26-1 朝練
「ああーもう……最悪……」
祥子が頭を抱えながらツインベッドの一方にばふりと倒れ込むと、凛子も苦笑いしながらもう一方のベッドの上に座る。
「付き合って一か月って言ってたっけ?」
「うん……」
「こんなことってあるんだねえ……」
半年に一度の日本最大級の同人誌即売会。日頃はなかなか会えない凛子と休みを合わせて、空っぽのスーツケースを汗だくになって引っ張りながら上京して辿り着いたホテル。もうアラサーだし、あまりに安っぽいところだと連戦の疲れが取れないねと凛子が言ったので、少し奮発して予約した、洒落たレストランとバーがあるホテルだった。都会の綺麗な盛り付けの料理を食べながら新しい恋人のことを報告しよう、と浮かれていたその矢先、フロントで当の恋人と──その妻と子供とばったりと出くわした。
「こちら……会社で同じフロアの、安藤さん」
泳いだ目線でしどろもどろに言ってのけた恋人を見て、祥子は愛想笑いを浮かべるしか出来ず、凛子がその横顔をじっと眺めていた。震える手でチェックインして、エレベーターの中で彼が恋人なのだと吐くように言うと、凛子の顔はみるみる険しくなっていった。
「不倫とかサイッテー……」
憎々しげに呟いた凛子に、ううう、と祥子が唸る。エアコンの効いた室温とぱりっとしたシーツは、汗ばんで湿った肌には心地よい。
「だよねえ……最低だよ……」
「あ、ううん、祥子ちゃんじゃないよ、向こうがだよ。だって知らなかったんでしょ」
「そりゃそうだよ、知ってたら付き合ったりしないよ……」
祥子は寝転がったまま器用にスニーカーを脱ぎ捨て、枕を抱えて猫のように丸くなる。
「祥子ちゃん騙されただけじゃん」
「うん……」
「祥子ちゃん……まだ、好き?」
凛子は祥子の背中に向けて、少しだけ慎重に尋ねる。
「いや……もう、なんか……いいや……」
「そうか。じゃあ、着拒して連絡先消しちゃえ」
「えー……」
「会社の人なんでしょ。仕事の連絡はメールとかに来るから大丈夫だって。でないと祥子ちゃん流されてズルズル不倫しそうだもん」
「しないよお……もう会う気も失せた……」
「じゃ、消しちゃえ消しちゃえ。善は急げ」
「うん。……一通だけ、連絡するなって送る」
「うん」
祥子はショルダーバッグの中から自分のスマホを取り出して何か操作した。画面が光り、祥子のむき出しの二の腕が照らされるが、凛子からはディスプレイは見えない。
「……消した」
ぽい、とスマホが投げ出される。
「よし。頑張った、祥子ちゃん」
「あーあ……また彼氏ナシになっちゃった……」
「頑張ったショコラちゃんに、リリコからプレゼントがありまーす」
凛子がニコニコしながら鞄を開けるのと、祥子ががばりと顔を上げるのはほぼ同時だった。
「はい、紅茶のパウンドケーキ!」
「うわあ、焼いてきてくれたの!?」
「うん、今朝焼いたし保冷剤入れてきたから、痛んでない筈だよ。ホテルの冷蔵庫に入れておけば最終日まで大丈夫だと思う」
「わあ、わあ~!!!」
祥子が瞳を見開き、頬を紅潮させるのを、凛子は眩しそうに目を細めて見つめる。
「嬉しい、ありがとう! 最高!」
「ふふふ、ありがとう、祥子ちゃん」
「もうあんな奴忘れた! 凛子ちゃん結婚しよ!」
「うふふ、するする~」
凛子が取り出した大きなタッパーを開けると、ラップに包まれ、既にスライスされたパウンドケーキが表れた。凛子はテレビボード脇の小物置き場から皿を取り、タッパー横に入れていたフォークを取り、パウンドケーキを一切れ乗せて祥子に渡す。
「はい、どうぞ、旦那様」
「私が旦那なの?」
「奥様でもいいよ」
「どっちでもいい~、わ~い」
祥子はニコニコしながら受け取ると、大切そうに手で抱え、フォークで小さく切り分けて口に運んだ。凛子は自分の手をきゅっと握りしめて胸元に押し付ける。その塊が祥子の口の中に入り、隠されるのを、瞳を見開いてじっと見る。
「……ああ、美味しいです凛子さん……!」
「……良かった」
凛子はふわりと微笑む。
「もう最高……プロのパティシエさんにパウンドケーキ焼いてもらえるなんて……凛子ちゃん結婚しよマジで」
「ふふふ、しよしよ!」
祥子は一切れずつしっかり味わいながら、大切に食べ進めていく。
「祥子ちゃんは、昔からずっと紅茶のパウンドが好きだよねえ」
「うん、そうかも。お茶っ葉が入ってるなんてちょっとカッコよくない?」
「え、そうなの?」
