時刻119 異世界言語
先週とは打って変わり、つつがなく二週目が過ぎ去った頃。
三週目の学校生活が始まったトキヤは、慣れ始めたこの教室でぼーっと考え事にふけっていた。
アユムとケリーのこと。
一週、そして二週目も続いたシスティア、クライアと請け負ったギルドの緊急依頼。
ガンズが調査隊長を辞めたこと。
そして、スロウンのキャッチセールス事件……は、どうでもいい問題か。
様々な問題が山積みとなっているが、どれも今すぐどうこうできるものでもない。ただ一つを除いては。
先日聞いた、ガンズが調査隊の隊長を辞めたことだ。トキヤはこれに対し、何一つ触れることすらできなかった。部外者は黙ってろと言われればそれまでだが、あのとき何か一つだけでも言える言葉はあったんじゃないか? と頭を悩ませる。
とはいえ、トキヤがガンズのことをほとんど知らないのは事実。ただそれでも、何かしらの力になりたい。お節介だとしても、あんなガンズの姿を見たくはなかった。
「――ヅキ君、ホシヅキ君」
「……あ、フレイヤ? どうした?」
「ど、どうしたじゃなくて……えっと、その……前」
言われるがままトキヤは前を向いてみると、みるみる内に顔が青ざめていく。なぜならそこには、満面の笑みを浮かべたフリズベルが教鞭代わりに長銃をポンポンと叩いていたからだ。
「トキヤ少年。そーんなにわたしの授業がつまらんか?」
「いっ、いえっ! 滅相もありませんっ!」
「ほんとうかぁ?」
「イ、イエス! マムッ!」
起立し、謎の敬礼ポーズ。その直後だ、教室に救いの鐘である授業終了のチャイムが鳴り響いた。
「……まあいいだろう、わたしも鬼じゃないから許そう。だが、もし次があったとしたら――」
「こ、心得ております!」
「よろしい」
チャキっと長銃が小さな背中へと回り、トキヤは事なきを得る。
少しだけ舌足らずで、あんなに可愛らしい姿と声なのに……。長銃を手に凄まれれば生きた心地がしない。
「今日はここまでだ。各自、用がないならさっさと下校しろ」
ホームルームらしいホームルームもなく、フリズベルはそう告げると教室から去っていく。
今日はこれで終わりのようだ。クラスメートたちも帰り支度を始めている。
そういえば、先日の出来事でフリズベルとガンズが知り合いだということが分かった。ガンズは過去に教師をしており、同僚だったという話。
彼のことについて聞くならば、フリズベルはこれ以上ないくらいの理想の人物だ。問題があるとすれば、『関わるな』と言われていることだろう。そして、それとは別にもう一つ――トキヤはフリズベルをある人物ではないかと訝しんでいた。黒の姫君ではないかと。
第一として、訝しむ理由は先日の会話内容だ。
『墓地にいたのなら知らないわけがないはずだ。フローレンス家の居候として、あの町にいたお前なら。先日、あいつが請負った任務で何が起こったか』
墓地での会話から、フリズベルとガンズの間柄はあまり良くないように見えた。そんな仲なのに、近況の話を彼女にするだろうか?
第二に、背格好がある程度似通っている。闇魔法は使えないと言っていたが、現に使用したところも確認済みだ。つまり、トキヤの中で今、フリズベルは一番黒の姫君に近い人物。
「いや……でもなぁ、奴がフリズベル先生なわけ……。システィとジョシュアさんの先生だぜ? うっかりミスでも言うかな」
様々な要因が重なるのは事実だ。ガンズのことについてもだが、話してみる価値はある。
まず何か話しやすい話題から。勉強について分からないところがある、そういうことからそれとなく聞いてみよう。
トキヤは思い立ち、未だ机の上に広げられた教科書を見つめると、強烈な既視感に襲われる。
いや、既視感ではない。完全な現実味を帯びた文字列に目を疑った。
「あ、あれ? ここって確か異世界……なのに、なんでこの文字が使われてんだ?」
教科書の一面に敷き詰められたそれは、トキヤが現実世界で日常的に使っている日本語とまったく同一のもの。一体、どうして?
