きっと卒業的なサムシング~ベトナム史概説と陳興道の前半生~
全四話構成。毎朝8時から9時の間ぐらいに投稿する予定です。よろしくお願いします。
「モンゴル軍の侵略を撃退したのは世界中で日本だけだ!」
「いやいや、全然そんなことないから!」
このような論争(?)をご覧になったことはおありでしょうか。
まず結論から言えば、モンゴル軍はロシアや東欧では向かうところ敵なしで暴れ回りましたが、それ以外の地域――日本も含め――では結構負けています。
拙作「悲劇の女性スルタン・ラズィーヤ」で取り上げた奴隷王朝(インドマムルーク朝)においても、第九代スルタン・バルバン(?~1287)やその従兄弟にあたるシェール・ハーン将軍(?~1271)らが、モンゴルの侵攻を食い止めています。まあ、それほど大規模な侵攻は企てられなかったようですが。
そんな中でも、モンゴル軍撃退の英雄として名を良く知られているのが、タイトルに挙げた二人。エジプトマムルーク朝のバイバルス(1223または1228~1277)と、ベトナム陳朝の陳興道(1228~1300)です。
主要人名の後の数字〇○~〇○は、例によって生没年です。以下同じ。バイバルスの生年1228年説を採るなら、奇しくも二人は同い年なんですね。
バイバルス君については、拙作「捉えられ奴隷にされた俺、軍人として頭角を現し十字軍を撃滅するも、危険視されて追放される。モンゴル軍が攻めてきたから戻って来てくれ? ああ、戻ってやるとも(ニヤリ)。」(略称「ときもあ」)をお読みいただくとして、本稿ではもう一人の英雄、陳興道さんを取り上げます。
何でバイバルスは「君」で陳興道は「さん」なのかって? いえ、他意はないのですが……、強いて言うなら、対モンゴル戦で活躍した時の年齢でしょうか。
バイバルスはアイン・ジャールートの戦いの時点で三十そこそこ、一方の陳興道は、第二次、第三次のモンゴル軍侵攻を総司令官として迎え撃った時は五十代なもんですから。
もっとも、バイバルスも、それ以降も生涯かけてモンゴル(イル汗国)と戦い続けて勝利を重ねていますし、一方、陳興道も、第一次侵攻時にも三十そこそこで一武将として奮戦してはいるんですけどね。
さて、皆様、ベトナムの歴史はどの程度ご存知ですか? 全然知らないわ、という方も多いことと思います。ベトナム戦争関連のあたりなら多少知っている、という方もいらっしゃるでしょう。
あと、最近では、FGOというゲームに徴姉妹というキャラクターが登場するらしい(未プレイです、すみません)ので、彼女たちの元ネタに興味を持たれた方もいらっしゃるかも知れません。
徴姉妹、ベトナムで言うところのハイ・バ・チュン(「二人のチュン夫人」の意)こと、徴側さん(?~43)と徴弐ちゃん(?~43)姉妹は、後漢時代の中国の圧政に対して蜂起した人たちです。人呼んで、「ベトナムのジャンヌ=ダルク」。
徴側さんの夫が漢の役人に殺されたのをきっかけに……というのはどうやら俗説らしく、実際は課税を巡る衝突が発端だったようです。夫が健在であるにもかかわらず彼女たちが蜂起の旗頭になったのは、当時のベトナムが女系社会だったから。
彼女たちの蜂起は当初幅広い支持を集め、六十五県もの地域の土豪たちが呼応しました。
一方、当時の漢の皇帝は、近年人気急上昇中の光武帝(前5~57)。まあ、私自身、好きな歴史上の人物の一人ではあるのですが……。名将・馬援(前14~49)を派遣し、蜂起を鎮圧しようとします。ちなみに、三国志の蜀漢の武将・馬超(176~222)は馬援の子孫だと言われていますね。
馬援率いる漢軍はベトナムの風土や疫病に悩まされるのですが、徴姉妹の側でも、土豪たちが手のひらを返すのではないかという不安から、短期決戦を挑もうとし、結果、これが裏目に出ます。
武運拙く決戦に敗れた徴姉妹に対する追及の手は厳しく、結局彼女たちは捕らえられて斬られたとも、手を取り合って川に身を投げたとも言われています。
彼女たちについても、どなたか小説に書いていただけたら大変嬉しいのですが(他力本願)。できれば結末は、川に身を投げたが実は生き延びた、という方向性で。
少々脱線しましたが、まあそんなわけで、ベトナムの歴史は北方からの圧迫に対する、服従と抵抗の繰り返し。モンゴル帝国が台頭してくると、南宋を南から攻めるためのルート確保とか、南海交易への進出とか、諸々の理由でベトナムへの侵攻を開始します。
これを迎え撃ち、見事撃退したのが、本稿の主人公、陳興道さんなのです。
ではまず、陳興道さんの生い立ちと、そこに至るまでのベトナムの歴史を見ていきましょう。
千年の長きにわたり中国の支配下に置かれていたベトナムも、874年から884年にかけての黄巣の乱による唐王朝の実質的滅亡を契機に、独立への道を歩み始めるのですが、一筋縄では行きません。各地に割拠した勢力が、親中国派と反中国派に分かれて争いを繰り広げます。
