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健吾が仕事へ戻ったあと、私の膝の上ですやすやと眠っていた朔はパチリと目を覚ました。本当にこの子は正確にミルクの時間がわかってるなあ。
ミルクを飲み干したあと、朔は好奇心の赴くままにあちこちを探検し、遂に私が朝のうちに作ったペットシートのトイレを発見した。
ダンボールの寝床の時と同じように、見慣れない物と嗅ぎなれない匂いに警戒する朔。
私は彼の体を抱き上げ、そっとペットシートの上に下ろした。
「ここは朔のトイレだよ。今度から、したくなったらちゃんとここに来てするんだよ」
ペットシートの上に座る朔の背中をとんとんと優しく叩きながら、この場所がトイレだと何度も何度も繰り返す。
こんな方法で理解してもらえるだろうか。正直不安しか感じないが、繰り返し教えていくしかない。
「朔わかったかな? トイレだからね。ト・イ・レ!」
言葉を区切り、ゆっくりと朔の背中を叩く。すると、彼は突然振り返った。まん丸な瞳で私をじっと見つめ、首を少し傾げる。まるでなにかを言いたそうな彼の表情に私も首を傾げた。
「もしかして、私の言ってることがわかったの?」
いくら豆狸が人間と変わらないほど賢いと言われていても、朔はまだまだ赤ちゃんだ。産まれたばかりの彼が私の言葉を正確に理解できるはずがない。そう思っていたのに……。
朔は踏ん張っていた足に力を込め、ペットシートの上で排泄し始めた。
「嘘でしょ……」
信じられない。朔は完全にトイレを理解している。たった今教えたばかりなのに。
出すものを出してスッキリとした朔は「ほめてほめて」と言わんばかりの顔でとたとたと私の元へ寄ってくる。
私は用意していたティッシュペーパーで朔のおしりを拭きながら彼の頭を撫でた。
「すごいね朔。もうトイレを覚えたんだね。豆狸って本当に賢い生き物なんだねビックリしたよ」
私の手に頭を擦り寄せてくる小さな朔は本当に可愛い。獣の姿をしているから表情はあまり変わらないはずなのに、彼の目が「甘えたい、もっと褒めて、もっと撫でて」と言っている。
「えらかったね。朔はいいこ、いいこ」
抱き上げて顎の下も撫でてやると、朔は気持ち良さそうにお腹を見せてひっくり返り、目を閉じて鼻を鳴らした。彼が安心した様子を見せてくれるのは、きっと私を信頼してくれているからだろう。
そう考えると、なんだか無性に胸の内がパチパチと弾けるようなくすぐったい気持ちになった。今までこんなにも全身全霊で甘えてくれる存在があっただろうか。
朔のお腹の柔らかな毛を梳くように撫でているうちに、彼は眠ってしまったらしい。もっと朔とじゃれ合っていたかったが、まだ赤ちゃんなので仕方がない。
小さな体を彼の寝床に横たえようとしたが、私の手が離れる気配を感じた朔が前足の爪を立てて抵抗しだした。
「いたた、え、なんで離れないの」
もしかして起きてしまったのかと思ったが、朔の目はしっかりと閉じられている。
じゃあ、こうしてしがみついて離れないのは無意識なんだ……。
そう思うと更に愛おしさが募る。私は島の人間ではないのに、こんなに朔のことを好きになってしまって、どうしたらいいのだろう。
朔の寝床に両手を突っ込んだ状態で小さなこだぬきを撫でながら、私も床にごろりと横になる。規則正しく上下する朔の温かな息遣いが心地いい。この家は長閑すぎて色々な事を考えてしまう。
辞めた仕事のこと、なぜか怒りだしてしまった健吾のこと。そして、じいちゃんが帰ってきてこの留守番が終わってしまうときのこと……。
「次の仕事、探しておかないとなあ」
今度は朔に気づかれないように慎重に慎重に手を引っこ抜いた。深く寝入った彼は幸せそうに口元をむにゃむにゃさせながら寝返りを打つ。もうなにをしてもこの子は可愛い。可愛さが辛い。