思い返してみれば、ジョシュアからもらった時魔法が書かれた紙も、推薦状も全て日本語だった。あまりにも日常的すぎて、今の今まで気づかなかった。
「? ……ホシヅキ君、帰らないの?」
「フレイヤ! ちょうどよかった! あのさ、この文字っていつから使われてるか知ってるか?」
「えっ?」
ひらがな、カタカナ、漢字を指差してみるが、フレイヤは表情を申し訳なさそうに変える。
「ご、ごめんなさい、勉強不足で……。いつから使われてるのかっていうのはちょっと……そんなの初めて聞かれたから……」
「そ、そっか……いや、そりゃそうだ。俺の方こそ、悪い」
トキヤだってかつて過ごしてきた社会の中で同じことを聞かれても、答えるのは無理だった。だが、これはこれで使える。分からないことができたのだから。
「ちょっと先生に聞いてくる!」
「えっ……? あ、じゃ、じゃあ……その……」
私も一緒に。フレイヤがそう続けた時には既に、トキヤは教室から出て行ってしまった後だった。
「あう……行っちゃった。私も聞きたかったな……ん?」
乱雑に放置されたトキヤの教科書。他の荷物もまだ置かれたままだ。つまり、またここに戻ってくるということ。
「余計なこと……かな。けど、そんなこと言う人じゃない……よね?」
フレイヤは教科書を畳むと、極力プライバシーを侵害しないようにトキヤの帰りの支度を調えるのであった。
§ 騎士魔法学校 職員室前
文字が分かる。言葉すらも通じている。これらの言語がいつ頃から使われ始めたのか、トキヤの世界と何らかの関わりがあるのか? いや、そもそも転移という超常現象が起こったのだ。知らず知らずのうちに全知全能の神の力によって、異世界の文字が日本語として認識できているだけかもしれない。トキヤがここにいるということ自体が一種のイレギュラーであり、本来起こりえないことなのだから。
「とりあえず、先生に聞いてみれば何か……」
失礼します、と一言。トキヤは職員室の扉を開けると、フリズベルの姿を探す。
その中で強い違和感を放つ光景の中に彼女はいた。
「~♪」
鼻歌交じりに職員室で長銃の手入れをしている幼子。
あまりに現実離れしているが、もはやそれについて言及するつもりはない。ここはそういう世界なのだと、納得する。
トキヤがフリズベルに近づくと、彼女も気づき、顔を上げた。
「……? トキヤか。職員室に来るなんてどうした? 先の授業でのことなら、わたしは呼び出したつもりはないが」
「そ、それとは別件で……。ちょっと聞きたいことがあるんです」
「ふぅん? 言ってみろ」
今現在使われている文字、言語がいつ頃から使われているのか。フレイヤにもしたこの質問を投げかけると、フリズベルもまた同様に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「すまん、わたしも歴史を専攻していたわけではなくてな……。この国ができる前から使われていたというのは分かるんだが」
「そうですか……先生でも」
「先生としての立場上、不甲斐なさを感じるよ。他の人物を紹介したいところだが、あいにく歴史に精通している教師もそういないのが現状でな。他のことでわたしが知っていることならなんでも話してやるが――」
「! 本当ですか⁉」
「あ、ああ……。わたしに分かる範囲ならな……」
食い気味なトキヤに若干フリズベルは気圧され、苦笑を浮かべる。
この異世界でなぜ日本語が使われているかは分からなかったが、代わりに有力な言質を得る。『知っていることならなんでも……』という言質を。
「それじゃあ、ガンズ隊長のことを聞かせてもらえませんか」
「……は?」
「え、えっと……その……ガンズ隊長のことを」
歴史のことからいきなりそんな話に飛ぶとは思わなかった。フリズベルは頭を抱える。
場所を変えようか。彼女は続けざまにそう言うと、トキヤを職員室から連れ出した。
幼子に連れられるのは何度目か。オレンジ色が眩しい中庭の回廊を二人は進む。
「奴に関わるな。わたしはそう言ったと記憶しているが、どうしてそんなに構おうとする?」
「今のガンズ隊長を見て、先生こそ何も思わないんですか? 元同僚だったんですよね」
「思うところはある。だが、今質問しているのはわたしだ」
「すみません……。俺はただ、何かできることがあったんじゃないかって」
