ただで通れると思ったか~第一次モンゴル軍侵攻~
愛する従妹と結ばれ、ラブラブ新婚生活を送る陳興道こと国峻くん。しかし、そうしている間にも、モンゴル帝国のユーラシア征服は着々と進んでいきます。
モンゴル帝国第三代皇帝グユク(1206~1248)の死後、3年間に渡る帝位継承争いの末、トゥルイ(チンギス汗の四男)の長男であるモンケ(1209~1259)が第四代皇帝に即位。
これが1251年ですから、丁度、国峻くんが天城公主と結ばれたのと同じ年ですね。
モンケは即位後、二人の弟フビライ(クビライ:1215~1294)とフラグ(フレグ:1218~1265)を、それぞれ東西遠征の総司令官に任じます。
フラグの西方面遠征については、拙作「ときもあ」でも触れました。今回は東方面のフビライがメインとなります。
東方面の最大の標的は南宋。それに先立って、フビライがまず征服を目論んだのが、現在の雲南地方を版図とする大理国です。
チンギス汗(1162?~1227)の覇業を支えた四狗の一人に名を連ねるスベタイの子・ウリヤンカダイ(ウリヤンハタイ:1200~1271)らの諸将を率い、1253年に侵攻を開始します。
日本では大理石の名前の由来として辛うじて名を留める大理国ですが、始祖はチベット系白族出身の段思平(894~944)という人物。
香港の武侠小説家・金庸先生(1924~2018)の作品、「天龍八部」や「射鵰三部作」では、王族の段氏は皆拳法の達人なのですが、残念ながら現実ではそんなわけもなく、翌1254年にはモンゴルに降伏します。
まったくの余談ですが、金庸先生の武侠小説は面白いですよ。
「なろう」でお馴染みの、これといって取柄もない少年がひょんなことからチート能力を手にして無双する展開。武侠小説ですから、武術の秘奥義だったり超絶功夫だったりするわけですが、ほとんどの作品がこのパターン。「俺また何かやっちゃいましたか?」系の無自覚無双もしばしば登場します。
もちろん(?)ハーレム展開の作品もありますが、このヒロインたちが、ツンデレ、クーデレ、ヤンデレ、性悪と、なんでもござれ。寝取られもあるよ。
あと、「天龍八部」の主人公・段誉の父親というのがとんでもないハーレム野郎で、主人公の異母姉妹がぽんぽん登場する――というか、ヒロインのほとんどが異母姉妹という地獄絵図です(笑)。
これらの作品が執筆されたのが1955年から1970年にかけての時代というのですから、恐れ入ります。
ご興味が湧いた方は是非ご一読を(ダイマ)。
閑話休題。
雲南の複雑な地形や疫病に苦しめられながらも、大理国を征服したフビライ。
そこで戦後処理をウリヤンカダイに委ね、一旦本拠地の金蓮川(モンゴル高原南部)に引き上げたことがモンケの不興を買い、一時更迭されるといった一幕もあったのですが、何はともあれ、これでモンゴル帝国は南宋を南から攻めるための橋頭堡を得ます。
そして次なる標的とされたのが大越。目的は恒久的征服というより、あくまで南宋攻略のための進軍路の確保ということではあるのですが、とは言え、通してください、はいどうぞ、というわけにはいきません。
1257年、フビライから3万の軍勢を預かったウリヤンカダイは、三度に渡って太宗に降伏勧告の使者を送りますが、太宗はこれを投獄、抗戦の意を示します。そして、武器を用意し民兵を組織、モンゴルの侵攻に備えます。
元々、陳朝大越の兵制は、普段は農耕に勤しみ、いざ事が起きれば武器を取って戦うという、屯田兵的なものだったようです。
太宗は諸将に各地の守りを固めさせ、陳興道も北方の守りにつくよう命じられます。
翌1258年1月、ウリヤンカダイは3万の軍勢を率いて大越に侵攻、紅河(ホン川)沿いに軍を進めます。一方、太宗自ら率いる陳朝軍は平厲源(現在のヴィンフク省)に防衛線を敷いてこれを迎え撃ちます。
激しい戦闘の末、陳朝軍はモンゴル軍の猛攻を支えきれなくなり、太宗は撤退を決意。首都昇龍(現在のハノイ)も放棄し、南の天幕地方(現在のハナム省)まで後退します。
ここでいささか弱気の虫に憑りつかれた太宗。そんな彼を叱咤激励したのが、陳一族の長老である陳守度でした。
太宗に意見を求められた彼は、こう答えます。
