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「ちょっと、勝手に困ります!」
男たちはどんどん家の奥へと進んでいく。私の制止を涼しい顔で聞き流し、リビングのソファーにどっかりと腰を下ろした。
「茶!」
眼鏡の男が顎でキッチンの方を示す。
私は唖然とした。こんなに短い命令を受けたのは初めてだ。言葉もなく立ち尽くしていると、短髪の男も「あ、何か甘い物もあったらお願いしまーす」と追い討ちをかけてくる。
こっちの男は言葉だけは低姿勢だが、よく考えてみると他人の家で茶菓子をねだる行為だって大概非常識だ。
憤りを隠せないまま彼らのためにお茶の準備を始める。彼らが何者なのかはしらないが、とにかく早く帰ってもらいたい。
お茶飲んだらさっさと帰らないかな……。
チラッと男たちを横目で盗み見ると、彼らはいつの間に取り出したのか、ふかふかのクッションに背を預けながらお茶と菓子を待っていた。
あんなに大きなクッションじいちゃんの家にあったかな?
怪訝に思ったが、私は戸棚の中を引っ掻き回してお茶の葉を捜す。しかし、慣れないキッチンのせいでなかなか目当ての物が見つけられない。
「お茶と急須はここだよ。それから、湯のみはこっちの食器棚。いつもお菓子をしまっている棚の中には……やった、どら焼きがあるじゃん」
いつの間に忍び寄っていたのか、短髪が私の後ろから長い腕を伸ばし、片手でてきぱきとお茶を入れる準備を手伝い始めた。
「あ、ありがとうございます」
「いいえー、どういたしまして」
不思議だ。どうして彼はお茶や必要な物の在り処が分かったんだろう?
私が不振な目で短髪の男を見上げていると、彼は不思議そうに首を傾げた。
「どうかした。十六夜が待ってるから早く行こう」
彼はもう一方の手に毛布を抱えたまま笑顔で促す。
さっきから気になっていたのだが、丸めた毛布を肌身離さず持って歩くのもかなり妙だ。かといって「それはなんですか」なんて聞く勇気はない。
「あの、どうぞ」
眉間の皺を深くしている眼鏡にお茶を勧めると、彼は無言でそれを啜る。短髪の男もソファーに座って湯飲みを傾ける。
一息ついてから、眼鏡の男が口を開いた。
「ところで、お前はどこの誰で、長十郎との関係はなんだ」
「まさかとは思うけど、長さんの若い愛人とか……」
眼鏡の言葉に、短髪が恐る恐る口を挟んできた。
私は目の前の光景がくらりと歪んだ気がした。言うに事欠いて、愛人とは失礼な。
「祖父と孫の関係です!」
私は怒り交じりに声を荒らげた。勝手に家に上がりこんだあげく、変な誤解しないで欲しい。
「孫の間宮優希です。じいちゃんが旅行に行っている間、私が留守番を任されています」
「なるほど。では、悟か篤志の娘か」
「父さんの名前は篤志ですけど……もしかして、父さんとも知り合いなの?」
父さんの名前が出てきたとたん、いままで張りつめていた緊張の糸が少し緩んだ。そういえば、彼らはじいちゃんの事もよく知っているみたいだ。私と面識がないだけで、あんがい遠い親戚だったりするのかもしれない。
「ああ、篤志の方か。俺たちは悟と篤志と一緒に育ったんだよ。いわば兄弟みたいなものかな。俺がこだぬきだった頃、よく篤志に尻尾引っ張りまわされたもんだよ。懐かしいなー」
短髪が遠くを見るような目をしてどら焼きを頬張る。
ん? 尻尾?
いま聞き捨てならない言葉が聞こえた。でも、それらの疑問を尋ねる前に眼鏡の男が私に向かって掌を突き出してきた。彼のその仕草は、よけいな口を利くなと言っているみたいだ。
「昔話はここまでにして本題に入ろう。三日月、和子をここに」
三日月と呼ばれた短髪の男は、ずっと大事そうに抱えていた毛布を眼鏡の男に手渡した。
「いま眠っているところだから、そっと抱いてくれよ十六夜」
十六夜と呼ばれたのは眼鏡の男だ。彼は優しい手つきで毛布を受け取ると、私に向かって手招きをする。
彼の無言の招きに逆らえず、私は彼の側へにじり寄った。この人、いちいち圧かけてくるからちょっと怖い。
「我々、豆狸と人との間に交わされた古の契約に基づき、この間宮優希に和子を育てる栄誉を与える。骨身を粉砕する覚悟で育め」
「は?」
なんだって?
