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私はさっそく十六夜たちが置いていったマニュアル本を取り出した。項目ごとに索引が分かれているので、知りたい情報をすぐに引き出せる。こだぬき賛辞にさえ目をつぶれば、このマニュアル本は使いやすくて役に立つ。
「えーと、トイレ事情トイレ事情……あった」
豆狸は普通の狸とは違い人間と同等、もしくはそれ以上の知性を持っているらしい。つまり訓練次第でトイレにだって行くことができる。しかし、生まれたばかりの豆狸は普通の狸と同じく、寝床から離れた場所で排泄をするのだそうだ。
「なるほど。つまり朔の寝床をまず決めてあげて、そこから離れた場所にトイレを設置すればいいのね」
三日月が置いていった袋の中に小型犬用のペットシートも入っていたはずだ。トイレはこれを使えばいいだろう。そうと決まれば、まずは寝床作りから。
私はキッチンの隅に畳んで置いてあった手ごろな大きさのダンボールを拝借して組み立てた。しっかりとガムテープで固定したあと、ダンボールの中にバスタオルと朔のお気に入りの毛布を敷き詰める。出入りがスムーズにできるように壁の一部分に穴をあけ、とりあえず寝床はこれで完成。
寝床の場所は寝泊りしているリビングに置くことにして、トイレ代わりのペットシートは廊下の端に新聞紙と重ねて置いてみた。あまり遠すぎても朔がたどり着けないだろうし、近すぎてもストレスがかかるかもしれない。これは様子を見ながら調整しよう。
「君の寝床ができたよ。どうかな、気に入ってくれるかな」
少しドキドキしながら出来上がったばかりの段ボールの前に朔を連れてくる。すると、彼は不審なものを発見したと言わんばかりに慎重に匂いを嗅ぎ始めた。
今まで存在しなかった物が突然現れたせいなのか、朔はなかなか中に入ろうとしない。しかし、お気に入りの毛布を見つけたとたんにトタトタと吸い込まれるように入っていった。
「よかった。気に入ってくれるといいんだけど」
私は入口から朔の様子をそっと窺う。
朔はリラックスできているらしく、毛布の端を噛みながらコロコロと転がっている。機嫌よく遊んでくれているなら大成功だ。
「よしよし。今日からここで寝るんだよ」
居間の窓を開けると、もう蝉の声が聞こえてくる。今日も朝からいい天気だ。天気予報によれば、昼ごろには三十度を軽く超えるそうだ。それでも、東京のべとついた暑さとは違い、島の夏は爽やかだ。とはいえ、暑いことには変わりはないので、本格的に気温が上がるまえに家事は済ませておくことにする。
今日の私の恰好は動きやすいショートパンツと襟ぐりが開いたTシャツだ。出かける予定はないから、緩い格好でもぜんぜん気にならない。
一度伸びをしてから部屋の掃除に取り掛かる。じいちゃんの家は建坪は広いが平屋建てだ。父さんと伯父さんが家を出て行ったタイミングで改築したらしい。一人で住むには広すぎる家だが、じいちゃんはここを離れる気は今でもないそうだ。
段ボールの中でご機嫌で遊んでいたはずの朔は、いつの間にか静かになっている。そっと中を覗いてみると、もう遊び疲れてしまったのか、毛布にくるまって寝息を立てていた。眠っている朔を起こさないように、箒と雑巾でしずかに掃除をする。
キッチンとバスルームもしっかりと磨いたあとは、洗濯に取り掛かった。しかし、前日と同様に私ひとり分しか洗い物がないので、すぐに終わってしまった。
「ふぅ、今日の仕事はとりあえずこれで完了」
洗い終わった洗濯物を庭に干したあとは縁側に座って少し休憩する。すると、寝床で眠っていたはずの朔が倒つ転びつ私の元へやって来た。
「そんなに慌ててどうした」
「キューン!」
私の姿を見つけた朔は、鼻を鳴らしながら駆けてきた。そして、体当たりを食らわす勢いで飛びついてきたかと思うと、私の太ももに短い前足をかけて懸命によじ登ろうとしてくる。
これはもしかして、一人きりにされて寂しかったのだろうか?
