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こだぬき様はお怒りです   作者: 山石コウ 
こだぬき様とお散歩に出かけましょう
6/14

1

 窓の外から聞こえる鳥の声で目を覚ました。いつの間にかもう朝になっている。昇ったばかりの夏の太陽はカーテン越しでも眩しい。


 音を立てないようにゆっくり起き上がって伸びをする。なんだか目が腫れぼったくてうまく開かない。


 朔は明け方にもミルクを欲しがり、ものすごい勢いで哺乳瓶を空にした。


 毛布の上で丸くなっている朔は、柔らかそうなお腹を上下させながら安らかに眠っていた。夜中にミルクが上手く飲めなくて大騒ぎをした子にはとても見えない。


「気持ち良さそうに寝てるなあ」


 それにしても、眠っている朔は本当に天使だ。


 疲れも体のダルさも忘れ、朔をじっくりと眺める。


 どうして動物の赤ちゃんってこんなに可愛いんだろう。ちっちゃくて丸くて、ちょっとぎこちない仕草がまたたまらない。


 こだぬきのかわいらしさに頭の中が一瞬で沸騰したが、すぐに正気に返る。ここで騒いだら朔が起きてしまう。寝た子をわざわざ起こすのはまずい。眠っている朔を刺激しないようにそっとお腹を撫でてから布団から這い出た。


 寝不足ですっきりしない頭をグラグラさせ、顔を洗って着替えを済ます。なんだかまだぼんやりしていて、完全に夢から覚めていないみたいだ。


 じいちゃんの家にいるという実感すら薄くなっていて、島に来たこと自体が全部夢だったんじゃないか、なんて考えてしまう。


「本当にこれが全部夢で、今でも東京で仕事続けていられたらよかったのにね……」







 私は、そこそこ大手の会社の事務職員だった。まだまだ新人と呼べる立場だったので任されるのはマニュアルに沿った流れ作業ばかりだったが、速く正確に処理することで感謝の言葉をかけられることも増えた。そのたびに、縁の下の仕事も悪くないと思えるようになった。


 派手さはないが、能力や取り組む姿勢などをきちんと正当に評価してもらえるありがたい職場だった。


 ところが、配置変えのために新しく他部署から同じフロアに異動して来た男性の存在が私の仕事環境を一変させた。


 彼は自己紹介で狭山善太郎(さやまぜんたろう)と名乗った。配属されたのは営業だ。私とは違う部署だが、同じフロアにいるため彼の動向や評判はすぐに耳に入ってきた。


 狭山さんは、配属されたとたん大口の契約をバンバン取ってきたらしい。社交的で優秀な仕事ぶりは瞬く間に評判になり、評価も人気もうなぎ登りだった。


 おまけに弓道の有段者だという彼は見惚れるほど美しい姿勢をしており、日本的な切れ長の目元と相まって女子社員の間でも注目の的となった。


 でも、私は周りの雰囲気に同調して狭山さんのファンになることはできなかった。なぜなら、彼は若い女性社員を軽んじていたのだ。本人はほとんど無意識なのかもしれないが、言葉の端々に「どうせ女は結婚すれば仕事をやめてしまう」という意味を滲ませているのを目にしてから、私は彼が少し苦手になっていた。


 ある日いつものように机に向かっていると、狭山さんがやってきた。


「すみません、間宮さん。いまお手空きですか」


「なにかありましたか」


「じつは、これを顧客に配りたいので三時までに郵送しておきたいんです。俺はこれから外回り行かなきゃいけないので、できればお手伝いしてほしいんですが……」


 そう言って狭山さんが私の机の上に置いたのは段ボールに入った大量のパンフレットと封筒の山だった。宛名が印刷されたシールも入っているので、どうやら封筒にそれを貼り付ける作業も必要らしい。


 私は段ボールを見て顔を引きつらせた。


 せめて宛先は封筒に直接印字してほしかった。っていうか、今どき紙でのご案内ってどうなの?