けれども何もできなかった。何も告げられなかった。ガンズのことを、何も知らなかったから。
「……トキヤ。お前は自分が誰もを救える人間だと思っているのか?」
「それは……思いません。けど、俺の手が。この手が届く範囲の人たちを救えるなら、救いたいと思っています。烏滸がましいとは思いますけど……」
「ジョシュアの教えか……」
放課後の廊下にもう人の姿はない。フリズベルが立ち止まり、くるりと振り向くと、その顔は影と斜陽で二分されていた。
「ある生徒が課外授業の際に亡くなった」
「え……」
「ガンドレッドのことを聞きたいんだろう? 死んだんだよ、あいつが受け持った授業で、生徒が」
墓地で、確かにフリズベルは言っていた。ガンズを慕っていた生徒が死んだと。
「なんでそんなことに」
「授業中、強力な魔物が現れた。奴は他の生徒たちを逃がすため、殿を務める予定だったんだが、運悪くその場に野草を摘みに来ていた民間人が居合わせていてな。幸い、その民間人はガンドレッドによって救われたが、代わりに一人の生徒が犠牲になった」
「そんな! なんで危険な場所なのに民間人が……」
トキヤは自身の言った言葉で、胸に強い痛みが走る。
同じだった。トキヤも危険な場所だと分かっていたくせに、槍を落としたから、少しでも強くなりたいからとフローレンス近辺の森へ一人で足を踏み入れた。その結果があれだ。
「民間人にも事情があった。危険でもゼルを稼がなければ、生きてはいけんからな。悪いのは魔物で、その場にいた者は誰も悪くなかった。けれど、それをきっかけに奴は教師を辞めたよ。自分が許せなかったんだろうな」
「……」
「それから調査隊に入った後は、取り憑かれたように魔物を殺し回っていた。まるで自分の死に場所を探すようにな」
「死に場所を……」
「ああ。だが、現実に死が訪れたのは奴にではなく、部下の方だったが。いつしかガンドレッドには死神が取り憑いていると囁かれていたが、業務上、死人が出ることは珍しくない。それどころか、他が嫌がる危険な任務を優先して行っていたのだから、死亡率が高いなんて当然のことだった。もし他がやれば全滅必至なところを、奴は常に生き残り、他の誰が死んだとしても任務を完遂させた。……先日の任務でもな」
「……フリッツ」
「ああ、あいつが調査隊を辞める原因になった子だな。あの子も騎士魔法学校出身で、課外授業中に亡くなった生徒、マルクとあまり変わらん歳だった」
「……やっぱ詳しいんですね、ガンズ隊長のこと」
「これでも奴とは長い間友人をやっているからな」
近況すらもこれほどまでに詳しい。その言葉から、全ての事情はガンズから直接聞いたのだと見て取れる。それは同時にトキヤのフリズベル黒の姫君説を瓦解させた。
けれども、それならばならばなぜ、墓地ではあんなにもガンズに辛辣だったのか。トキヤに関わるなと言ったのか。
言質を取ったとはいえ、卑怯な手段を用いたことに変わりはない。本当に関わらせたくないのなら、まともに取り合わないことだってできたはずだった。なのに、どうして。
「どうしてこんなに話してくれるのか。そんな顔をしているな」
「えっ?」
「隠さんでいい。関わるなと言ったのに、なんでと思う気持ちはよく分かる。実際、奴に関わったところで、ロクなことにならんかったのは分かっていたからだ」
「ロクなことって――」
「まぁ、それもお前たちの関係性を知らなかったが故だ。それにわたしも、お前と同じように奴がこのままで良いとは思っていない。今回話したのは、もしかしたらお前なら――」
フリズベルはその背の都合上、トキヤの腕をポンとだけ叩くと、「ガンドレッドの心の闇を、少しだけ取り除けるかもしれない。そう思っただけだ」と続け、そのまま横を通り過ぎる。
「それにしても、お前は物好きだな。あんなおっさんのためにそこまでの情熱を注げるなんて」
トキヤは振り向くと、去り行くフリズベルの背中に大きな声をぶつけた。
「俺、救われたんです! ガンズ隊長たちに!」
「……そうか。だろうな」
じゃないと、そこまでしない。フリズベルは夕空色の顔を半分だけ振り向かせ、微笑む。
「今日はもう帰れ。お前のせいで、わたしの仕事は山積みだ」
「あ、す、すみません! あの先生、本当にありがとうございました!」
深々とお辞儀をするトキヤに、背を向けたまま「じゃあな」とフリズベルは手を振る。