キーキーとヒステリックに鳴いている朔を抱いて、彼の望み通りに膝の上に乗せてやる。しかし、朔はまだ気が晴れないのか、私のシャツに爪を立ててさらによじ登ってくる。なんだか、駄々をこねる小さな子どもみたいだ。
「そんなにお怒りですか。よっぽど独りが寂しかったのかなあ。ごめんごめん、もう一人にしないよ」
興奮している朔を抱きかかえ、なだめるように背中を撫でてやる。ホワホワとした毛の感触が心地いい。
私の手の感触に安心したのか、朔はようやく爪を立てるのを止めておとなしくなった。
「よしよし、朔は甘えん坊だなあ」
マニュアルによれば、豆狸は個性豊かな生き物らしい。その性格は一匹一匹大きく異なり、その子の生まれもった基本的な性格は生涯を通して変わることはないそうだ。三つ子の魂百までとはよく言ったものだ。
十六夜や三日月を見ればその個性の多様さにも頷ける。あの二匹はほとんど同じような環境で育ったはずなのにまるで正反対の性格をしている。神経質で俺様な十六夜と、おっとりしていて細かいことを気にしない三日月。
そして、私によじ登りながら寂しかったと鳴いて怒る朔。近い将来、彼がどんな豆狸になるのかその片鱗が少し見えた気がした。
「それにしても良い天気だね」
縁側には木漏れ日が落ち、日差しを心地よく遮ってくれる。林を抜ける緑の爽やかな風を受けていると、忍び寄ってきた睡魔に負けそうになってしまう。そういえば、昨夜はほとんど熟睡できなかったんだっけ……。
私は朔を抱いたまま、仰向けにころりと寝転んだ。朔は撫でられて満足したのか、すっかり安心して寝息を立てていた。
私もそっと目を閉じた。心地よい風が私の前髪を撫でていく。腹の上に乗っている小さな息遣いを感じながら、いつしか朔と一緒に眠ってしまっていた。
「おい、こんな所で寝るな。起きろ」
「ん?」
誰かが呼ぶ声で目が覚めた。目を開けると、そこには厳しい顔をした健吾が立っていた。
「ああ、おはよう。今日も様子を見に来てくれたの?」
お腹の上に乗せていた朔をそっと膝に下ろし、そろりそろりと起き上がる。縁側は日陰になっていたとはいえ、外で眠ってしまったせいで体がじっとりと汗ばんでいた。
「おはようじゃねえよ。お前本当に東京都民か? よくそんなんで今まで無事に暮らしてこれたな」
「いやいや、ついね。ほんのちょっとだけ休憩するつもりで寝転んだら、思いのほか気持ちよかったから――」
健吾の険しい表情は変わらない。それどころか、眉間の皺は深くなる一方だ。
言い訳は通じませんか、そうですか。この堅物め。
「そんなに怒ることないじゃない。島の人たちだって、普段から鍵とかかけないで過ごしてるでしょう」
「そういう問題じゃねえんだよ」
健吾はぐっと何かを我慢するような顔をしたあと、静かに長い息を吐き出した。これ以上口論にならないために、気持ちを落ち着けているのかもしれない。
「とにかく、もう縁側で寝るのはやめとけ。優希になにかあったら長十郎さんに顔向けできない」
「分かった」
私も神妙な顔で頷いた。これでお互いこの話は終わりにする。
「ところでお前、それどうしたんだ?」
健吾は私の膝の上で丸くなっている朔を見て首を傾げる。
あ、まずい。昨夜の不思議な体験をなんて説明すればいいんだろう。そもそも信じてもらえるかどうかわからない。
「え? この子? 昨日じいちゃんの知り合いの人から頼まれて、しばらくうちで預かることになったの」
内心ではとても動揺していたが、それを顔に出さないように朔のふわふわした背をゆっくりと撫でる。それに、今の答えのなかに嘘はない。
私は嘘が苦手だから、下手な作り話をするよりも話せる部分をそのまま伝え、話せない部分をうまく隠しておく方がボロが出ない。本当はこんな誤魔化しはよくないとは思うけど、これも朔を守るのためなので許してほしい。
健吾は納得したのかしてないのか、いまいち分りにくい顔で黙っている。朔と私とを交互に見つめ、少しだけ距離を詰めてきた。
だから、その無言が怖いんだってば!
