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「さてと、そろそろ朔のお腹が空く頃だからミルクを作ろう。優希は初めてだろうから、最初は俺が手本を見せるよ」
三日月に促され、私は朔を毛布ごと十六夜に押し付けてからキッチンへ向かった。三日月は犬用の粉ミルクを計量スプーンで量って哺乳瓶に入れ、お湯を沸かしてそれを溶かした。
「生まれたばかりだからメモリはこのくらい。人肌よりほんの気持ち温かめで作るとよく飲むと思う」
ごつい見た目に反して彼の手は淀みなく繊細に動く。
私は予想外の彼の手際のよさにびっくりした。がたいのよい男がスーツ姿で流れるようにミルクを作っているその様は、なんだか胡散臭い実演販売員みたいに見えなくもない。まあ、ミルクを実演販売する企業はあんまりないだろうけど。
そのとき、リビングの方からミャアともギャアともつかない鳴き声が聞こえてきた。
「起きたな。じゃあ、さっそくあげてみよう」
三日月は朔を毛布から取り出して抱き上げる。三日月の腕に抱かれた朔はとても小さくて頼りない。でもとてもお腹が空いているらしく、一生懸命ミルクを探して頭を上げている。
「待て待て待て、ちょっと落ち着けよお前」
三日月は暴れる朔をリビングのサイドテーブルの上にそっと下ろした。すると、朔は小さな足を踏ん張って立ち上がった。きっと朔も今からミルクをもらえることが分かっているのかもしれない。
三日月は、よたよたしている朔のお腹周りを大きな手のひらで掴み、口をそっと開かせた。朔が口をあけるとピンクの舌がチラリと覗く。
そして、彼は素早く私を振り返った。
「いまだ! 朔が口開いている隙にミルクの吸い口を突っ込め!」
「り、了解」
私は朔の小さな口に哺乳瓶の吸い口を押し込んだ。すると、口の中に何か入ってきたことに気づいた朔が鼻を鳴らしながら吸い口に噛み付いた。
「よーし、ミルクだぞ。いっぱい飲めよ」
んく、んく、んく、と朔は力強くミルクを飲んでいる。焦っているせいで口のまわりの毛にミルクがこぼれ、顎からテーブルの上にパタリと滴が落ちた。
朔は鬼気迫る様子で哺乳瓶に吸いついている。テーブルの上で踏ん張っていたはずの前足はいつの間にか宙に浮き、必死にもがいて空中を引っ掻いている。
そんなに焦らなくても、誰も取らないよ。
朔の必死すぎる様子が微笑ましくて、私は温かい気持ちで見守っていた。
「いい飲みっぷりだな。しばらくは今の要領でミルクをあげてくれ。四時間ごとに授乳しなくちゃならないから、次は夜中の一時だ」
全力でミルクを飲み終え、朦朧としている朔の口元をティッシュで拭ってやりながら三日月が顔を上げた。
朔は満腹になって眠くなったのか、トロンとした目で三日月にされるがままになっている。そして、大きなあくびをしたあと毛布の上に横になった。ぽっこりと膨らんだお腹が可愛い。
え? 四時間ごと?
「ミルクの時間って、そんなに間隔短いの!」
「一度にたくさんの量を飲めないから、必然的に回数が増えるんだよ。初めのうちは辛いだろうけど、そのうちたくさん飲めるようになれば回数も減ってくるから」
三日月にぽんと肩を叩かれて、私の顔が引き攣る。
四時間ごとって……。あ、だからさっき十六夜が眠る暇もないって言ったのか。
言葉もなく十六夜を振り返ると、彼はちょうどじいちゃんとの電話を終えたところで、懐にスマホをしまいながらニヤリと笑った。
「さて、俺たちの役目はここまでだ。心配するな、また一週間後に様子を見に来てやる」
「いや、ちょっと待って! いきなり朔と二人きりにされても困るよ。この子のお世話の仕方もまだよく分からないんだから」
私は慌てて二人を引き止める。彼らしか頼れる味方がいないのだから、もっと色々な事をきちんと教えてもらわないと困る。
それなのに、十六夜は虫けらでも見るような目つきで私を見下ろす。
「なんのためにマニュアルを渡したと思っている。それを穴が空くまで読み込んで世話の仕方を勉強しろ」
そう言うと、十六夜はこれ以上の会話を拒否するかのように足早に玄関へ向かう。
いや、ほんと待って、二人きりにしないでお願いします!