トキヤが顔を上げたときにはもうフリズベルの姿はなく、空はいつしかオレンジ色から、朱色に染まりかけていた。
帰ろう。聞きたいことはもう充分聞いた。
荷物を残していた教室へトキヤは戻ると、机で小さく寝息を立てていた意外な人物に驚き声を上げる。
「え? フ、フレイヤ⁉」
「ふにゃ? ふぁ……あ。あれ、ホシヅキく……ん……。……えっ⁉ やだ、私寝てた……?」
「あ、ああ。おはよ……じゃなくて! 帰ってなかったのか⁉」
「う、うん……すぐに戻ってくると思って……」
「マジ、かよ……悪いことをしちまった」
「き、気にしないで! 私が勝手に待ってただけ……だから」
そうは言うものの、罪悪感が沸いてしまうのが人の性だ。有益な話は聞けたが、フレイヤが待っていることを知っていたらもう少しやりようがあっただろうに。
「あれ? それ、俺のかばん?」
机の上に置かれている、帰り支度の整えられたかばんをトキヤは指差す。
「あ、ご、ごめん……。すぐに帰れるよう用意だけでもと思って……。余計なお世話だったかもしれないけど……。あ、あぁぁぁ……! 中身とかそういうプライベートなのは見てないから! ちゃんと安心して……ください!」
「い、いや! 別に見られて困るようなものとか入ってないから!」
そう言われると後ろめたい気持ちになるのはなぜだろうか。この世界に見られて困るものは持ってきていないのに。
二人は互いに慌てながら、生徒のほとんどがいなくなった学校から下校することになった。
§ 王都ブルーインズ・リブレリーフ 騎士魔法学校校門
「そっかぁ。結局、いつから使われてるか分かんなかったんだね……」
「ああ。せっかく待っててくれたのに、収穫なくて悪いな」
星がちらほら見え始める空。トキヤはばつが悪そうに言葉を紡ぐ。
「んーん。ちょっと興味があっただけだから。ところで……ホシヅキ君はナインズティアの歴史に興味があるの?」
「興味がある……って言われれば、なくはないかな。知れるなら知ってもいいかくらいの域だよ。江戸時代に何がありましたとか、安土桃山時代にはこれがありましたとか、そこまで詳しいのは必要ない感じで……」
「えど……? あづち……?」
「あぁ……悪い。そういう時代はねぇよな……」
今まで生きてきた世界とここでは、まるきり世界が違う。フレイヤに「俺は違う世界から来た」、なんて言っても信じてすらもらえないだろう。
本当の意味でトキヤのことを知っている人間は、恐らくフローレンス家を含めてもナインズティアにはいない。
そう思うと、少しだけ寂しくなる。『自分』という個が元から存在しない世界にいるということに。
いや、あんな世界に戻ったとしても、トキヤのことを本当に知っている人間なんてそもそもいない。死んでないだけの、ただのゴミとしての価値しかなかったのだから。
「ホシヅキ君……? 大丈夫?」
「あ……。ごめん、ちょっと考え事してた」
「そう……? 無理しないでね? あ、それじゃ、私こっちだから」
フレイヤが指差す道の方向には女子寮。気がつけば、もうこんなところまで帰ってきていたのか。反対側には男子寮が見える。
「あーフレイヤ! 今度、埋め合わせするよ。帰りの用意までしてもらって、かなり待たせちゃったんだし」
「え……? い、いいよ、別に! そんなのをしてもらうためにやったんじゃないから……!」「け、けどよ――」
「いいんです! それじゃ、また明日!」
トキヤの返事を待たず、フレイヤはすごい勢いで女子寮へと走り去っていく。まさに風の如し。残されたトキヤは後頭部を掻くと、頭上の星々を見上げた。
「星座か。オリオン座……っぽいのはあるけど、ちょっと違うよな」
欠けた星々はトキヤの知るものとは若干違って。やはり、ここは異世界なのだと思い知らされる。
『いつかは帰らなきゃいけないんだよね』
流れ星の代わりに、システィアの言葉が脳裏を駆けた。いつか帰る日が、帰りたいと思う日が来るならば、それはいつなんだろうか。【時遡】を見つけた後か、それともそう遠くない未来か。
トキヤは首を横に振る。今は帰る理由なんてなくていい。もし、いつかできてしまってから考えれば。それまでは、このナインズティアで自分のできることを探す。
「まだ、いるかな? いや、いなくてもいい。行ってみるだけ行ってみるか」
トキヤは男子寮とは別の方向へ駆け出し、目指す。親友の眠る、風靡く高台の墓地へ。