俺の首を刎ねて行け~第二次モンゴル軍侵攻~
いよいよ、陳興道さんの本格的な活躍がはじまります!
モンゴル帝国の第一次侵攻を苦戦の末撃退するも、その勢威の前には膝を屈するしかなく、朝貢することを受け入れた陳朝大越。
その一方で、陳朝は南宋にも使者を送り、同盟の道を探ります。
しかし、モンゴル軍の猛攻の前に、南宋の命運は風前の灯でした。
そもそも南宋とモンゴルの因縁は、1234年の金滅亡の際に生じました。
かつて北宋を滅ぼし華北に勢威を誇った金国も、モンゴルと南宋の共同作戦(ただしほとんどはモンゴル)により、ついに滅亡します。その際、南宋がモンゴルとの協定を破り、開封、洛陽、南京などの都市を奪取。それに激怒したモンゴルが、南宋への侵攻を開始します。
こうして見ると、最初に約束を破った南宋が悪い、ということになるのですが、南宋が協定を遵守し続けていたらモンゴルに攻め滅ぼされることもなかったのかというと……ねえ。
五代十国時代の軍閥政治への反省から敷いた文民統制がいささか行き過ぎ、文尊武卑の風潮を生んで軍事的には脆弱だったと言われる宋王朝。遼や西夏に悩まされ、金に南に逐われ、と散々だったのは確かなのですが、その間にも名将勇将は何人も輩出しており、モンゴルの侵攻に対しても、懸命の抵抗を続けます。
とは言え、モンゴル軍の猛攻によってじわじわと領土は蚕食されていき、各地での激しい戦闘、合州(現在の重慶 市合川区)の包囲戦でのモンケ皇帝の戦病死、その後の帝位継承争いなどを経つつも、1276年、ついに南宋の首都・臨安(現在の杭州市)は無血開城します。
つまりこの時点で、形の上では南宋は滅亡したわけなのですが、その後もなお、一部の武将や官僚らが船で海に逃れ、抵抗を続けます。
しかし衆寡敵せず。1279年、広州湾の崖山の戦いにおいて、南宋残党の旗印であった幼帝・衛王こと趙昺(1271~1279)が忠臣らと共に入水して果てます。
それでもなお膝を屈しようとしなかったのが、張世傑(?~1279)という武将。モンゴルの捕虜となりその才を惜しんだフビライから何度も降伏勧告を受けるもこれを最後まで撥ねつけて処刑された文天祥(1236~1283)、崖山で幼帝を抱いて海に沈んだ陸秀夫(1237~1279)とともに、南宋三忠臣と呼ばれる人物です。
しかし彼も、大越の南のチャンパ王国に逃れて再起を図る途上、不運にも台風の直撃を受けてしまいます。
『十八史略』の記すところによれば、船上で暴風雨に見舞われた彼は、香を焚いて天を仰ぎ、天が宋を滅ぼそうというのならこの船を覆せ、と叫ぶのですが、その声が聞き入れられることはなく、ついに海の藻屑と消えます。曰く、
「船遂ニ覆リ世傑溺ル。宋滅ビタリ」
文弱と誹られることの多い南宋の、四十年以上にも及ぶ抵抗の果ての、壮絶な幕切れでありました。
またその間、ユーラシアの東の端では、朝鮮半島の高麗がモンゴルの支配下に置かれ、一回目の日本侵攻、いわゆる「文永の役」が起きます(1274年)。
これについても語り出すと、また文字数が膨らんでしまいますし、それに詳しくご存知の方も多いかと思いますので、ここでは詳述はしません。
南宋の滅亡により、かの国と同盟してモンゴルに対抗するという道を絶たれた陳朝大越。そして、今日の南宋の運命は、明日の大越の運命か?
モンゴル帝国第五代皇帝となったフビライは1271年に国号を「元」と改め、江南地域を平定し終えた1276年、大越に六か条から成る要求を突きつけます。
1.国王自ら来朝すること。
2.国王の子弟を人質に出すこと。
3.戸籍を提出すること。
4.軍役を負担すること。
5.租税を貢納すること。
6.元が派遣する代官を受け入れること。
大越としては到底飲めるものではなく、さりとて「ふざけるな」と突っぱねることも出来ず、のらりくらりと言質を取られることを避けます。
これに対しフビライは、使者を送って聖宗に来朝を迫ります。ああ、そうそう、太宗は1258年に息子に譲位し、この時期の大越皇帝は第二代の聖宗です。
これ以上躱し続けるのは無理と判断した聖宗は、叔父にあたる陳遺愛という人物を派遣しますが、フビライは断固として聖宗自らの来朝を要求。フビライが派遣した使者の柴椿は、王宮に騎馬で乗り込み、非礼の限りを尽くします。
そこで我らが陳興道さんは、柴椿に面会し、非礼を諫めます。柴椿は彼を殺そうとしますが、興道さんは堂々とした振る舞いで付け入る隙を与えず、結局、柴椿は手を出せぬまま、興道さんを門まで送り届けたのでした。
聖宗は1278年に息子に譲位します。これが第三代皇帝・仁宗(1257~1308)。母親の元聖皇后は、陳興道の妹です。
翌1279年に南宋が完全に滅亡したのは先述の通りですが、この時、大越にもかなりの数の亡命者がやって来たようです。
そして1281年には、日本に対する二度目の元寇、「弘安の役」が起こされます。これについても詳述はしません。あしからず。