私の心の叫び声が聞こえない男たちは、振り返ることもなく家を出て行ってしまった。私も慌てて裸足で外へと飛び出したが、二人の姿はもうどこにも見えなくなっていた。
「嘘、こんなに簡単に預けて行っちゃうの……」
私は二人を追うことを諦め家の中へ引き返した。
リビングに戻って床に崩れ落ちるようにへたりこむ。
「人の気も知らないで幸せそうに寝ちゃって」
不安は尽きないが、丸いお腹を晒して眠っている朔を見ると気持ちがほぐれていくのが分かる。可愛いって、それだけでものすごい凶器だ。
朔のためにも、私がしっかり頑張らなくちゃ。
私は三日月が置いていったマニュアルを開いた。表紙には、小学生が描いたようなぬるいイラストとともに、やたらとポップな字体でこう書かれていた。
『こだぬきとのエンジョイライフ! ~素敵で立派な豆狸に育てるために必要なこと~』
一大決心をして朔を預かったのに、妙に軽いノリに脱力してしまった。気を取り直してページを進める。
①ミルクを飲ませて丈夫な体を作りましょう
『生まれたばかりの愛らしい豆狸は、普通の狸と変わらぬ姿をしています。これは擬態といって崇高な妖怪であることを隠して生活するためです。事情を知らない人間や他の害獣に見つかったときに、愚鈍な普通の狸に見せかけることによって、危険を回避するための能力です。成長すれば自然と擬態は解け、本来の優美な豆狸の姿を保つことが出来るようになるので心配はありません。
健康な豆狸の体を作るために、ミルクを四時間ごとに規定量を守って飲ませましょう。体が大きくなると飲める量も増えてくるので、成長に応じた量を飲ませましょう。飲み終わった哺乳瓶は必ず消毒をして、清潔に保管しましょう』
分厚いマニュアルを一旦脇へ置いた。
「いやいやいや、あのマンガ狸のフォルムは優美とはかけ離れてるから! どっちかと言うと未来の猫型ロボット体型だから!」
ちょいちょい出てくる豆狸への賛美が鬱陶しい。朔が起きちゃうから独り言は控えたいが、突っ込まずにはいられなかった。
私の大きな声に驚いたのか、朔が前足をピコピコと動かして寝返りをうった。目が覚めてしまうのかと思ってヒヤリとしたが、朔は安らかな寝息をたて、また夢の中へと戻っていった。
それにしても、本当に四時間ごとの授乳が必要なのか。こだぬきを育てるのって、思った以上に大変そうだ。
マニュアルには他にも様々な注意事項がたくさんあるので、一度にすべてを覚えるのは難しい。私は大事そうな箇所に付箋を付け、更に特別大切な文には赤ペンを引いた。
十六夜は熟読しろと言っていたけど、本当にそうしなければ朔のお世話ができないかもしれない。そして、マニュアルを読みながら入念にイメージトレーニングをしてみる。三日月がどうやって朔を抱きかかえてミルクを飲ませたのか思い出し、その手つきをエアーで真似してみる。
「足がこうなるから、こう抱っこして――それで口をあけさせる。うん、なんとかなるかも」
なんとなくひとりでもうまく出来そうな気がしてきた。次の授乳のときにはきっとスマートに朔にミルクを飲ませられるに違いない。
しょぼしょぼしてきた目を擦りながら顔を上げて時計を確認する。今は十時を少し回った時間だ。朔はまだぐっすりと眠っているようだ。彼の眠りは深いらしく、まだまだ起きる気配はない。
今のうちに次の授乳の準備を整えておこう。私は急いでシャワーを浴びて歯を磨き、朔が眠る毛布の隣に音を立てないように布団を敷いた。キッチンに近いほうが何かと便利なので、リビングに布団を敷いて寝る事にする。
電気ポットにお湯を沸かし、哺乳瓶と犬用のミルクの粉をその隣に置く。リビングの電気を落として枕元に電気スタンドを配置して、これで夜を徹してのお世話の準備もバッチリだ。