私は状況についていけないまま、十六夜が強引にこちらへ押し付けてくる毛布を思わず両手で受け取ってしまった。
中でなにかがもぞもぞと動いている。温かい。いったい何が入ってるの?
私は毛布をそっとめくってみた。すると、そこには小さな黒い獣の姿あった。ときおり震える丸い耳と、ピスピスと動いている鼻が可愛らしい。
両目はしっかりと閉じられていたが、蛍光灯の光が眩しかったのか、その子は眉間の間に皺を寄せて一瞬目を開いた。真っ黒に濡れたつぶらな瞳に私が映る。鼻をクンクンと鳴らしたあと、安心したようにまた毛布に顎をのせて眠ってしまった。
「か、かわいい」
私の心臓が、キューっと音を立てて一回り縮んだような気がした。
毛布に埋まっている黒い毛はふわふわで、短い前足の裏側に小さな肉球がちらっと覗いているのがもうたまらなく可愛い。
声を落として大興奮している私の前で、十六夜と三日月はなぜか誇らしい顔で頷いていた。まるで「そうだろうそうだろう」とそのドヤ顔が言っているようだ。
可愛いなー、柴犬に似ているけど何となく顔付きが違う。紀州犬でもなければ、秋田犬にも似ていない。ミックスなのかな? パッと見たところ、小熊にも似ているような気もする。
「この子、なんていう犬種なんです――?」
「犬ではない、こだぬきだ!!」
犬種を聞こうとしただけなのに、食い気味に怒鳴られた。十六夜の剣幕にぽかんとしてしまった私を見て、彼の額に更に青筋が浮かぶ。
「お前はさっきからなにを聞いていたんだ、このバカ者。狸だと言っているだろう!」
「まあまあ十六夜、そんなに怒るなよ。優希も俺たち豆狸のことはちゃんと長さんから聞かされているんだろう?」
「まめ……だぬき?」
なにそれ初めて聞いたよ。しかも俺たちとか言っちゃってるよ、この人。
不安と動揺が顔に出ていた私を見て、十六夜がふぅとため息を吐く。
「どうやらなにも知らないらしいな。――俺たちは島に古くから住む豆狸だ。幻を見せて人を惑わし、ときに人の姿に化けたりする」
「そうそう。ちょうど今の状態だね」
十六夜の説明に、三日月が合いの手よろしく言葉を挟む。
私は二人を交互に見つめた。
この人たちが、実は狸? 信じられない。なに馬鹿なこと言ってるんだろう。頭大丈夫かな……。
私の心中を察したのか、十六夜がムッとした表情で眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。
「俺たちの変化が完璧だから信じられないのも無理はない。仕方がない、今夜は特別に豆狸の本当の姿を見せてやる」
そう言うや否や、十六夜と三日月が頭のてっぺんから布のようなものを脱ぐ動作をする。すると、彼らが被っていた茶色いものがズルリと剥がれ、二本の短い足でちんまりと仁王立ちしている狸が二匹現れた。
「どうだ、これで信じる気になっただろう」
「この姿は滅多に人には見せないから、貴重な体験なんだよー。驚いてね」
まん丸な耳に、まん丸の顔。目の周りの黒い縁取りと縞々のぷくりと膨れた尻尾。どこからどう見てもマンガでよく見かける狸が二匹、胸を張ってふんぞり返っている。
……これ、夢かな?