私は内心だらだらと汗をかいていたが、素知らぬ顔をしていた。
もしも、この場で朔が豆狸の赤ちゃんだとバレたらどうなるのだろう。島中が大騒ぎになって、最悪の場合には、朔は研究所に連れていかれて実験の道具にされてしまうかもしれない……。
恐ろしい想像が一瞬のうちに頭の中を駆け巡る。可愛い朔をそんな目に合わせたくない。私がこの子を守ってあげなくちゃ。
しかし、健吾は急に相貌を崩して朔の背中をそっと撫でた。
「可愛いな。まだ生まれて間もないんだろう。名前はなんていうんだ」
朔が何の動物か突っ込んで聞いてくることもなく、彼は熱心に朔の背中を撫でている。
私は拍子抜けしてしまったが、心の内でにんまりと微笑んだ。よしよし、きっと子犬にでも見えているに違いない。豆狸の赤ちゃんは、パッと見は黒い犬か小熊にしか見えないのだ。
「朔っていうの。まだ生後一週間だって」
「そうか。よく寝てるな」
健吾の目元が綻ぶ。撫でる手つきも優しくて朔を起こさないように慎重だ。
「健吾は動物好き? 何か飼ったことあるの」
「動物は好きだけど飼ったことはないな。――そういえば、ひい爺さんが子どもの頃にはうちの蔵にも一匹いたことがあったらしいな」
柔らかな毛並みを梳くように大きな手のひらが行ったり来たりする。朔は眠っているのに、気持ちよさそうに鼻を鳴らしている。どうやら人に撫でてもらうのが好きみたいだ。
この子は本当に甘えん坊だ。
そんな彼らの様子を見ていたら、私ひとりが気を張っているのがバカらしく思えた。きっと健吾はこれ以上の詮索はしてこないだろう。
安心したとたん、おなかがぐうううという音を立てる。腕時計を見ると、そろそろお昼の時間だ。
「昼飯食ってないの?」
私のお腹の鳴る音が聞こえたのだろう。健吾が丸い目で音の出所を凝視する。
「うん、ぐっすり寝ちゃってたからね。あーお腹減った」
まだすうすうと寝息を立てている朔を膝に乗せているので動けない。あと少しで朔のミルクの時間だから、せめてそれまではゆっくりと寝かせてやりたい。
いつの間にか、健吾が車に戻りドアを開いて中へと乗り込んでいた。ああ、もう配達に戻る時間なのかと思った矢先、彼はビニール袋を手にして戻ってきた。
「ちょうどいいから、これやる。昨日の昼飯のお礼」
渡されたジュースはひんやりと冷たくて、アルミ製の缶はびっしりと汗をかいていた。そういえば喉が渇いていたことを思い出し、私はそれを一気に流し込んだ。
「っぷは、生き返る」
一気飲みして息を吐くと、健吾はなんとなく気まずいような顔をして視線を逸らした。そして、無言で彼が袋から取り出したのはたこ焼きだった。舟形の容器に入ったたこ焼きにはドロリとした甘辛ソースとマヨネーズがたっぷりとかけられ、鰹節と青のりがこれでもかというほど乗っている。
「あ、これって三宅屋のたこ焼き?」
「よく覚えてるな。そうだよ、ガキの頃に二人で早食い競争したやつ」
健吾は同じパックをもう一つ袋から取り出し、私の隣にどっかりと腰をおろした。
「懐かしいなあ。覚えてるよ、どっちが出来たてのたこ焼きを早く食べ終えるか競争して、二人とも口の中を火傷したよね」
鰹節が踊るたこ焼きを爪楊枝で刺して口に運ぶ。出汁のきいた柔らかい歯ごたえの生地と中に入っているタコのぷりぷりした食感が絶妙。一口食べただけであの頃の懐かしい記憶がブワッと蘇って来た。
「そういえば、健吾あのときたこ焼きが熱すぎて口から吐き出したよね。それがちょうどおじさんの顔に当たったから、私もうおかしくなっちゃって」
昔の話をしているうちに、その当時の様子がありありと脳裏に思い浮かんだ。
「そういうお前だって、笑った拍子に口からたこ焼き落としてただろ」
「そうそう。そしたらおじさんが顔にソースつけたままプルプルして『食べ物を粗末にするな』って怒鳴ったから、ふたりで慌てて逃げたんだよね」
「結局、勝負つかなかったなあ」
あのときとは比べ物にならないほどの大きな口で健吾はたこ焼きを食べる。二個食いしてもまだまだ余裕があるらしく、あっという間に次のたこ焼きへと手を伸ばす。
子どもの頃と変わらない味のたこ焼きを、子どもの頃の面影を残しながらも、まったく違う存在に成長してしまった友達と食べるのはなんだか不思議な心地だ。
「俺さ、今だから白状するけど……」
食べる手を止めた健吾がこちらを振り向く。
