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狭山さんと食事に行った日から数日後、私はなんとなく仕事にやりづらさを感じていた。覚えのないミスを指摘されるようになったり、わざと大きな声で主語をぼかした陰口を叩かれるようになった。
前者に関してはその都度訂正できるが、後者は完全に放っておくことしかできない。たかが陰口と思って無視していたが、それは思っていたよりも深刻なダメージを与えた。まるで真綿で首を閉められているかのようだった。
なにしろ主語がないから私のことを話しているという確証がない。それなのに、私でしかありえないような悪口の内容が漏れ聞こえてくる。
悪口の内容はとるに足らないような些細なものだ。しかし、私をよく思っていないという人たちがいるという事実が重くのしかかる。
初めは数人の女子社員だけだったはずが、いつの間にか一部の男性社員も陰口に加わるようになっていた。その頃から、私は細かいミスが増えた。そして、だんだん体調を崩すことが多くなってしまった。
「ねえ間宮さん、ちょっと休憩がてらコンビニに買い出しいきませんか」
私の頭のてっぺんから声が聞こえた。見上げると、隣の席の庄司さんがこちらを覗いている。
私はパソコンの画面と彼女の顔を見比べて少し迷った。定時直前にデータの不備を指摘され、付き返された書類を直していたところだったのだ。もうフロアの照明はとっくに落ちていて、辺りに残業している人影は見当たらない。
私はとっさに返事ができなかった。今やっている仕事を明日までに仕上げなければみんなに迷惑がかかってしまう。
私が迷っているのを察した庄司さんは「いいからいいから」と言って少し強引に私を椅子から立たせた。
「すぐ近くのコンビニだから戻ってくるまで十分もかかりませんよ」
私は庄司さんに促されるまま歩き出した。
席を離れても仕事の内容が頭から離れない。どうしてあんなに簡単なミスに気づかなかったのだろう。
最近、どこに行っても誰かに見られているようで落ち着かない。私の失敗をみんなが笑っているような気がする。これ以上仕事で足を引っ張りたくないのに……。
のろのろと歩きながら一言も話せない私を急かすことなく、新庄さんはゆっくりと歩いてくれた。
「最近、狭山さんとなにかトラブルありましたよね」
私は弾かれたように顔を上げた。
新庄さんは何気ない口調だったが、私と狭山さんとの間になにかがあったことを確信しているようだった。
「元気がないのもそれが原因ですか」
「……狭山さんがなにか言ってたんですか」
聞きたくないような気がする。でも確かめずにはいられない。
「じつは今日、喫煙所で狭山さんと営業の人たちが話しているところに出くわしたんです。内容は……口に出すのも馬鹿らしくなるほど下らないことでした」
細かいことをあえて教えないのは新庄さんの優しさだろう。でも、私はどうしても知りたかった。
「教えて下さい」
新庄さんは少し迷ったそぶりを見せたあと、しぶしぶ口を開いた。
「間宮さんにしつこく食事に誘われていたから二人で飲みに行ったのに、なぜか彼女がいきなりブチ切れて勝手に先に帰ってしまった。あんな女だと思わなかった。って言ってました。あとは聞くに堪えない小学生みたいな悪口だったので、私は最後まで聞かずに喫煙室を出ました」
「そう……だったんですか」
狭山さんの中では、私がしつこく誘ったから仕方なく食事に行ったことになっているのか。
「なんか変だと思ってたんですよ。二人の間に何があったかはよくわからないけど、間宮さんがしつこく誘ったっていうのがどうも腑に落ちなくて」
庄司さんは私の顔をじっと見つめた。彼女の瞳は、本当のことを話してくれと言っているようだった。
彼女なら本当のことを話しても信じてくれる。私は意を決して口を開く。
「あの日は、狭山さんから食事でもどうですかと言われたんです。一度は断ったんですけど、どうしても断りきれなくて……」
なにも言わなくても庄司さんは分かってくれていた。それだけで私の心細さは和らいでいく。