私はマニュアルを開き、朔が起きるのを待っていた。次の授乳の時間まであと二時間。寝ずに待っていられるはずだったのに、いつの間にかマニュアルに顔を埋めて眠ってしまっていた。そして、ハッと気づいたときには朔のキューンキューンと鳴く声が響いている。
「ああ、ごめん! いまミルクあげるから待ってて」
朔は重たい頭を上げ、哀れを誘う声で鳴いている。私は急いでミルクを作って朔の元に戻った。
「ごめんごめん、お腹空いてるよね。ご飯にしよう」
私は三日月がやっていたように朔を片手で抱き上げて、口をあけさせた。さあ、ここにミルクを……
「しまった! 両手が塞がってる!」
このやり方は二人以上いないとできないらしい。一体どうしたらいいのか考え、私は一度朔の口から手を離した。
朔はなかなかミルクがもらえないことに苛立ったらしく、短い足でじたばたと暴れだした。
「痛、いたいいたい、爪立てないでー!」
パニックになった朔は暴れて手が付けられない。私もつられてパニックになる。ミルクの吸い口を朔の口元にぐいぐい押し付けてみるが、彼は一向に口を開けてくれない。
どうしようどうしよう、飲まなきゃ駄目なのに飲んでくれない。
ミルクを飲みたい朔と、ミルクを飲ませたい私。彼と私の目的は完全に一致しているのに、ぜんぜん達成できない。なんなの深夜のこの大騒ぎ。
そんなとき、朔が哺乳瓶の吸い口を偶然口に咥えた。私はこの幸運を逃さず、吸い口の残りを朔の口に押し込んだ。
朔はようやくご飯が口の中に入ったことを感じて、ひたすらミルクを吸い始める。これでひとまず安心だ。
散々暴れたので息切れしながらの授乳になってしまったが、哺乳瓶の中身はものすごい勢いでなくなっていく。
「もっとゆっくり飲みなさい。そんなに急がなくても大丈夫だから」
あまりにもがっついて飲んでいるので、朔についつい話しかけた。すると、驚いたことに朔の動きがぴたりと止まった。そして、哺乳瓶を咥えたまま、朔は大きなまん丸の目で私をジッと見つめる。
「ん? どうしたの? 飲んでいいよ」
そう言うと、朔はまたミルクをごくごくと飲み始めた。さっきよりも、ほんのわずかだけ落ち着いて飲んでいるように見える。
「もしかして、私の言葉分かってるの?」
ふと、そんな気がして朔の顔を覗き込む。
朔はミルクを飲み終わり、哺乳瓶から口を離して毛布に体を擦り付けていた。私が顔を近づけると、彼は真っ黒のまん丸の瞳で私を見つめ返した。視線を合わせていたのはほんの少しの時間だったけれど、なんとなく私は朔のキラキラと光る無垢な瞳から視線を逸らした。
「まさかね。そんなわけないよね」
いくら不思議な力を持っている豆狸といえども、朔はまだ赤ちゃんだ。いつかは十六夜たちのように人の言葉を話すときが来るとしても、きっとまだそのときじゃない。
朔はすっかり毛布が気に入ってしまったらしく、毛布の中に頭を突っ込んで端の方をガジガジと噛んでいる。
機嫌が良さそうなので安心した。私は使い終わった哺乳瓶をキッチンで手早く洗い、消毒するために水で薄めた専用の漂白剤でつけ置く。
リビングへ戻ると、朔は毛布にくるまって眠っていた。すぐに眠くなるのはまだ赤ちゃんだからだろう。私もそろそろ眠たくなってきた。
布団に入ろうとしたところで、床に広がる冷たい物を踏んでしまって立ち止まる。足元を見ると、小さな水溜りが出来ていた。
まさか……。私は恐る恐るそれを確認してがっくりと肩を落とした。
「ああ、やっぱり!」
明日は朔にトイレを教えなくちゃ駄目だ。濡れた床を雑巾でごしごし拭きながら、私はため息を吐いた。
私がようやく布団に横になったのはそれからしばらく後になってのことだった。もうくたくたに疲れていたので、夢も見ずに眠った。それなのに、朝の五時に三度目の授乳でまた朔に起こされる。
こだぬき様とのエンジョイライフは、まさに寝不足との戦いの始まりでもあった。