「今日の午後三時まで、ですか……。すみません、この量だったら私ひとりでは期限までに終わらないないかもしれないので、他の方にも声をかけて手伝ってもらってもいいですか」


「いえ。できれば間宮さんひとりにお願いしたいんですよ」


 私は首を傾げた。こんなの誰がやっても同じだろう。それなのに、頑なに私に頼む意味が分からない。


「いえ、でも……」


 私にだって自分の仕事があるんです。そう口にしようとする前に狭山さんは私の肩をポンと叩いた。


「間宮さんにしか頼めないんです。じゃあ、よろしくお願いしますね」


 そう言うと、彼は爽やかな笑顔を残して颯爽と去っていった。


 私は内心でため息を吐いた。飛び入りの仕事が入るのは珍しくもないことだが、私にも通常業務がある。慣れた作業とはいえ、そちらも手を抜くわけにはいかないのだ。


 狭山さんは、果たしてそういった私の事情もきちんと考慮してくれているのだろうか。


 今まで進めていた作業の手を一旦止め、私は封筒の宛名貼りから始めた。誰でもできる単純作業だが、なかなか骨が折れる。なにしろ段ボール一箱分だ。剥がして、貼って、剥がして、貼って。ひたすらそれを繰り返す。地味に辛い。


「やっと、終わった……」


 段ボールいっぱいの封筒をなんとか時間以内に無事に送り出し、私は硬くなってしまった首をゴキゴキと鳴らしながら自分の席へ戻って来た。


 さあ、これから自分の仕事を終わらせなければならない。気合いを入れてパソコンの前に座る。


 普段以上に集中し、休憩も挟まず机にかじりついたおかでげで今日中に終わらせなければならない最優先の仕事はなんとか片づいた。しかし、できれば済ませておきたかった書類がまだ未処理のまま残っている。


「はあ、もう九時半か……。今日はいつもより長引きそうだなあ」


 残業は連日のことだが、さすがに空腹が限界になってきた。


 この時間になると、それまで残業していた人たちが次々に席を離れ始める。うちの会社は九時半を過ぎると職場の電気を消すという社内ルールが存在している。電気代節約ということらしいが、それなら定時で帰れるようにしてくれればもっと節約できるだろうに……。


「あれ間宮さん、今日はまだかかるんですか」


 私の独りごとを拾った隣の席の庄司さんが、鞄片手にこちらを振り返る。彼女は私よりも三年早くこの部署に配属された先輩だ。ゴージャス系の美人だが、三次元よりも二次元を愛していて、隙あらば私も沼に引きずり込もうとしてくる優しいお姉さん的な存在だ。


 ちなみに、狭山さんが段ボールを抱えてきた時に彼女は外へ出ていて不在だったので、私がいつもよりも長い時間残業するのが不思議なのだろう。


「ええ。実は飛び入りの仕事に少し時間がかかってしまって……」


「それは災難でしたね」


 庄司さんは気の毒そうな目で私の机の上に飴玉を二個乗せた。


「差し入れです。頑張ってください」


「ありがとうございます。お疲れ様でした」


 笑顔で庄司さんに礼を言い、彼女の今年一番の推しアニメのイラストがプリントされている飴を口に放りこんだ。


 むせかえるほどのピーチ味が空の胃にしみる。


 庄司さんを皮きりに、続々と席を立つ人たちを見送る。みんなこれから家に帰って美味しいご飯を食べるのか。いいなあ。


 人の気配が薄くなった職場はいつもよりもずっと広く感じて少し不気味だ。電気を落とされているのでなおさら心細い。


 私はあと一息で終了というところまで仕事を進め、凝り固まった首をぐるりと回した。最近とくに肩こりがひどい気がする。今度お給料が出たら自分へのご褒美として整体に行こうかな。