私は、今まであったことをすべて話した。焦ってうまくしゃべれなくなってしまっても、彼女は根気強く聞いてくれた。そして最後まで話を聞き終わると、やけに陰りのある笑顔で両手の指をポキポキし出した。
「狭山最低……。振られた腹いせにでたらめな悪口言いふらして仕事の妨害するとか、本当に清々しいほどの最低ぶりです! たまにこういうのがいるから三次元の男は嫌なんですよ」
新庄さんは吐き捨てるように悪態をつく。これほど華やかな美人だ。きっと私には想像もつかないほど色々な経験をしたことがあるのかもしれない。
それにしても、新庄さんがこうして怒りを露わにしてくれたおかけで逆に私は落ち着くことができた。
「庄司さんに話を聞いてもらえて気持ちが楽になりました。これで明日からも頑張れそうです。気にかけてくださってありがとうございました」
「私は、上司に一度相談しておいたほうがいいと思いますよ。これ以上嫌がらせがエスカレートしないとも限らないんですから」
「でも、こんな個人的なことを係長に相談するなんて……」
係長は年配の男性だ。そんな彼に仕事とは関係ない恋愛関係のもつれに関わるトラブルを相談するのは気が引ける。
「気持ちは分かりますけど、いざと言う時には相談していた実績があった方がいい場合もあるんですよ」
庄司さんは力強く頷いた。
私は彼女が親身になってくれているだけでもう気持ちは満たされた。
「ありがとうございます。でも、もう少し様子を見ようと思います」
なにかあれば自分が力になると固く約束して、庄司さんは私の背を優しく叩いた。
庄司さんと一緒に夜の町を歩いたその一ヶ月後、私は上司に辞表を提出した。
狭山さんが私に対して直接行動を起こすことは一度もなかった。そして、他の人たちも陰口以上の嫌がらせを積極的に行うことはなかった。ただただ、遠巻きに悪口を囁いていただけだ。
私は上司に相談する機会を逸したままずるずると一月過ごしてしていた。直接文句を言われるわけではないのだから、これぐらい我慢しようと思っていたのだ。しかし、私の手出しできない距離で好き放題言われ続けることは、想像以上に辛かった。
こんなことで会社を辞めてしまうのは情けないと自分でも思う。でも、もう限界だった。会社に行こうとするだけで吐き気が治まらなくなり、震えがくる日もあった。
私はこの会社で頑張ることを諦め、逃げる道を選んだ。一度なにもかも仕切り直さないと普通の生活すら送れないような気がしたのだ。
引き継ぎを終え、お世話になった人たちに申し訳ない気持ちで挨拶し、ロッカーと机の私物を引き取りに行く。ふと顔を上げると、遠くのほうで狭山さんがこちらを見ているのに気づいた。
彼にとって目ざわりな人間が辞めるのだ、さぞかし精々していることだろうなと思ったが、彼はなんとも言えない苦い表情でこちらをじっと見ていた。
私は彼に目礼をしてから会社を後にした。
庄司さんや同じ係の人たちと離れるのは悲しいが、彼女とは個人的にこれからも連絡を取り合うために連絡先を交換してある。「もし嫌じゃなかったら」と言ってプライベートなメールアドレスを渡してくれたのだ。
仕事を辞めて呆然と毎日を送っていた私の元へ、じいちゃんからヘルプコールがきたのは本当に幸いだった。島での生活は『情けない自分を払拭して誰かの役に立ちたい』という私の願いと『まずは体と心を休めなさい』という周囲の願いがどちらも無理なく叶えられる最適の場所だ。
東京での出来事をぼんやりと思い返していたらいつの間にかだいぶ時間が過ぎていた。まだほんの数日前のことなのに、もう遠い昔の出来事のような気がする。不甲斐なくて情けない気持ちになるのであまり思い出したくないのに、辛い記憶はどういうわけか繰り返し繰り返し波のように押し寄せて来る。
「いつまでもくよくよしててもしょうがないか」
私は気を取り直して朝食を作り始めた。お腹が減っては元気も出ない。
ふっくらと甘い出し巻き卵を焼き、ワカメの味噌汁を作る。それから真っ白いご飯の上に海苔の佃煮を乗せて朝食が完成。朝ごはんは一日の活力。しっかり食べます。
「いただきます」