「恐れおののいて言葉もないか」
十六夜だと思われる狸が、馬鹿にした口調でふふんと笑う。
私は手を伸ばして彼の頬をつまみ上げた。思ったよりも柔らかな毛がぬいぐるみっぽい。そのまま背中やお腹にチャックがついていないか撫で回してみる。手触りのいい短い毛が気持ちいいけど、彼の背中やお腹にはチャックもボタンもついていない。それどころか、電池のありかも分からなかった。
「やめろ、無礼だぞ! 電池なんかで動いてたまるか、この馬鹿者」
「このぬいぐるみ、なんで喋るの? さっきのドS眼鏡どこ行った? おっとり脳筋どこに隠した!」
私は十六夜だと思われる狸をぶんぶん振り回した。
こんなことが現実にあるわけない。これを認めてしまったら、私が今まで信じていた世界が崩れてしまう。幽霊も妖精も妖怪も、みんな人間が作り出した御伽噺に決まっている。
あ、でも柔らかいなこれ。つきたてのお餅みたいによく伸びる。
「やめろと言っているだろう!」
十六夜がジタバタと暴れて私の手から逃れると、くるりと空中で一回転をして、きちんと足から床に着地する。
あんなに手足が短いのに、豆狸は意外と運動能力が高いらしい。
「信じられない、本当に十六夜と三日月なの? どうやって人に化けているの? 豆狸ってなんなの?」
私は恐る恐る彼らに尋ねる。散々引っ張りまわしたので、彼らがぬいぐるみでもなければロボットでもないことが分かってしまった。
「我々は下半身の袋を伸ばして被ることで人に化ける。見ていろ」
そう言って、十六夜はポンと膨らんだお腹の下で何かを捏ねる動きを見せた。そして、それをガバッと一気に引き伸ばしたかと思うと、頭まですっぽりと被る。
瞬きをするうちに、眼鏡をかけた白スーツ姿の十六夜が現れていた。
「どうだ。恐れ入ったか」
得意そうに私の肩を叩く。
「触わんな変態!」
私は全力で彼らから遠ざかった。いま十六夜が被ったのは、つまりあの部分で、それを全身に纏っているってことは……。
うん、絶対私に近寄るなよ。お前ら。
「雄の豆狸はさっきの方法で化けるんだ。豆狸についてもっと詳しく知りたかったら、ググるかウィキ先生にでも尋ねてみてね」
のんびりした口調で三日月がそう口にする。ネットにも精通しているのかこの狸たち……。
「人に化けることが出来るのは雄だけなんだ。それも、修行を積んだエリート狸しか化けることができない。だから、人と交流を深められるのも雄の狸だけ。この子も、いずれ人の姿に化けることを覚えるんだよ」
三日月は私の腕の中で眠るこだぬきを愛おしそうに見つめる。
「俺と十六夜はこの家で長さんたちに育てられたんだよ。彼との特訓のお陰で、俺は島の豆狸の中でも一番広く袋を伸ばせるようになったんだ。あの時の毎朝のしごきがなけりゃ、六畳まで伸ばせるようにはならなかっただろうな」
遠い過去を懐かしむような顔をして、三日月も人の形を取った。そして、どこからか取り出したクッションを背中にあてがい、よっこらしょっと掛け声をかけてソファーに座った。
「ねえ、さっきから気になってたんだけど、まさか、そのクッションも……?」
「ああ、そうだよ。なんなら優希の分も出してあげようか。俺ならそっちの方まで楽に伸ばせるから大丈夫」
「結構です! 大丈夫だから絶対こっちまで伸ばさないで!」
ほんと変態だらけだよ。年若い女子の前でなんてものを晒してくれるのだ。豆狸ってみんなこんななの? じいちゃんも、なんでそんな特訓とかさせてるの?
私の心の声が外にダダ漏れになっているのか、三日月がきょとんとした顔を浮かべる。
「いや、なんでって……化けるのが上手いほど豆狸としてはモテるんだ。俺や十六夜のように、四畳以上広げることが出来る狸はそうはいないんだよ」
「私的には広げた時点でアウトだからね!」
私は腕の中ですやすやと眠っているこだぬきを見つめた。
この子は無垢だ。いずれあんなのになるのかもしれないけど、今は大地に積もったばかりの真っ白い雪のように無垢で可愛い。
でも、この子を預かれるかと言われたらそれは別問題だ。ある日突然、こだぬきを育てろと言われても困る。
「ねえ、この子はどうして人が育てるの? お山で狸たちが育てたらいいじゃない。この子を産んだ母親がいるんでしょう?」
「母親は……残念ながらもういない。子どもを産んですぐに亡くなってしまった。母親と死別してしまった和子は人間に預けるのがこの島の豆狸のしきたりなんだ。この子は、人間と豆狸の架け橋となる。そして、しきたりはどんなことがあっても変えることは出来ない」
「そんな……私ひとりで赤ちゃんを育てるなんて自信ないよ」