そんな中、反中国派である群雄の一人・呉権(897~944)が、938年に白藤江という川で南漢(唐と宋の間の五代十国時代の、十国の一つ)の水軍を打ち破り、諸勢力をまとめ上げて翌939年に呉朝を建てるのですが、残念ながら短命政権に終わり、再び群雄割拠の戦国時代となります。
十二使君と呼ばれる有力者たちが割拠したことから、「十二使君の乱」とも呼ばれる戦国乱世を制したのは、農民上がりで十二使君の中にも数えられていなかった丁部領(924~979)という人物。
しかし、彼が968年に建てた丁朝も長くは続かず、丁朝の将軍だった黎桓(941~1005)が980年に前黎朝を建国。何故「前」が付くかというと、後の時代に「後黎朝」というのもあるからです。
が、この王朝もまたしても短命に終わり、1009年に成立した李朝でようやく長期政権の樹立となりました。
李朝初代・太祖(974~1028)が定めた国号は「大越」です。
そうそう、ここまで「ベトナム」と書いてきましたが、実際には、現在のベトナム国の北部、トンキンデルタ(紅河デルタ)を中心とする地域です。中部から南部にかけてはチャンパ(占城)王国という国が治めており、さらに南の端、メコンデルタのあたりは、この当時クメール王国(現在のカンボジアの前身)の領土でした。
北部の方が、現在ベトナム国の人口の85%以上を占めるキン族(ベト族)の国家なので、ベトナム史というとこちらを中心に語られることが多いようです。チャンパは、チャム族という、今日ではカンボジアやベトナムの中南部などに居住する民族を中心とする国家です。
陳興道は、この李朝の重臣である陳柳(1211~1251)という人物の子として生まれます。本名は陳国峻。「陳興道」というのは、後に「興道王」に封じられたことに由来するものです。
本来ならば、「陳国峻」と呼ぶ方が正しいのでしょうが、「陳興道」の方が広く知られている(Wikiの記事もこれで立っています)ため、原則として「陳興道」と呼ぶことにします。と言いつつ、特に序盤は「国峻くん」などと呼んだりもしますが(笑)。
ちなみに、陳氏は元々、中国の福建もしくは桂州からの移住者だったようです。漁業と水運業で生計を立てる傍ら、海賊まがいのこともしていたとの伝承もあるようですが、反乱鎮圧で功を立て、李朝の帝室と婚姻関係を結んで、外戚として力を揮うようになりました。
陳興道の祖父の又従弟にあたる人物に陳守度(1194~1264)という人がおり、やはり李朝の重臣だったのですが、彼が李朝を簒奪、陳柳の弟を新王朝――国号はそのまま「大越」――の皇帝に立てます(1226年)。これが、陳朝大越初代皇帝・太宗(1218~1277)です。
正直このあたり、何故陳守度は自ら帝位につかなかったのか、とか、又従兄の子を皇帝にして影の実力者となるにしても、何故兄ではなく弟の方だったのか、とか、色々謎なのですが。ちなみに、陳柳と太宗は同腹の兄弟です。
一説には、兄弟の叔父にあたる陳嗣慶(?~1224)の時にすでに権力は李氏から陳氏に移っており、陳守度は皇族としての立場から、実質的初代皇帝・陳嗣慶の兄の子(それも年少で傀儡にし易そうな方)を擁立した、という見方もあるようです。
陳守度のWiki英語版記事には、彼を中国・清王朝のドルゴン(1612~1650)になぞらえるような記述がありますが、言われてみれば確かに、よく似た立ち位置な気はしますね。
陳守度は、陳柳と太宗の兄弟に、李朝第八代皇帝・恵宗(1194~1226)の長女と次女をそれぞれ娶せます。
ちなみに、次女・李昭皇(1218~1278)は、陳守度によってわずか七歳で第九代皇帝に擁立され、李朝最後の皇帝となりました。そしてその後、太宗に禅譲し(させられ)て、陳朝最初の皇后となります。
彼女たち以外の李氏一族は、陳守度の手で粛清されます。完全に皆殺しにされたわけではないようですが。
なお、陳柳に嫁いだ恵宗の長女・順天公主(1216~1248)ですが、陳興道の生母ではありません。
皇帝の兄として弟を補佐していた陳柳ですが、1236年、李朝の後宮にいた女性に手を付けたという嫌疑を掛けられ、失脚させられます。
さらにその翌年には、太宗に嫁いだ李昭皇に子供が生まれなかったことから、妻も取り上げられ弟の新たな皇后にされてしまうという屈辱を味わわされます。お腹に子供がいたにもかかわらずです(この子は長じて陳国康と名乗ります。陳興道の異母弟ですが、太宗の庶長子扱いとされたようです)。
堪忍袋の緒が切れた陳柳さん、怒りに任せて挙兵するも、これぞ陳守度の思う壺。あっさり鎮圧されて、太宗の取りなしで処刑こそ免れたものの、恨みを抱いて憤死します。
そんな経緯で、陳守度と彼に牛耳られた朝廷に含むところのあった国峻くん。1250年に朝廷から興道王に封じられるのですが……。
「大越史記全書」という史書によると、その翌年、皇族の一人・忠誠王と婚約が成立していた太宗の妹・天城公主(1235~1288)という女性を、強引に奪って妻としてしまいます。
ちょ、ちょっと待って。それってつまり陳柳の妹でもあるわけで、国峻くんにとっては叔母さんってことだよね?