「はじめの頃、優希のこと男だと思ってたんだ。しかも、女子にばっかり格好つけるいけすかない男」
「あー、なんとなく誤解されてるとは思ってた」
あの頃の私は見た目は完全に男の子だったし、声も女の子にしてはハスキーだったから間違えるのも無理はない。かなりお転婆だったとはいえ、中身まで完璧な男の子ではないから、島の女の子たちにもなんの抵抗も感じることなく普通に話しかけていたし、一緒に遊ぼうと誘ったりしていた。
おそらく、島の男子連中はそれが気に食わなかったのだろう。実際、私は島の女の子たちにものすごくモテた。
あの年頃特有のガサツで乱暴な男の子とは違い、女子に心地よい優しさと距離感で接していた私は、自分でいうのもおかしいが一種のアイドル状態だったのだ。
ラブレターをもらうのなんてしょっちゅうだったし、何度も告白された。もちろん、その場で女だと打ち明けて誤解を解いたが、そうすると今度は彼女たちから一気に遠慮がなくなり、腕を組まれたり抱きつかれたりするようになった。
私が女だと知らない健吾とその他の男の子たちは、そんな様子見せつけられたらそりゃあ面白くなかったかもしれない。
「優希が女だと知らなかったもんだから、都会もんを負かしてやろうと思って結構ひどい勝負ふっかけた自覚はある。今さらこんなこと言いだすのも遅いかもしれないけど、あのときは悪かった」
「いいよ、気にしてない。私も仲間に入れてもらおうとして、結構強引にみんなの輪に入っていったし」
人見知りしない性格に加え、子どもの頃はとにかくなんにでも首を突っ込む子だったので、いつの間にかぐいぐい遊びに加わってくるよそ者はさぞ迷惑だったことだろう。
「本当だよ。ある日突然やって来たよそ者に好きな女子を根こそぎ奪われた当時の俺たちの気持ちも考えてみてくれよ。もう悔しくて悔しくてたまんなかったよ」
「あの、なんていうか、ごめん……」
すっかり魂の抜けた顔でため息をこぼす健吾を見ていたら申し訳ない気持ちになってきた。昔に戻って罪を償うことはできないが、どうにかして彼を励ますことはできないだろうか。
私はたこ焼きを口に運びながらちょっと考える。
「そういえば、いまはどうなの? これだけ恰好よくなったんだから彼女の一人や二人いるでしょう」
「今はそういうのはいない。……ていうか、彼女が二人もいてたまるか。俺はそんな不誠実な人間じゃない」
しっかりと筋肉がついた肩を落として健吾はそっぽを向く。これだけ見た目がいいのに、彼はチャラ付くこともなく至極誠実に育ったらしい。そういうところは、ガキ大将だった頃の健吾のままだ。昔は外見にコンプレックスがあったせいで少しひねた所があったが、本当は真面目で真っすぐなやつだった。
「学生の頃は女子と何回か付きあったことはあったんだけど、なんかしっくりこないっていうか……長続きしないことが多かったんだ」
「え、女子としっくりこないって……。つまり、そっちに方向転換を?」
「ちげーから! 俺そっちの趣味に走ったわけじゃないから。おい、傷つくから離れていくなよ!」
思わず身を引くとものすごい勢いで否定され、逆に距離を詰められた。
「なんていうか、ずっと忘れられない人がいて……。誰といてもその人のことが気になって他の女に集中できなかったんだよ」
「それって私も知ってる人? あれ――ごめん、聞いたらまずい話題だった?」
真っ赤になっていた健吾の表情がみるみるうちに青ざめていくのを見て、私はハッとして口を閉じた。
「お前……。ガキの頃俺になにをしたか忘れたのか……」
「え」
そう言われて昔の記憶をさかのぼってみる。私、何か失礼なことをしただろうか?
「うわ、覚えてねーんだこいつ。怖、都会の女こわ」
健吾は心底震えあがった顔で立ち上がった。いつの間にか完食していたたこ焼きのパックを片手にフラフラした足取りでトラックに戻る。
「え、待ってよ。私が昔なにやったのか教えてよ」
朔が膝にいるので追いかけることもできないまま、私は自由になる手だけを伸ばす。
彼は私の問いには応えず、無言でエンジンをかけた。そして、窓を全開にする。
「知るか。自力で思い出せ」
舌を出して去ってゆく健吾の表情は、昔の悪ガキ時代の健吾そのものだった。なんだかそれを見て懐かしくなったのもつかの間、私は首を捻った。
「駄目ださっぱり思い出せない。あいついったい何をあんなに怒ってるんだろう」