第01話 緑玉髄
「お母さーん、ちょっと散歩してくる」
三笠アスナ。26歳。女。
「(晴れてて気持ちいいなぁ)」
大学卒業からずっと勤めていた企業を、一身上の都合により退職。
「あ、バッタだ」
現在、無職。
三笠アスナは幼少期から大学入学までを過ごした町に数年ぶりに帰ってきた。
それまでは仕事、仕事、仕事。正月も盆も休む暇はなかった。というよりも、休めるはずだったのだが、職場に欠員が多く、その穴埋めをよく任されていた。
「私はパテかい!」
そんな自主ツッコミをしてみても、もう誰も咎めるものも居ない。それが束の間の自由だとしても、彼女はそれを謳歌していた。
──でも、流石に仕事見つけなきゃな。
アスナの内心は穏やかではなかった。
彼女は小さな頃から家族に愛情を注がれ、とても優しく、真面目な少女として育った。
大学に入って一人暮らしに挑戦するも、周囲のノリについていけず、結局勉強漬けの日々に。おかげでそこそこの給料が出る、そこそこ名の知れた企業に就職できた。
けど、そこがちょびっとストレスのかかる職場だった。
『君みたいなノータリンと同じ給料だと思うとゾッとしないね』
『辞めたい? はは。別に良いけど、君を貰ってくれる場所、あるの?』
『なんか、重いというかさ。もっと気楽に出来ないわけ? モテないよ?』
『三笠さんって、こう、浮世離れしてるじゃない? あ、良い意味でねw』
アスナはついつい思い出してしまい、顔をしかめながらしゃがんでしまった。
「はぁ~……」
旧態依然とした会社というのは大学のOBから聞いていたが「私はそういうのには負けない」と強がってしまったのが失敗だった。
昔から優しい家族や地元に育てられたアスナは、他人から注がれる「無関心の悪意」に晒されるのが、普通に無理だった。
3年は働こうと決めた。そして彼女はなんとか刑期を満了。会社を辞め、無事にニートとなった。
「いてっ」
やってやったぜとニヤついて気が緩んだ瞬間、足をグネってしまった。アスナはパンプスを両方脱いで、片手に持つ。
会社を辞めてもスーツを着てしまっている自分に馬鹿馬鹿しさを感じながら、今だけは、春の心地よい日差しを浴びた。
アスナにはこれといった趣味は無い。漫然とドラマやアニメを見ることはあっても、お金自体は使わないので貯金は積もるばかりだった。
──500万あれば何が出来るかな~。
川沿いを歩き、橋を渡り、水面を眺める。
アスナは海外旅行とかエステとか高級焼肉とかを考えてみたが、やっぱりそこまでやりたいわけでもないかもと、それを却下した。
結局、彼女は生きるためにお金を稼いだが、生きるのにそこまでお金が必要なわけでもなく、したいこともなかったのだ。
「夢のない人生だ……」
立ち止まり、くるりと回って、橋の欄干に背を持たれそのままズルズルしゃがみこむ。頭は俯いて、気分も俯く。
「これからどうすればいいのかな」
誰が答えてくれるわけでもないのにアスナはそんなことを口走った。すると。
「──お姉さん、そのまま」
びくっ。
突然耳元で男の人がそう囁いた。アスナは何事でしょうかと動けなくなる。
すると、かさかさと頭の上で何かが動き、アスナは心臓がまろびでるかと思ったが、声をかけてきたその人がゆっくり手を伸ばし、そのかさかさを捕まえる。
「捕まえた。まったく、すぐ逃げる」
「あっ、あの」
「もう動いていいですよ。ありがとう」
深い水底のようなその声に、どこかほっとする。
ふっと顔をあげると、その人は銀狼のような髪の毛を春風に揺らした。長いまつ毛、南極の氷のように青白い肌と瞳。
「……」
そして手にはさっき見たバッタ。否、緑色の虫。緑色というかメロンソーダ色の宝石に脚が生えている。宝石に脚が。
アスナはゾゾゾッとしたが男性はふやっと笑って見せた。その宝石虫を指して。
「緑玉髄、見えるんですね」
「み、見えます……けど……」
微笑んで立ち上がった彼は、そしてアスナに胸ポケットから出した名刺を差し出す。
「俺はクレア。錬金術師をしてます。あなたには才能がある」
アスナはぽわっと彼を見あげる。
「俺と結婚してくれませんか?」
アスナの目が点になる。
「は?」
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