バクダン江、血に染めて~第三次モンゴル軍侵攻~
第二次大越侵攻の失敗に激怒した元帝フビライ。この時日本への第三次侵攻――三度目の元寇の計画もあったと言われていますが、それよりも大越征服を優先します。
もっとも、フビライはむしろ日本侵攻を優先するつもりだったが、イスラム商人と結び付き「海のシルクロード」の権益に魅かれた重臣たちに押し切られて、第三次大越侵攻が決定された、との見方もあるようです。
元軍の総大将は、前回に引き続きフビライの十一男である鎮南王トガン。前回の教訓を踏まえて、500隻もの兵糧船を新造し、補給体制に万全を期します。
一方の大越も、前回に引き続き陳興道さんを総大将として、兵を訓練し迎撃の準備を進めます。
1287年末、元は総大将トガンの下、30万以上の兵を動員、三度大越に攻め込みます。
陳興道は要衝である萬劫(現在のハイズオン省チーリン)などに防衛線を築き、元軍を迎え撃ちますが、例によって衆寡敵せず、撤退を余儀なくされます。萬劫を占拠した元軍は、長期戦に備えここを要塞化します。
元軍はそれ以外の拠点も次々に陥とし、怒涛の勢い。翌1288年1月、陳朝皇帝・仁宗は首都・昇龍を放棄し、住民たちに食糧を持って逃げるよう指示します。またかよ。
かくして、陳朝大越は元に三回攻め込まれて三回とも首都を奪われてしまいます。
まあ一つには、当時の昇龍は首都とは言え、都市としても防衛拠点としてもまだまだ未成熟で、それ故に放棄することへの躊躇いも薄く、また、奪われても一度風向きが変われば奪還するのはさほど困難ではない、といった事情もあったのではないかと思われますが。
そしてちょうどその頃、雲屯(現在のクアンニン省ハロン市)付近の海上で、元軍がせっかく用意した輸送船団が壊滅します。
元将ウマルは、第二次侵攻時に陳朝軍の追撃から命からがら逃れた恨みを忘れておらず、陳興道に対しても、どこに隠れようと草の根分けても探し出してやる、などと豪語していたのですが、彼の本来の任務は、張文虎将軍率いる輸送船団の護衛。にもかかわらず、彼は血気にはやって先行しすぎ、輸送船団を置き去りにして萬劫へと向かいます。
そこを、先代皇帝・聖宗の養子でもあった陳慶余将軍に衝かれ、輸送船団はその多くが沈められるか、陳朝軍の手に落ちてしまいました。
前回の教訓から対策を講じてきたにもかかわらず、結局兵糧不足にあえぐ羽目に陥ってしまった元軍。総大将トガンは、せっかく昇龍を占拠してもほとんど得るものがなかったことに苛立ち、ウマルに命じて仁宗皇帝と聖宗上皇を探索させますが、これも空振り。腹立ち紛れに亡き太宗の陵墓を暴かせるといった冒涜行為を犯します。
が、結局、戦況不利と見て、トガンは昇龍を捨てて萬劫の拠点に向かい、さらにそこも放棄、陸路と海路二手に分かれての撤退を指示します。
これに対し、陳興道は、配下の范五老将軍(1255~1320)を中越国境の要衝・諒山に派遣、陸路で撤退する元軍に対し、伏兵を張ります。この范五老という人は、陳興道が養女の英元郡主を嫁がせるほどに目を掛けていた名将です。
そして陳興道自身は、自ら船団を率い、海路撤退しようとする元軍に対し決戦を挑みます。
決戦の舞台となったのは、白藤江。現在の地図上では「バックダン川」と表記される、世界遺産のハロン湾に注ぎ込む川です。
ハノイ周辺に直結する水路としての役割を持っていたため、過去にも幾度となく、特に紅河デルタに侵攻しようとする外国軍と守るベトナム軍との戦いが展開されてきました。
第一話でちらりと触れましたが、呉権が南漢軍を打ち破ったのもこの川です。
今回陳興道が採用した作戦は、呉権が用いた策を再現しようというもの。高低差が小さく干満の差が大きい白藤江の潮位変化を念入りに調べ、川底に無数の杭を打ち込んで、元の船団に対し罠を張って待ち構えます。
ただし、呉権が相対した南漢軍は約一万程度でしたが、今回の元軍は九万以上。はたして上手くいくかどうか、陳興道さんの手腕が試されるところです。
1288年4月初め。ウマル率いる元の船団が白藤江に入ると、陳朝軍は小舟の部隊でこれを挑発、元の船団がこれを追うと、ちょうど干潮になって水位が下がった川底の杭に引っ掛かり、身動きが取れなくなってしまいます。
そこへ陳朝軍の小舟部隊が総攻撃を仕掛け、さらには火を付けた筏を突っ込ませて焼き払うという容赦ないやり口で、元の船団を壊滅に追い込み、大将ウマル以下多くの将兵を捕虜とすることに成功します。はい、お見事。
一方、総大将トガンは、陸路で撤退しようとしますが、諒山で范五老の部隊の待ち伏せに遭い、多大な犠牲を出しながらほうほうのていで逃げ帰りました。