せめて転職サイトに登録だけでもしておくかと思いスマホに手を伸ばす。すると、新規のメールが届いていることに気づいた。
「庄司さんからだ。そういえば、今ちょうど昼休みの時間か」
開いてみると、私の体調を気遣う内容と、こんど課の仲の良かった女子だけで食事にいかないかというお誘いのメールだった。現在参加表明をしているメンバーはみんな気の置けない人たちばかりなので、私は彼女に是非と返信を打った。
じいちゃんが島に戻ってくるのは二週間後だ。それ以降であれば大丈夫だと伝えると、彼女の方で店を予約してくれることになった。あまりお酒が得意ではない私のために、食事が美味しいと評判の店を選んでくれるそうだ。
「もう辞めた人間なのに、こうしてまた誘ってもらえるのはありがたいなあ」
あんなことがあって退職したが、狭山さんが来るまでは本当にいい職場だった。できることなら、庄司さんたちとはこれからもお付き合いが続いていけば嬉しいな。
お昼寝をしていたはずの朔は、意外にもあの後すぐに起きてしまった。私の手の温かさがないせいなのか、それとも寝ることに飽きたからなのかは分からないが、むくりと起きた朔は家の中の探検を再び始め、彼の気を引いたすべての物をかじり倒した。
「あ、駄目、ティッシュ食べちゃダメ! 待って待って待って、ゴミ箱の中漁らないの! 電話のコードは引っ張ったら危ないって!」
朔の後をついて回る間、私は絶叫しっぱなしだった。これはあれだ、小さな怪獣だ。豆狸は賢いはずなのに、興奮した朔には私の制止の叫び声はまったく意味がなかった。
わずかなうちにぐちゃぐちゃになった家のあり様を見て、私は決意した。朔に触ってほしくない物は高い所に置こう。誤飲したら危ないものだって彼の前足の届く所にあるのは危険だ。
ゴミ箱はサイドボードの上に上げ、コード類は束にまとめて壁に沿わせる形でテープで止めた。
「よし、家の中で遊ぶとまためちゃくちゃにされるかもしれないから、お散歩に行こう」
私は朔を抱き上げて外へ出た。あまり遠くまで行かず、家の周りの林で遊ばせることにする。ここならほとんど車も入ってくることはないから安全だ。
土の上に朔をそっと下ろし、彼の行動をじっと見つめる。
朔は土の匂いを嗅いで道に生えている葉っぱに興味を持った。そのままかじろうとしたので慌てて止める。
「食べないの。そういえば、犬や猫は食べちゃいけない物とかあるけど、豆狸はどうなんだろう……。一度あれで調べておくか」
マニュアルはもう手放せない。朔に危険が及ばないように、また彼が気持ちよくすごせるように環境を整えるためにはあの本に書いてあることだけが頼りなのだ。十六夜と三日月は一週間後に様子を見に来ると言っていたから、彼らが来るのは五日後だ。そのときまでに彼らに豆狸について質問したいこともまとめておこう。
朔は私のお小言もお構いなしで林の中を進んでいく。とてとてと歩き、小さな草むらに鼻を突っ込んでいる。
「キャン!」
遊んでいた朔が急に悲鳴のような鳴き声を上げた。
「どうしたの!」
私は慌てて朔に駆け寄った。こんなにつきっきりで目を光らせていたのに、彼はなにか危険に巻き込まれたらしい。
朔が頭をつっこんでいた茂みをかきわけてみると、朔は鼻を地面にこすりつけるようにしてキャンキャンと鳴いている。どうやら鼻が痛いらしい。
「見せて」
土の上を転がり回っている朔を抑えつけて彼の鼻を見ると、大きな蟻がそこに噛みついている。田舎の蟻は都会で見るそれよりも大きくて一瞬驚いてしまった。私が慌てて蟻を払うと、朔は私の足にしがみついて上ろうとしている。
抱き上げて彼の鼻の様子を確認する。幸い大した怪我もなかったので私はホッと胸をなでおろした。
「よしよし、怖い目にあったね。お外はまだ早かったのかなあ。じゃあ、私が抱っこしてお散歩しようか」
