The Chess 番外編 聖杯城の夜
……それは魔法本にも記されない、夏の夜にひととき現れた幻の城でのことだった。
「賢者様、ぜひ私どもの“クイーン”になって下され!」
「申し訳ありませんが、それは無理なご相談です。それに、クイーンは王家の女性がなるものですよね。」
「変化が自由自在な賢者様なら、女王に成り代わることもお出来になりますでしょう? 私どもは、どうしてもチェスで、すぐ負けてしまっては困るのでございます!」
リアは窮地に立たされた。アリスが現れそうな白の国ということで、プレイヤーの参加申込をしたまではいいのだが、プレイヤーの選抜大会に参加して、少し魔術の技を見せ過ぎたようだった。七月初日、プレイヤーに決定しましたと大鳩に乗ったビショップに迎えられ王城に訪れた途端、王を含め女王陛下以下ルーク、ビショップ、ナイトが勢ぞろいし、リアに予想外の申し出を訴えたのだった。リアはもちろんポーンを志望した。しかも今は少年の姿でいるはずなのだが……。
「どうして女王陛下ご自身ではいけないのでしょうか?」
リアは眉をひそめて、白の国の人たちに問うた。その答えに、初老の女王自らが答えた。
「“クイーン”はチェスの大黒柱! それがただでさえ弱小な私どもの国が、すでに隠棲している私がクイーンでは、チェス開始からそう経たないうちにクロスを失くし、気勢を失するのは目に見えております」
「賢者様が選抜試験で変化や異空間魔術を行われた時、我々は救世主が現れたと欣喜雀躍したものでございます」
若い僧侶は目を輝かせてリアに畏敬の念を込めて哀願した。リアは肩をすくめた。
「どうして、そこまでチェスにこだわるのですか?」
「それは、クロスを持つ司書を呼びたいからでございます」
年老いた王は深く堂々とした声でそう告げた。それを聞いて、リアは胸をなでおろした。それなら問題は解決であった。自分が求められている者なのだから。
「貸し出し本の話だったのですね。それなら今すぐにでも手続きしますよ……」
ところが、話はリアが思った通りにはいかなかった。王は怪訝な顔をして、賢者だとあがめるリアに恐る恐る問いただした。
「失礼ですが、賢者様。あなた様がクロスを持つ司書である証はございますか?」
「すみません……そういうのはないのです」
司書にも正装はある。白いローブに鐘の紋章が刺繍されているものである。しかしリアは、それを纏って現れてみたところで、この世界では伝説的な塔の町の司書だという身証にはならないことを十分知っていた。
『あぁぁ。司書にもミトコウモンのようなインロウがあればいいのになぁ……』
とリアはつくづく思った。しかしそう思ったのは、決してこれが初めてではなく、もう幾度も思っていた。よくあることなのである。こんな時リアはいつも内勤はいいなぁと思った。
塔の町の司書には内勤と外勤がある。内勤は主に書庫の整理、訪問者の案内などをし、外勤は異界へ散って貸出図書の回収と延長の手続き、消失しそうな書物の書き取りと救済、まれに希望者に求める本を渡す。
ちなみに外勤の給料は現地支給ではない。自分の出生した国に支払われる。だからいつも外勤であるリアは異界へ渡ると、なんらかの働き口を見つけなくてはならない。たいてい異界にいる間は、毒も効かなければ体の回復力も早く、要は普通の時より“しぶとく”なるのだが、先立つものがなければ、この何年年十年下手をすれば何千年もかかる気の長い仕事を、腰をすえて取り掛かることが不可能なのである。閑話休題。
リアは、皆に信じてもらえないことを渋々得心するしかなかった。そのうちこっそり所蔵されている場所に忍び込んで、件の本を手続きしてしまうしかない。これもよくやることであった。
「すみません、皆さん。僕は剣技は不得手ですし、ペガサスに乗ることもできません」
リアは深々と頭を下げて何とか白の国の人たちに考え直してもらえるように謝った。しかし、女王陛下は楽観的にのたまった。
「大丈夫ですぞ、賢者様! うちのペガサスは優しく温和しい子ですし、天駆けなんて賢者様ならすぐ慣れますぞ」
この時リアはペガサス乗りにも慣れておくべきだったと後悔した。このようにしてリアは、無茶な状況で新しい特技をまた一つ覚えていくのだった。
「……お師匠、本当に器用ですからね」
紅い目に笑いを浮かべて、魔術師は言った。
「おかげで二千年の間に、キングとナイト以外、成り上がりも含めて全職業をこなしました」
「それで、そのクイーンの話はどうなったんですか?」
客人は笑った。
「結局、天駆けしました。でも、僕は剣を振るう訓練はほとんどしてなかったので、空中戦は無理やり魔術でやり過ごしました。ペガサスから落ちそうになったら、慌てて空間を跳んで元の場所に戻るようにして。ゲームは程よいところで負けちゃいましたが。結局アリスが現れるという噂は大嘘で、骨折り損のくたびれもうけだったんですよね。その時、安易に魔術師の名でチェスに参加希望を出すのは考え物だなぁと分かりました」
暖炉の青い炎がちろちろと燃えていた。静かな夢幻の城で久闊を補う二人の語らいはまだ続くのであった。
客人は黙したままだった。魔術師は隣を振り向くと、宙に浮かんで座ったまま眠り込んでいる客人の姿があった。当然であった。片や幻の城を目指して艱難辛苦の末、やっとそこに辿り着いた旅人であり、片や二千年の間ひとり古城で夢にまどろむ魔術師である。どちらが疲れて先に眠るかは一目瞭然であった。
魔術師は暖炉の炎をそっと消すと、暖炉ごと魔術で消し去り、旅人がそのまま眠れるよう、その背の下に寝台を現した。この城は魔術師の城である。家具や調度品や、床や壁までも自在に操るのは、目をつむっていてもできることであった。魔術師は客人を起こさないよう静かにブランケットを掛けると、ふと旅人の腕に小さな傷跡を見つけて目を細めた。戦いの傷跡の残りであった。魔術師はその傷の由来を知っていた。そこで交わされた旅人の気持ちも知っていた。だから魔術師は今日この“お休みの日”だけは、恋人を呼ぶわけにはいかなかった。
魔術師は旅人の腕の傷に優しく触れた。傷は消えていた。
「良い夢を、リア」
「……ありがとう、リン」
魔術師は微笑した。
すでに夜明けは近かった。