中国江南地方を手に入れ、さらに南海交易――いわゆる「海のシルクロード」の掌握を目論んだフビライ。大越を後回しにして、現在のベトナム中部から南部を治めていたチャンパ王国の征服に乗り出します。
フビライは十一男であるトガン(トゴン:?~1301)を鎮南王に封じ、チャンパ征服を命じます。
1283年、元将トアド率いる10万の軍勢がチャンパに侵攻、一時は首都ヴィジャヤ(現在のビンディン省)を占領しますが、その後もジャヤ・シンハヴァルマン王子(後のジャヤ・シンハヴァルマン三世:?~1307)はゲリラ戦で抵抗を続け、遠征軍は苦境に陥ります。
そこで元は大越に対し、今度はチャンパへの増援軍のために道を貸すよう要求してきます。大越がこれを拒むのも、前回の第一次侵攻と同様。そしてまた戦が始まります。
元軍を迎え撃つにあたり、仁宗は、陳興道を総司令官に任じました。
先述の通り、仁宗にとって陳興道は、父方で言えば父の従兄、母方で言えば母の兄。さらに、彼の妻である欽慈皇后は陳興道と天城公主の長女ですから、つまり舅でもあるのです。
まさに、頼れる親戚の伯父さんです。
陳興道は将兵の士気を高めるため、「諭諸裨将檄文」と題する檄文を書き、中国史上の忠義の士らを引き合いに出して、人々を鼓舞します。
一方、元は総大将トガンの下、1285年1月、大越への侵攻を開始します。その数、なんと総勢50万。
実はこの時すでに、チャンパの元軍は全て撤退してしまっているのですが、大越侵攻の方針は変わりません。
陳興道は北方国境で元軍を迎え撃ちますが、衆寡敵せず。首都・昇龍まで兵を退くと、首都の人々に食糧を根こそぎ持って逃げるよう命じます。元軍に現地調達をさせないための焦土作戦です。
そして、陳興道はさらに清化まで撤退します。
昇龍に迫った元軍。陳朝軍も首都を完全に無人にしていたわけではなく、ごく少数の守備兵を残していたのですが、もちろんひとたまりもなく、前回に続いて再び首都は陥落します。
この時、陳平仲(1259~1285)という若い武将が元の捕虜となります。
トガンは、わずかばかりの兵を率いて勇戦した彼を惜しみ、元に降るよう説得します。元で領地を与え王にしてやろうとまで言ったようです。
しかし、陳平仲は首を縦に振りません。曰く、
「我、生きて北(元)の王たるより、死して南(大越)の鬼たらん」
ここで言う「鬼」とは、日本風の角の生えた魔人のことではなく、中国風の幽霊のことでしょう。
トガンは大いに怒り、彼を処刑してしまいました。
ちなみに、この陳平仲という人物、本来の姓は「黎」と言います。「陳」姓は太宗の娘を娶った時に賜ったものです。そう、前話でちらっと触れた、黎輔陳こと黎秦の孫とは彼のことです。
さて、陳平仲のように最後まで節を曲げない者がいる一方、元に降る者も出てきます。
もちろん、その人一人だけのことではなく配下の将兵の命も預かっているわけですから、降伏するという決断を安易に責めるべきではないのでしょう。
とは言え、総大将にとっては頭の痛い問題ですが、陳興道は決して諦めることなく、抵抗を続けます。
兵民の苦境に心を痛めた仁宗が、これ以上抵抗して徒に血を流すより、降伏すべきではないだろうか、と苦衷を吐露したのに対し、興道さんはこう答えます。
「陛下の仰せはもとより人道の合するところ。しかし、降伏なさるのであれば、まず臣の首を刎ねていただきたい。臣がいるかぎり、我が国は決して滅びませぬ」
この言葉に突き動かされ、仁宗も徹底抗戦の決意を固めたのでした。
しかし、苦しい状況はなおも続きます。陳氏一族の中からさえも元に降伏するものが現れ、元はそんな中の一人、太宗の五男にあたる陳益稷という人物を安南国王に任じて、陳朝にゆさぶりを掛けます。
さらには、トアドが50万の兵を率いて、雲南からラオスを経てチャンパに入り、そこから転進して大越を挟撃する構えを見せ、いよいよ大越滅亡の危機が迫ります。
が、ここに来て、元軍の大軍ならではのウィークポイントが表面化してきます。
大越の人々が食糧を持って逃げてしまったこともあって、兵糧の確保が追い付かなくなってきたのです。
陳朝軍はゲリラ戦でじわじわと元軍を痛めつけ、次第に風向きが変わり始めます。
同年5月になると、陳興道率いる陳朝軍は紅河デルタでの戦いで優位に立ち、元軍を押し返します。
また、海から侵入してきた元の水軍も撃退し、ついに首都・昇龍を奪還。
この一連の戦いで、元の総管・張顕は降伏、トアドは戦死、ウマル将軍は敗走。総大将トガンは青銅製の棺の中に隠れて逃げ帰ったとかいう話も伝わっています。陳朝は元軍の捕虜5万を得ます(ただし、この数には誇張があるとの見方もあるようですが)。
仁宗は昇龍に帰還、翌年1286年には元軍の捕虜を国に還します。
将官は厳しく処罰するも、一般兵には危害を加えず送り返したというこのエピソードは、今なおベトナムの人たちが誇りとするところなのだとか。
かくして、モンゴル帝国の第二次侵攻も、陳朝大越の奮戦の前に、再び失敗に終わったのでした。