「大丈夫。きちんとマニュアルだってあるし、備品はこちらで全て支給するよ。それに、俺たちがアドバイザーとして定期的に面会して相談に乗るから大丈夫」
三日月は彼の股間の辺りから大きな紙袋を取り出して机の上においた。一瞬のことでよく分からなかったが、きっと彼らの何でもポケットの中にしまっていたんだろう。
中を見てくれ、とニコニコ顔で勧めてくるが正直触りたくない。でもそれではいつまで経っても話が進まないので、私は意を決して紙袋に手を伸ばした。
生暖かい。それだけで目の前の人の良さそうなマッチョの頬を思い切り引き伸ばしたくなった。
気を取り直して紙袋の中身を改める。そこには、ペットシートに似たものが三パック、それから子犬用の粉ミルクと哺乳瓶が一組、そして、最後に電話帳くらい分厚い子育てマニュアルが入っていた。
「こだぬきをお世話するときの注意点や、成長に応じた課題が掲載されている。これを熟読してこの子を立派な一人前の豆狸に育ててやってくれ」
三日月はそう言ってウインクをする。
私はそれに頷くことが出来ずに、ずっと下を向いていた。そして、おずおずと口を開く。
「あの……もしも、私が子育てを拒否したら、この子はどうなるの?」
「どうにもならん。山にも人間界にも居場所がなくなるだけだ」
十六夜の言葉に血の気が引いた。
「それは、死んじゃうっていうこと?」
二人は何も言わずに黙っている。でも、その沈黙が肯定なのだということが、彼らの重たい雰囲気で伝わってくる。
「人間との架け橋になる役目を負ったこだぬきは、幼いうちに群れから引き離される。親の愛情もしらず、仲間の情にも触れられない。だから、母親の分まで優希がこの子を愛してやってほしい」
そう口にする十六夜の目は、今までにないほど優しい顔をしている。きっと、彼もその道を通ってきたからこの子の気持ちがよく分かるのだろう。
「……分かった。私がこの子を育てる」
あんなに不安だったのに、私はすんなりと二人の願いを聞き入れる決心をしていた。こうして一度でも腕に抱いてしまえば、幼い命を見捨てられる訳がない。
「では、名前を付けてくれ」
「私がつけていいの?」
驚いて二人を見返すと、三日月が頷いた。
「そうだよ。優希がつけるんだ。ただし、ポンのつく名前だけは勘弁な。ポン太だのポン吉だのが結構いるんだよ」
狸の名前と聞いて、まず誰もが思いつくのがそのあたりだ。ポンっていう響きを入れたい気持ちはよく分かるけど、そんなに嫌がられるなら違う名前を考えなくちゃ駄目みたいだ。
「そういえば、二人の名前は誰がつけたの?」
「俺は静代につけてもらった。『躊躇う』という意味を持つ言葉だそうだが、静代はあえて俺に十六夜という名前をつけたと聞いている。俺を育てることに躊躇う気持ちを持たないためだそうだ」
静代というのは、父さんが幼い頃に病気で亡くなってしまったばあちゃんだ。眼鏡をかけたクールビューティーで、しっかり者で芯の強い女性だったらしい。
写真でしか見ることが出来ないばあちゃんを十六夜が知っているのかと思うと、なんだか感慨深い。
「俺は長さんにつけてもらった。俺がこの家に来た日が、ちょうど細い三日月の日だったんだ」
なんの捻りもない所が逆にじいちゃんらしい。
私はすやすやと眠るこだぬきの寝顔を覗き込んでいるうちに、彼の名前を閃いた。
「朔。この子の名前は朔にする」
「新月の朔か?」
十六夜の眉毛が意味あり気に上がった。
「そうだよ」
私の言葉を聞いて、三日月が不思議そうに窓の外を見上げて首を傾げる。
「え? 今日は月が出ているのに、どうして朔なんだ」
「朔には『始まり』という意味もある。学も教養もないただの小娘かと思っていたが、なかなか良い名前を選んだじゃないか」
私の代わりに十六夜が説明をしてくれた。
狸には月が似合うと思う。だから、ばあちゃんもじいちゃんも月にちなんだ名前をつけたのだろう。この家で育つ狸の証として、私もこの子に月の名前をプレゼントしたいと思ったのだ。
「よい名前だな。優希、朔をどうかよろしく頼む。こいつは俺たちの弟分だ、大事にしてほしい」
「分かってるよ十六夜。――あ、そういえば今夜お客さんが来たら、必ずじいちゃんに連絡するって約束だったんだ! お客さんって、あんたたちのことなんでしょう」
私は毛布を抱いたまま、携帯電話を探した。
「長十郎には俺から電話をしておく。優希がお役目に付いたことも説明しなくてはならないからな」
「ありがとう。助かるよ」
「いやいや、礼には及ばない。これから優希には寝る暇もないほどの重労働が待っているのだから、このくらいはサービスしてやるさ」
十六夜はスーツの胸ポケットからスマホを取り出し、不適な笑みを見せた。
え、いまこの眼鏡なんて言った?