 そんなことを考えていたそのとき、私の背後で靴音が鳴った気がした。気配を感じて振り返ると、そこには狭山さんが立っていた。


「間宮さん、まだ残業ですか」


「あ、お疲れさまです。狭山さんは今から帰りですか」


「いえ。実は間宮さんが帰るのを待っていたんですが、まだ席を離れる様子がないので様子を見にきたんです」


「えっと、私はもう少し残っていくつもりなんですが……」


 彼がなにを言わんとしているのか分からなくて首を傾げてしまった。


 狭山さんは私の返答などお構いなしに、ビッカビカの腕時計に目を落とした。


 うわ、あれきっと高いやつだ。


「よかったら、今から飯行きませんか? 仕事を手伝ってもらったお礼におごりますよ」


「あー、お気持ちは嬉しいですが、郵便物出しただけでそこまでしてもらうわけにはいきませんよ。まだ仕事も残っていますし、また今度みなさんで行くときに誘ってください」


 できるだけ不快にさせないように、やんわりと断ったつもりだった。しかし、彼にはそういう遠まわしなお断りは通用しないらしい。


「遠慮しなくていいんですよ。終電間に合わなくなる前に行きましょう。もう席の予約は取ってあるんで」


 彼は私の机の上のマウスを操作し、保存をかけてからパソコンの電源を断りもなく落とした。


「え、ちょっと待ってください。勝手にパソコンに触られるのは困ります!」


「大丈夫、大丈夫。じゃあ俺、先に下降りて待ってるんで用意して来てください」


 こっちが大丈夫ではないから言っているのだ。


 狭山さんはまったく悪びれる様子も見せず、颯爽とエレベーターへと歩いて行ってしまった。どうやら、私が一緒に食事に行くと信じて疑っていないらしい。


「どうしよう、このまますっぽかしたら後から面倒なことになりそうだな」


 私は仕方なく帰り支度を始めた。もう一度狭山さんを追いかけて断りを入れるのも手間がかかりそうだし、なんだか礼を欠いているようで心苦しい。それなら、二時間だけ彼に付きあったほうが得策なような気がする。


 まあいいか。お腹も空いてるし、せっかくだから美味しい物食べるのも悪くないかな。


 ロッカールームで制服を脱いで私服に着替え、備え付けの鏡を覗きこんでさっと身支度を整えた。といっても、手櫛で髪を撫でたのと、ファンデーションを薄く塗っただけ。もともと化粧は濃い方ではないし、あからさまに気合いを入れて現れたら向こうも迷惑だろう。


「お待たせしました。行きましょうか」


 会社の前で私を待っていた狭山さんに駆け寄って声をかける。遠目から見ても、彼は見惚れるほど美しい姿勢をしていた。まるで一本の大樹のようだ。


 女子社員が騒ぐだけある。顔の造作自体はそれほど華やかではないのに、立ち姿が絵になっているのは、スーツの上からでも分かるほど引き締まった体躯や凛々しい雰囲気がそうさせているのだろう。


 狭山さんは私の声に顔を上げると、こちらを上から下まで眺めたあと薄く笑って頷いた。なんだか私服姿を値踏みされたようでちょっと気持ちがささくれ立った。


 案内されたのは、会社から近いチェーン店の居酒屋だった。 


 私は席に通された瞬間、こっそりと顔を引きつらせた。個室だ。普段あまり関わりのない他部署の男性と初めてのサシ飲みというだけでも色々といっぱいいっぱいなのに、個室を予約するだなんて彼はどういうつもりなのだろう。


「どうしたの間宮さん? おごりだからって遠慮しないでお酒頼んでいいんだよ」


 硬い表情でアルコールを断った私に、狭山さんは不思議そうに首を傾げた。


「すみません。私お酒飲めない体質なんです」


「学生のうちにならしておかなかったの? 社会人になればこういう付きあいもあるんだから、今のうちに練習しておいた方がいいよ」


 そう言うと、彼はビールを二杯注文してしまった。


 私はムッとした。でも、今日はおごってもらう立場なので何も言わずに頷いておいた。ゆっくり無理せず自分のペースで飲めば一杯くらいは大丈夫。


 乾杯を済ませて一息ついたところで、狭山さんがこちらをまじまじと見つめる。


「間宮さんってさ、今時めずらしいくらい大人しいよね」


「え、私、大人しいですか?」


 どちらかと言えば好き嫌いはっきりしているし、自己主張も強いほうだ。気を許した相手には騒がしいと言われることも多い。でも、会社ではそんな一面を見せるわけにはいかないので無難に過ごしているから、そんな風に思われたのだろうか?