朔はよほど怖かったのか、私のシャツに爪を立ててぴったりと張り付いている。落ち着くようにと彼の背中を撫でてあげるが、なかなか震えが治まらない。
「大丈夫だよ、もう怖いのはいないからね。もう少し大きくなったらまたお外に来ようね」
これで外出を嫌いにならなければいいんだけど……。朔の怖がりぶりを見ると、これから先が心配になってしまう。外出イコール怖いになってしまうと、引きこもり生活になりかねない。
林を抜け、隣家に繋がる道路に出る。日差しを遮るものが無くなくったとたんに汗が噴き出してくる。毛皮がある朔にはこの暑さは厳しいだろう。私は家に戻ることにした。
私が来た道を引き返そうとしたそのとき、道路からクラクションが聞こえた。
「おーい、優希くーん」
赤い軽自動車が一台止まり、運転席から上半身を乗り出してこちらに手を振っている女性が見えた。
「ねえ優希君でしょう。私だよ、絵里だよ」
「絵里ちゃん!」
満面の笑みでこちらに手を振っている彼女に、遠い昔に仲良くなった少女の面影を見つけた。大きな瞳とよく笑う大きな口。昔から可愛らしい顔立ちだったが、今は化粧が施されて更に美人に成長していた。
「久しぶりだね優希君。島に戻ってきてるって健吾から聞いたんだよ」
昔の名残で君付けされるのが少しくすぐったい。それに、彼女がさりげなく「戻ってきた」と言ってくれたのも嬉しかった。
「絵里ちゃん久しぶり。あんまり綺麗になってるからびっくりしたよ」
「いやだあ優希君、相変わらず嬉しいことばっかり言ってくれるんだから。でも優希君の方が美人になっちゃって、こっちの方がびっくりだよ」
「懐かしいな。今時間あるの? よかったら上がっていってよ」
「本当! じゃあちょっとだけお邪魔させてもらうね」
赤い軽自動車を玄関の前まで誘導し、絵里ちゃんを招いて家に入る。朔はおとなしく抱っこされている。
「いつ島に来たの。教えてくれれば港まで迎えにいったのに」
「三日前に来たんだよ。飲み物アイスコーヒーでいいかな」
「ありがとう。この子、人懐っこくて可愛いねえ、名前はなんていうの」
絵里ちゃんは、じゃれついてくる朔と遊びながらリビングの床に座っている。思えば、朔は健吾が来ている時はいつも寝てばかりいたので、私以外の誰かと遊んでいる彼を見るのは新鮮だった。
「朔っていうの。砂糖とミルクはどうする?」
「どっちもいっぱいお願いします。ねえねえ、健吾毎日ここに来てるんでしょう」
絵里ちゃんが朔のお腹をわしゃわしゃしながら、なんだか形容しづらい笑みを浮かべて聞いてくる。
「うん、よく知ってるね。結構まめに顔出してくれてるよ。でも今日……」
健吾の話題になったので、つい先ほど彼を怒らせてしまったことをポツリポツリと話した。せっかく久しぶりに会えたのにいきなり相談を持ちかけるのも申し訳ない気もしたが、ずっと幼なじみとして彼と過ごしていた絵里ちゃんの方が健吾のことをよく分かっているはずだ。彼女なら、仲直りの糸口を見つけてくれるかもしれない。
絵里ちゃんは、ちょっと首を傾げながら眉間に皺を寄せる。
「昔の健吾と優希君の間になにがあったのかは私は分からないなあ。たぶん、これは二人がきちんと話し合わなくちゃいけない問題なんだと思うよ」
「そうだよね、変な相談してごめん」
「ううん。頼ってくれて嬉しいよ。でも、そういえば、優希君が東京に帰る前日に健吾と二人で山に入って迷子になったことがあったよね。そのときになんかあったんじゃない」
「そんなこともあったね」
じいちゃんの家での滞在期間は一週間という約束だった。六日目、私は最後の挨拶をと思ってみんなの集まる空き地に遊びに向かった。でも、そこにいたのは健吾だけだった。二人ではどんな遊びも少し盛り上がりにかける。健吾もその時は妙に口数が少なかったし、私は明日帰ることだけを告げてその日はもう家に戻ろうとした。
その直後、健吾が一緒に山に行こうと言いだしたのだった。