライマックスでフェリクスと和解することが書かれているくらいだった。
(あの場には、たしかリリィちゃんもご一緒していたはず……)
(……ゲーム内ではクーデター、クーデターと言っているけれど……)
(クーデターの全容はろくな描写がなかったわ……)
(なんとなく、反乱のようなものが起きて、なんとなく、アシュフォード先生が旗印に担ぎ上げられるだけ……)
(それを、なんとなく、フェリクス様とリリィちゃんが説得して終わるだけ……)
いつか夢で見たゲームのスチルを思い出し、アンジェはうっとりとため息をつく。
(そもそも……攻略対象がフェリクス様ではなくて、悪役令嬢がフェリクス様に婚約破棄されていなくても、悪役令嬢はクーデターには加担してしまうのだわ)
(製作側としては、キャラデザインの手間を省いたということなのでしょうけど……)
(とってつけたような理由で悪役に仕立て上げられるのは、気分が悪いわ……)
(この後この世界でも、わたくしにクーデターの誘いが来るのかしら……?)
「では……この時に降臨したセレネス・シャイアンの名前を……セルヴェール。覚えていますか」
「はいっ」
急に名指しされてアンジェは慌て、その場に立ち上がった。クラウスの淡々としたまなざしがアンジェをじっと見据えている。アンジェは急ぎ問題文を思い出し、記憶をたどって小さく首を傾げた。
「セシリア・ホルト、でしょうか」
「正解です」
クラウスがにこりと微笑んだので、アンジェも微笑み返して自席に座り直した。教室の空気は静かな興奮を孕んでいて、クラスメイトの視線がアンジェとクラウスの間を行き来する。クラウスは何も気にしないといった風情で黒板に板書をしており、アンジェも何事もないかのように澄まして鉛筆を手に取った。
(まだ……分からないことだらけだわ)
(アシュフォード先生もですけれど……凛子ちゃんのことも)
(セレネス・パラディオンになるための稽古の時間も全然足りていませんし)
(お菓子クラブの文化祭の準備もある……)
(でも……)
アンジェの脳裏に、フェリクスの誕生祝賀会での二人の様子が蘇る。
(お二人が仲たがいしてしまうところは、見たくないわよね、祥子……)
姿勢は熱心な生徒そのもののまま、アンジェの思考はゆっくりと授業から逸れていったのだった。