「うん。他の女子と違って恋愛に対してガツガツしてないっていうか、すれた所がないよね。髪もほとんど染めてなくて薄化粧だし、そういう女の子らしいのに控え目な服装もいいと思う。――俺さ、結婚相手を選ぶならそういう女性を選びたいんだよ」


 私は自分の服装を改めて確かめた。今日は紺色のニットのアンサンブル。それに膝下丈のアイボリーのスカートだ。どちらもほとんど無地でこれといって特徴がない普通の恰好だと思う。


「じつはさ、間宮さんに仕事を手伝ってもらったのは半分くらい食事に誘うための口実だったんだ。この前の飲み会で気遣いできる姿が印象的で、それ以来すごく好みの雰囲気だなと思って君を見てたんだ。今日思いきって声をかけて良かった」


 狭山さんは照れる素振りもなく私に空になった取り皿を差し出してくる。テーブルにはサラダや焼き鳥といった料理が並んでいて、二人のどちらからも手を伸ばせば問題なく取れる位置にある。


 これは、あえて私に料理を取り分けてほしいということなのだろう。


 相手の意図をすぐに理解し、私は冷めた笑顔でサラダを取り分けてやった。狭山さんの話を聞けば聞くほど、私は彼を嫌いになった。


 大人しそうな雰囲気で、男に気を遣うことができる控え目な女。髪は染めてなくて化粧も薄く、自己主張しすぎないけれどほどほどに可愛げがある女。彼はそういう女性が好みなのだ。


 私はもうこの時点で狭山さんに怒りを覚えていた。


 私を食事に誘うきっかけが欲しかったという理由でこの男は私の時間を消費させたのか。そして、そんな裏事情を恥ずかしげもなく堂々と披露したということは、私がそれを聞いて喜ぶと思っているのか。


 あの仕事が入らなければこんな時間まで残業しなくてもよかったのに……。


 私の静かな怒りなど知らない狭山さんがテーブルの上に置いていた私の手を握る。


「俺、間宮さんのことがすごく気になるんだ。俺と付き合ってほしい」


 断られるなんて微塵も思っていない自信に満ちた顔。もしかすると、この人振られたこととかないのかもしれない。


 私は少し考え、彼の手をそっと解いた。


「残念ですが、狭山さんの気持ちには応えられません。私、狭山さんが言うように控えめでもないし、本当はすごく自己主張が激しいんです。だから、これからも今まで通り一同僚としてのお付き合いでお願いします」 


 それだけ言い、私は財布から三千円を取り出してテーブルに乗せた。私はビール一杯しか飲んでいないので、これで十分間に合うはずだ。


「おごっていただくのは申し訳ないので、自分の分は払わせてください。では、失礼します」


 呆然としている狭山さんにぺこりと頭を下げ、私は席を立って店を出た。


 ああ、ようやく解放された気分だ。こんなことになるなら多少無理を通してでも彼の誘いを断っておけばよかった。よくよく考えれば彼には度々嫌な気持ちにさせられてきた。


 しょうもない理由で仕事を増やされ、勝手にパソコンの電源を落とされ、挙げ句の果てには好きな飲み物さえ頼ませてくれない。もう散々だ。


「そういうば、店に入ってからいきなりタメ口になってたし……」


 私はがっくりと項垂れた。おそらく年下の女性だから気遣い無用だと思われたのだろう。それをちょっと強引で男らしいととるか、傲慢と取るかはそれまで築いてきた互いの関係が大きく関わってくる。


「私には無理だな。だいたい、狭山さんが好きなのは私の雰囲気であって、私自身じゃないじゃん!」


 そう、彼は言ったのだ。『好みの雰囲気だ』と。つまり彼は私のことをふんわりとしか知らないということだ。そんな曖昧な状態で付きあったって、うまくいくとは思えない。


「はあ……明日から会社行くの気が重いな。仕事に影響ないといいけど……」


 課が違うとはいえ、狭山さんとは同じフロアで働いている以上顔を合わせる機会も多い。きちんと付き合えない理由を述べて丁寧にお断りしたつもりだが、相手がどう捉えたかは分からない。


「いやいや、相手は社内屈指のモテ男なんだからお相手はより取り見取り。こんなことで逆恨みとかしないでしょう。……って、さっきから独りごと多いな私。ちょっと落ち着こう」


 乾いた声で独りごとを笑い飛ばし、少しだけ回ったアルコールのせいで頼りない足取りで私は帰路に付いた。次の日、杞憂だと笑った通りの事態が待っているとは知らずに。


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