いえいえ、安心してください。天城公主のWikiベトナム語版記事によると、太宗の娘説もあり、むしろそちらの方が有力なようです。それなら国峻くんとは従兄妹同士ということで、無問題。
儒教的には同姓の従兄妹は本当は駄目? 細けえことはいいんだよ。というか、太宗の息子である陳朝第二代皇帝・聖宗(1240~1290)も陳興道の妹を皇后にしていますし、当時のベトナムにはそういったタブーは無かったようです。
それにしても、「大越史記全書」という書物、陳守度についても太宗の「従叔(親の従弟。実際には又従弟ですが)」という記述と「叔父(親の弟)」という記述が混在していたりと、若干混乱が見られるみたいなんですよね。
え。たとえ従妹でも、他人の婚約者を横取りしちゃ駄目だろうって?
いや、そこはそれ、元々従兄妹同士で幼馴染の二人ですから、以前から愛し合ってたんですよ、きっと。
でもって、天城公主の意に反した婚約を決められてしまったのを、国峻くんがダスティン=ホフマンばりに攫って行ったとか、そういうイメージで……。まあ、あくまでイメージです。実際に連れて逃げたわけではありませんが。
陳興道のWiki中国語版記事には、この「桃色事件(!)」についてもう少し詳しい記述があります。
それによると、太宗が天城公主と忠誠王の結婚を決め、婚約者の父親の邸宅に預けていたところ、ある夜国峻くんが夜ば……忍んで行きます。
そのことが発覚し、騒動になるのですが、国峻くんの供述によると、「前々から彼女のことが好きだった」とのこと。よかった。太宗への当てつけとかじゃなかったんだね。
その後、陳柳・太宗兄弟の妹で陳興道の養母でもあった瑞婆公主という女性の取りなしなどもあって、結局、彼と天城公主の結婚は認められたのでした。
天城公主本人の気持ちがどうだったのか、という点は想像するしかないのですが、「容姿優れ、学問を修め、文武に才あり」と史書にも記されたほどのスーパーお従兄ちゃんですからね。憎からず思っていたに違いありません。知らんけど。
婚約者を寝〇られた忠誠王くんがその後どうなったのかは気になるところですが、その後の消息は不明です。
あと、陳興道は叔母に養育されたとかさらりと書いてあるのですが、生母は早くに亡くなってしまったのでしょうか。そのあたりも詳しいところはわかりません。
さて、次話ではいよいよ、モンゴル帝国と陳朝大越との攻防戦が始まります。
陳興道さんは愛妻とのラブラブ結婚生活を守り抜くことができるのか? 乞うご期待!
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下に陳朝の略系図を載せておきます。上手く表示されないようでしたら申し訳ありません。
拡大していただけば、多分PCでなら大丈夫だと思うのですが、スマホだとちょっと潰れてしまうかも……。
初っ端から、陳興道の人物像に妙なバイアスがかかってしまいそうなネタをぶっ込んでしまいましたが、れっきとした史書に書いてあるんだから仕方ないよね(開き直り)。
まあ次話から……少なくとも次々話からは、格好よく活躍してくれるはずなので……。
そうそう、Wikiの他言語版によると云々、とか書いてますが、もちろんGoogle翻訳さんのお世話になっています。そのままじゃ読めません。念のため。
ところで、平井の歴史エッセイの定番となりつつある、主要人名の後に生没年を記載するスタイルなのですが、皆様いかがでしょうか。
私自身、「この出来事の時点では意外と若かったんだな」とか、「この人とこの人、意外と年齢近いんだなあ」とか、「もうこの後あまり寿命は残されてないのか」とか、いろいろ発見があり、良いと思っているのですが。
「うっとうしい」、「目が滑る」、「登場するなり『この人物は何年に亡くなる』とか書かれるのはある意味ネタバレ」等々、ご意見をお寄せいただけたら嬉しいですm(_ _)m