かくして、三度元軍の撃退に成功した陳朝軍。仁宗は昇龍に凱旋、戦で疲弊した民を慰撫し、勇戦した将兵の軍功に報います。陳興道も、翌1289年に「興道大王」の号を授けられ、臣下に対して侯までの爵位を自由に与える権限まで授かります。
その一方で、陳朝は元に対し、すぐさま朝貢を再開、外交面でも巧みに立ち回ります。
そして元軍の捕虜も丁重に送り返すのですが……。多くの大越の民を殺し、太宗の陵墓を暴いたウマル将軍に対してだけは、相当に恨みが深かったのか、船底に穴を開けて海に沈めてしまいます。
まあ、このやり口に対しては後世の歴史家から批判の声も上がっているようですし、実際ちょっといかがなものかとは思うのですが。ただ、ウマルがそれだけの恨みを買っていたのもまた事実。それに、彼は今回の敗戦の最大の戦犯ですからね。生きてフビライの下に帰還したとしても、あまり明るい未来は待っていなかったのではないでしょうか。
そして、二度にわたり父フビライの期待に応えることができなかったトガン。彼の未来も明るいものではありませんでした。
元々、トガンはフビライの庶子ではあるものの、彼が与えられた「鎮南王」という称号は、他の庶子たちが与えられたものより格段に序列が高く、フビライはそれだけ彼の安南(大越およびチャンパ)征服に期待を寄せていました。
そのため、トガンの失敗に対する失望も大きく、フビライはその後死ぬまで彼の謁見を許さなかったと言います。
フビライは四度目の大越侵攻を目論んでいたとも言われていますが、結局1294年に没し、その計画が実行に移されることはありませんでした。
陳朝第三代・仁宗は、その前年1293年に息子の英宗(1276~1320)に譲位し、自身は仏門の道に入ります。英宗の母・欽慈皇后は陳興道の娘。そして、彼の妻・順聖皇后は、陳興道の三男の娘です。
こうして見ると、陳興道さん、ガッチガチの外戚なんですよね。
これが中国王朝だったら、たちまち、皇帝を蔑ろにして権勢を揮うか、逆に皇帝とその側近に排除されるか――いえ、そもそも陳朝自体が、李朝の外戚の立場から王朝を簒奪したのでした。
そんな立場にありながら、生涯にわたって歴代皇帝の信頼を得続けたのは、もちろん陳興道自身が同族だから、というのはあるのですが、皇族の中の有力者と皇帝との確執、なんてのも歴史上よくある話ですし、やはり彼の為人なのでしょうね。
愛妻の天城公主には残念ながら、第三次侵攻を退けた年、1288年に先立たれますが、多くの子や孫に囲まれ、陳一族の重鎮中の重鎮として若き皇帝を補佐していた陳興道さん。しかし彼にも寿命が訪れ、1300年にこの世を去ります。
彼の死の直前、見舞いに訪れた英宗は、もしまた北の国が攻めてきたらどうすればよいかと問いかけます。
それに対する、陳興道の答えは――数を恃む敵に対しては、しぶとく、また一気呵成に、これを攻め立てる必要があり、そのためには我らの能力が大切である。もし、敵が一挙に無理攻めを仕掛けてくるなら、これを打ち破ることは容易い。しかし、敵が辛抱強く、かつ、略奪なども戒めて慎重に攻めてきたなら、我らもまた、最も優れた将を選び、将棋を指すように最善の手を打って行かなければならない。軍隊は親子のように心を一つにし、民を慈しんでその力を育まねばならない。山奥の道を切り開き、城砦を築くが如くに――というものでした。
さて、四話にわたってお送りしてまいりました越南元寇録。改めて思うのは、モンゴルの侵攻を三度に渡って退けることが出来たのは陳興道さん一人がどうこうじゃなくって、ベトナムの人たちの不屈の精神だよね、ということです。
もちろん、陳興道の軍事的手腕や、苦境にあっても将兵の心を繋ぎとめることが出来たカリスマ性、そして何より彼自身の不屈の精神は、いくら称賛しても足りないくらいではあるのですが。
この後も、中国歴代王朝の干渉と戦い続け、近代に入ってはフランスに植民地にされるも、激しい抵抗の末に独立を勝ち取り、そしてアメリカさえもついには退ける――。
まさしく不死鳥民族ですね。
主要参考文献(敬称略)
小倉貞男「物語 ヴェトナムの歴史」
ファン・ゴク・リエン監修 今井昭夫監訳「世界の教科書シリーズ21 ベトナムの歴史」
Wikipedia各項目
Webサイト 鉄勒京二「カルフ地区の書籍商 陳興道とモンゴル侵攻まとめ」のページ
Webサイト Ci-en ナントカ堂「李昭皇」のページ
他
以上をもちまして、モンゴル・元のベトナム侵攻と、これに敢然と立ち向かった陳興道およびベトナムの人々の物語は完結です。
本文でも触れましたが、彼らの不屈の闘志には本当に頭が下がります。
何か皆様の心に響くものがあれば幸いです。