本当はゆっくりと味わいたいところだけど、朔がいつ目を覚ますか分からない。ご飯を口いっぱいにかきこんでそれを味噌汁で流し込む。
昨夜の朔は、ほぼ正確に四時間おきに目を覚ましてミルクをねだった。最後にミルクを飲ませたのが五時頃だったから、今度は九時にまた目を覚ますはずだ。
私は食器を片付けてから、朔のためにミルクを作り始めた。
「キューン、キューン」
ほとんどぴったりの時間に朔が目覚を覚まして騒ぎだす。まるで体内に時計でも内蔵されているのかと疑いたくなるほどの正確さだ。
人肌よりもほんの気持ちだけ温めたミルクを手にして、私は朔の元へと向かった。
「はいはい、ミルクだよ。そんなに鳴かなくてもちゃんとあげるからねー」
頭を上げて力の限りお腹が空いたと訴える朔に優しく声をかけるが、彼は私の声なんて聞いちゃいない。
こだぬきに一晩中付き合って分かったことが一つある。それは、朔と一緒になってパニックになってはいけないということだ。私が焦れば焦るほど朔にもそれが伝わり、更にもっとパニックを引き起こすという悪循環に陥ってしまうのだ。
だからどんなに失敗しても、上手くお世話できなくても、気持ちの上では肝っ玉母さんのようにどっしりと構えていなければならない。
「まあ、彼氏もいないのにいきなりそんな心境に至れるかはわかんないけどね」
私は暴れる朔を片手で抱える。哺乳瓶を持ちながら朔の口を開かせると、今度は上手く吸い口を見つけてくれた。パクっと咥えてごくごくと喉を鳴らしてミルクを飲む。
恐らく朔も哺乳瓶からミルクを飲むことに慣れてきたのだろう。あっという間に哺乳瓶は空になった。
「はい、ごちそう様でした」
朔を膝に抱きながらミルクでベタベタになった口の周りを拭いてやると、朔は満足そうにクプッとげっぷをもらした。
朝のミルクを飲み終えてお腹が落ち着いた朔は、新しい環境に興味を持ったらしい。まだ目がしっかりと見えているわけじゃないのに好奇心旺盛だ。彼は鼻をヒクヒクさせながら、私の膝を乗り越えて散策を始めた。
床に落ちていたタオルに驚き、注意深く匂いを嗅いでは舐めたり爪で引っかいたりしている。まだ上手く歩けないせいで、朔はあっちへヨタヨタこっちへフラフラとして足元がおぼつかない。
そんな様子の朔を離れたところからそっと見守る私は、口元に手を当てて叫びだしたい気持ちを抑えていた。
生まれたばかりのこだぬきの破壊力の凄まじさ! なにこれすっごく可愛いんですけど、どうしたらいいの? 私を萌え殺すつもりなの? 本望ですありがとうございます!
私はスマホのカメラをカシャカシャいわせながら鼻息を荒くして朔の後ろをついて回った。
朔はリビングに置かれたサイドテーブルが気になるのか、しきり脚の匂いを嗅いでいる。私も不思議に思ったので、屈んで覗き込む。
テーブルの脚には古い引っ掻き傷がたくさんついている。その他にも、獣が噛み千切ったような荒々しい傷も残されていた。
「あ、そうか。これあの二人が昔つけた傷なんだ」
昨夜現れたスーツ姿の十六夜と三日月。彼らにも、朔のようなこだぬき時代があったのだ。まったくイメージできないけど、彼らもいたずらしたい年頃というのがあったのだろう。
彼らがどんな子どもだったのか少しだけ興味が湧いてきた。こんどじいちゃんに聞いてみようかな。
さて、また朔を追いかけようと顔を上げるとそこに彼の姿はなかった。目を離したのはほんの僅かな時間だったのに、いったいどこへ行ったのだろう?
「おーい、朔。どこにいるの」
四つんばいになったまま、彼の目線で探してみる。すると、廊下の隅でうずくまっている黒い毛玉を見つけた。朔はこちらに背を向けたまま真ん丸くなっている。
「朔どうしたの? もう眠たくなっちゃったのかな」
近づくと、またしても足の裏にビチャっとした冷たい感触。なにコレ、デジャビュ?
下を見てみると、そこには小さな水溜りが出来ていた。
「また、やられた……」
私は唇を噛み締めながら雑巾で廊下をゴシゴシと拭いた。
「今日は絶対に朔のトイレを作ろう。それが今日の目標!」
雑巾がけをする私の傍らで、こだぬきは我関せずの涼しい顔であくびをした。