6-1 お茶会と鮮烈
朝はお互いに用事がなければ一緒に登校する。昼食は各自クラスメイトと。放課後は少しでも時間を合わせて貴賓室でお茶をする。王城とセルヴェール邸は逆方向なので、帰宅も校門まで一緒。それがフェリクスとアンジェの間で交わされたアカデミー生活での約束事だった。午後の授業が終わったアンジェは、ルナや友人と別れていつものように貴賓室へと向かう。
「お入り、アンジェ。もう体調は良さそうだね」
生徒用カフェテリアの二階、見晴らしのいいバルコニーが貴賓室だ。一般席からは少し離れていて、護衛のいる廊下を通り抜けないと入ることが出来ない。貴賓室を使うことが出来るのは原則王族のみで、貴族と言えども彼らの招待がなければ入室は許されない。アンジェはすっかり顔なじみとなった護衛官に目礼すると、フェリクスに招かれて貴賓室に入室した。奥側の自席で本を読んでいたフェリクスが、本にしおりを挟み、待っていましたとばかりに立ち上がる。
「ご心配をおかけしましたわ、フェリクス様」
「良かった」
フェリクスは笑いながらアンジェの席を椅子を引き、アンジェが座る絶妙なタイミングで椅子を添えた。エスコートもチェアサービスも完璧だ。そのままアンジェの頬を撫で、今朝の余韻など何一つない整った顔をじっと眺め、うん、と頷く。
「早退した方が良いのではないかと心配していたんだ」
「お見苦しいところをお目にかけてしまって、アンジェリーク一生の不覚ですわ」
「ははは、大袈裟だね」
掌で。指先で。手の甲で。
婚約者を愛でる王子の指先は柔らかく優しい。
「今朝のことはどうぞお忘れくださいましね、フェリクス様」
「どうしようかな」
「もう、殿下!」
フェリクスがニコニコしているので、アンジェも微笑みながらフェリクスの腕を掴もうと手を伸ばす。フェリクスの手はあと少しのところで引っ込められてしまい、アンジェの頭を優しく撫でた。
(いつもながらお優しい手ですこと、とろけてしまいそう)
(絶対に……フェリクス様を、失いたくない……)
(大丈夫。きっと何もかも上手くいきますわ……)
「さあ、お茶にしよう。珍しいハチミツが手に入ったんだ」
「まあ、素敵」
「金木犀の花を漬け込んでいてね、とても可愛らしいし良い香りだよ」
フェリクスは自席に腰掛けると、壁際に控えていたメイドに茶葉について尋ね、好みの品を告げる。メイドは一礼して準備のために配膳室へと下がった。テラスの外、競技場では部活動をしている生徒たちの声でにぎやかだ。秋の空は高く風は涼しく、貴賓室テラスは穏やかで清潔で、何の問題もないように思える。
「……アンジェ、一つ尋ねてもいいかな?」
何でもない事のように、フェリクスは呟いた。
「はい、何なりと」
アンジェも何一つ知らないというように微笑み返して見せる。
(……来ましたわ)
フェリクスはテーブルの上で両手を組むと、アンジェの顔をじっと見る。
「君のような素晴らしい淑女が僕の婚約者で嬉しいよ。そんな君だから、生徒たちの噂の的になることもよくあったね。僕も今日、新しい君の噂を耳にしたのだけれど」
「まあ、どんな噂かしら」
小さく首を傾げるアンジェ。その様子をまじまじと観察するフェリクス。
「……君が、新入生に、恋をしたと」
王子の口調は淡々としているようでとても慎重だった。もし何か間違えると、大切なものを見逃してしまうことを恐れているかのように。
「まあ、もうお耳に入っているんですの? 噂が巡るのは本当に早いこと」
「……噂自体は本当なのかい?」
けろりと反応したアンジェに、フェリクスはやや驚いて目を見開く。アンジェは指先で唇を隠すと、クスクスと笑って見せた。
「噂も何も、ルナ……シュタインハルトさんが勝手にそう仰っていただけですもの」
「そうなのか……?」
「そうですとも、曲がりなりにもわたくし、王太子殿下の婚約者ですのよ。婚約したその日からフェリクス様一筋ですわ」
アンジェは微笑みながら頷いてみせる。
「わたくし、スウィートさんのスカラバディにならせていただくことにしたのです。もともとはシュタインハルトさんがお務めになるはずでしたから、交代をお願いしましたのよ」
「へえ、スカラバディに」
「ええ、よろしいでしょう? そうしたらシュタインハルトさん、わたくしがスウィートさんに恋をしてるなんて仰るんだもの、笑ってしまいましたわ」
「そうだったのか……」
フェリクスはあからさまにホッとした顔で笑った。
「ルネティオットめ、僕の耳に入るのを見越していたに違いない」
「わたくしもそう思います。相変わらず仲のよろしいこと」
「よしてくれ」
フェリクスが大袈裟に手を振って見せ、アンジェはクスクスと笑った。メイドがワゴンを押して戻ってきて、テーブルの上にアフタヌーンティーのセットを始める。
「スカラバディかあ、懐かしいな」
「去年はフェリクス様、わたくしのスカラバディになる! と息巻いておりましたわね」
「ああ、今でもなりたいと思っているよ」
フェリクスは真っ向からアンジェを見つめて微笑む。
「僕自身バディにはとても良くしてもらったし、僕もそうあるように努めたつもりだ。今でも二人とは友情が続いているし、アカデミーで一番親密になる間柄の一つであると言っていいんじゃないかな」
「分かりますわ。わたくしもイザベラ様にはとても良くしていただきました」
フェリクス個人の紋章が入ったティーセット、ケーキスタンド、飴色に透き通る液体で満たされたガラスポット、色とりどりのジャムがメイドの手で整然と二人の前に並べられていく。
「他でもない僕の大切なアンジェには、僕自身がアカデミーのことを隅々まで案内してあげたかったのだけど……こればかりは仕方ないね」
「学年も性別も違うのですもの、致し方ありませんわ」
アカデミー内では身分の貴賎はなく、王族と言えども平等に扱われる。王族が貴賓室を使うのは単なる警護の都合で、カリキュラムなどで優遇されることは皆無に等しい。フェリクスがどんなに愛ゆえの私情を押し通そうとしても、厳格な校長は首を縦に振らず、王子は父王に冷静になれと叱られる羽目となった。
「とにかく、噂の真相を聞いて安心したよ、アンジェ」
「ふふ、ご心労おかけいたしました」
「君もあれだけ気にかけていた子だものね、とても喜ばしい気持ちだろう」
「ええ、それはもう、恋と間違えられるような心地ですわ」
「僕からもスウィート嬢に挨拶させていただきたいな。君と彼女さえ良ければ、今度このお茶の席に連れておいで」
「そう仰っていただけると思いまして……」
アンジェは言葉を切り、席の後方──出入り口の方を振り向く。置物であるかのように控えていた護衛官が、アンジェの視線を受けて小さく頷いて見せ、廊下の奥の方に立つもう一人の護衛官に何か合図を送る。アンジェも満足げに頷き返すと、フェリクスの顔を見て、にこりと微笑んだ。
「もう、お呼び立てしてしまいましたの」