「臣の頭はまだ地に落ちておりませぬ。陛下は心配なさいませぬよう」
陳守度という人物、李朝を簒奪して恵宗を死に追いやり、李氏の皇族たちも粛清し、その上、恵宗の皇后だった順貞皇后(陳嗣慶の妹で、陳守度にとっては又従姉妹)を我が物にするなど、無道の誹りを免れないのですが、国難に断固として立ち向かう気骨は持ち合わせていたようです。
首都昇龍を占領したモンゴル軍ですが、住民の抵抗、兵糧調達の困難、冬でもなお彼らにとっては暑すぎる気候など、諸々の悪条件に直面し、ついにウリヤンカダイは撤退を決意します。
元々、南宋攻略のために道を借りるだけで、長期にわたって占領する気は薄かったわけですしね。
しかし、陳朝軍もあっさり撤退を許したりはしません。ここぞとばかりにモンゴル軍に襲い掛かります。
戦場になったのは、紅河沿岸の東歩頭(現在のハノイ市内)。激しい戦闘の末、ついに陳朝軍はモンゴル軍を撤退ではなく敗走に追い込んだのでした。
さらに、各地の守りについていた諸将、陳興道や何俸といった人たちも追撃戦に加わり、モンゴル軍にさらなる損害を与えます。
かくして、一旦は首都を明け渡しながらも、見事モンゴル軍を撃退した陳朝軍。
その中で、軍功第一等とされたのは、陳興道――ではなく、黎秦という将軍でした。
李朝に先立つ前黎朝の始祖・黎桓の血を引くという彼は、平厲源からの撤退戦において、太宗から殿軍を任され、見事その任を全う、自らも無事生還したのです。
撤退戦で敵の追撃を食い止め、友軍を無事退却させてから、自らも敵を振り切り退却するという殿軍の役目は、極めて危険と困難を伴うもの。
日本史の例で言っても、浅井長政の離反により朝倉領内で窮地に立たされた織田信長の撤退戦、いわゆる「金ヶ崎の退き口」において、殿軍を務めた木下藤吉郎や明智光秀らが、その後信長の篤い信頼を勝ち得たことは、ご存知の方も多いことでしょう。
黎秦は太宗から、御使大夫の官職と、「黎輔陳」の名を賜ります。もちろん、「陳王家を輔ける」という意味です。
それともう一つ。彼は昭聖公主という女性も賜り、妻とします。かつては昭皇帝・昭皇皇后と呼ばれていた女性。――そう、他でもない、李朝最後の女帝にして陳朝最初の皇后だったあの人です。
黎秦の生没年は不明なのですが、彼の孫だという人物が1259年生まれなので、この時の年齢はどんなに若く見積もっても三十歳前後。逆に、すでにかなり高齢だった可能性もなくはないものの、おそらくは昭聖公主と同じぐらいの年齢だったと見ていいでしょう。
陳守度の策謀により、わずか七歳で皇帝にされ、翌年には太宗と結婚、その翌年には帝位と国を譲らされ、父をはじめ一族は姉以外殺され、さらには二十歳にもならぬうちに、子供が出来ないからという理不尽な理由で姉と挿げ替えられるという、波乱の人生を歩んできた彼女。
救国の功臣とはいえ、家臣に嫁がされるのは決して嬉しいことではなかったかもしれませんが、黎輔陳との間には一男一女をもうけることができたようで、その後1278年に六十年の生涯を閉じます。
一方、彼女の姉の順天公主も、最初陳興道の父・陳柳に嫁がされた後、おそらくは陳柳を暴発させるために、離婚させられ妹の代わりに太宗の皇后にされるという、数奇な人生を辿ります。
太宗との間には陳朝第二代・聖宗をはじめ、子宝に恵まれはしたようですが、1248年に三十歳そこそこの若さでこの世を去っています。
運命に――というか、権力闘争という名の魔物に、翻弄され通しの生涯を送った李家の姉妹。はたして彼女たちの人生の最期には、どのような想いが去来していたのでしょうね。
さて、モンゴルの侵攻に対し勝利を収めた陳朝ではありますが、強大なモンゴル帝国を完全に敵に回してしまうのは無茶というもの。
紆余曲折ありつつも、モンゴルを宗主国と認め、朝貢することで、両国の間に一応の平和が訪れました。ちなみにこの交渉には、黎輔陳も使者に立っています。
が、もちろん仮初めの平和は長くは続きません。
日本に対する二度の元寇(1274年文永の役、1281年弘安の役)や1279年の宋王朝滅亡などを経て、1284年、ふたたび戦端が開かれます。
そして、陳興道さんは、総司令官としてこの戦いに臨むことになるのです。