「……って、高校生の私は思ってた。そしたらむちゃくちゃ美味しいパウンドケーキ焼ける友達がいてさ、その子が作ってくれた紅茶のパウンドケーキがもうほんっと美味しくてヤミツキでね。その子プロになったんだよ、すごくない?」
祥子はニヤリと笑いながらフォークで凛子を指さした。凛子もクスクスと笑う。
「……すごいかも!」
「もう、ずうずうしくまた作ってってお願いしちゃうよね! 彼氏が既婚者だったとかしょうもないことで凹んでても、食べたら元気になっちゃうよね!」
「……もう、祥子ちゃん」
「ありがとう、凛子ちゃん。元気出た!」
「……良かった」
二人はそれぞれのベッドの上で、ふふふ、と笑い合った。
* * * * *
翌日の剣術部の朝練は、思いがけず、いや当然と言えば当然のようにフェリクスが顔を出した。ルナも初日だけは付き合うと言い、リリアンも様子が見たいと言ったので、剣術部の部室にはアンジェの見知った顔が三人も並ぶことになった。女子用更衣室など当然ないので、アンジェはルナと一緒にお菓子クラブの部室で着替えた。ルナの指導で、コルセットではなく木綿のサラシを胸にきつく巻き、双丘を潰すようにして固定する。着替えにもついてきたリリアンが、その様子をじっ……と眺めていたが、アンジェは気づかないふりをした。ルナは朝練の時点ではアンジェと同じフェアウェルローズのジャージ姿だが、放課後を楽しみにしてろよ、と言いながらクックッと笑っていた。
朝練は走り込みに始まり、負荷運動と呼ばれる筋トレとストレッチ、最後に型稽古をする。剣を持つのは型稽古だけで手合わせすることはないため、防具は身に着けない。室内鍛錬場に裸足で入ると、床が氷かと思うほど冷たく、吐く息も白く曇った。ガイウスから、負荷運動は全員が指定回数できるまで待つことになっているが、さすがにしばらくは出来るところまででよいと事前に告げられた。
いざ練習がはじまると、アンジェは当然どれもこれも剣術部の部員に遠く及ばず、身体のあちこちが軋んで悲鳴を上げ壊れそうになりながら、何とかそれらしくこなしているそぶりをするのが精一杯だった。フェリクスは終始ぴったりとアンジェの横を陣取ると、走り込みで遅れれば自分もペースを落とし、筋トレとストレッチは自分の動作など早々と終えてアンジェの背を押したり足を押さえたりし、型稽古でも見様見真似のアンジェにコツを教えたり、合間に汗を拭いてやり、飲み物を持ってきて、心配極まりないとばかりにこまごまと世話を焼いた。フェリクスがアンジェに近づく度に、鍛錬場の端のほうに座ったリリアンが、目をくりくりさせてこちらを見ているのを必要以上に意識させられる。だが離れろと言うだけの余力がアンジェにはない。ひたすら顔を赤くして、震える腕を励まして、必死に動くしかなかった。
「私は明日からはいないからな。大体分かっただろうし、どうせ殿下は明日もくっついてくるだろう。コルセットが大変なら子リスにでも頼め」
「ええ……それは大丈夫……ありがとう……」
抱き上げて運ぶと主張したフェリクスを何とか断り、アンジェは這うようにしてお菓子クラブの部室にたどり着き、しばらくは座り込んで動けなかった。リリアンが持ってきてくれたぬるめのレモネードを飲むと、何とか身動きが取れるようになる。
「ルナ……貴女は、これよりも更に厳しい鍛錬をなさっているということなの……?」
「まあな」
ルナもリリアンからレモネードをもらいながらニヤリと笑う。
「私は朝は、おじい様と一緒に牛乳配達をして、畑を耕してからアカデミーに来てる」
「えぶっ」
アンジェはギョッとして飲みかけのレモネードを噴いてしまう。
「きゃあ、ごめんなさい!」
「大丈夫です、すぐ拭きますアンジェ様!」
リリアンが飛び上がって布巾を取りに行ったが、アンジェとルナは探るような視線で互いに互いの顔をじっと見る。
「あの……ルナ……?」
「なんだ」
「その……牛乳配達ということは……とても重い亀の甲羅を背負ってるんですの……?」
「当然だ。二十キロはあるぞ」
「まあ、なんてこと! やはり効果はうんと出ますの? そのうちジャンプが雲の上に届くのかしら?」
「はは、そうなったらいいよなあ」
「本当ですわね。わたくしも亀の甲羅を背負ってみようかしら」
「赤ちゃん・アンジェは今日のメニューをまともにこなせるようになってからだな」
「それもそうね」
「はいっ、アンジェ様、拭きますからジャージはもう脱いじゃってくださいねっ!」
間に割り込むようにしてリリアンが入ってきたが、アンジェとルナはずっとクスクスと笑い続けていたのだった。