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じいちゃんが腕によりをかけて作ってくれた夕食はそれはそれは豪勢な食事だった。脂の乗った刺身五点盛りに大きなえびの姿焼き、そして魚の頭で出汁を取った味噌汁と山菜ご飯。
じいちゃんばかりに料理をさせるのは申し訳ないので、私も負けじと分厚いとんかつを揚げ、魚介たっぷりシーフードサラダを作った。
ふたりでお腹が破裂しそうなほどご馳走を食べ、片付けのあとにお風呂に浸かると旅の疲れがどっと押し寄せてきた。
じいちゃんはビールを飲んだせいか眠くなったらしく、先に休むと部屋に行ってしまった。なにしろ明日から豪華客船の旅なのだ。早く寝ておいたほうがいい。
割り当てられた客間に布団を敷き、お日様の匂いのする柔らかな敷き布団にごろりと横たわると、とろとろとした眠気が襲ってくる。
久しぶりにじいちゃんに会えて本当に嬉しかった。でも、私だって馬鹿ではない。明日の雄田貫神社の祭りの話題になると、じいちゃんの歯切れがとたんに悪くなることにはとっくに気づいている。
「なーんか大事なことを隠されている気がしてもやもやするんだよなあ」
祭りの間にいったい何が行われるのだろう? それを知ることができれば、じいちゃんたちが秘密にしようとしていることもわかるのだろうか。
そんな事を考えながら、その日はいつの間にか眠ってしまった。
「それじゃあ、行ってくるな」
「行ってらっしゃい。留守は任せて」
次の日の朝早く、じいちゃんはスーツケースを持って出かけていった。三週間弱の旅行にしては荷物が少なく見えたが、まあ男の人ならこんなものなのかもしれない。
じいちゃんを送り出してしまったら、いきなり自由な時間ができて暇になってしまった。家を預かっているからには、まずは掃除と洗濯かな。
「ん? これなんの傷だろう」
掃除機をかけた後の雑巾がけの際に、ダイニングテーブルの足に目を止める。そこには動物に引っかかれた傷や、かじられたような跡がたくさん付いていた。よく見れば、傷はどれも古いもので、家具の裏側ばかりが狙われたようだ。
「犬でも飼っていたのかな。この高さなら小型犬かも」
低い位置にある噛み傷にそっと触れる。かなりやんちゃな性格だったのか、テーブルの足だけではなく、椅子やテレビ台の裏にも同じような傷がついていた。
小さな犬が元気に走り回りながら家具に噛みついているところを想像するとつい顔がにやけてしまう。
可愛いな、どんな子だったんだろう。探せば写真とか出てくるかな。
私の今の住まいはペット不可なので生き物を飼うことができない。いつか条件が整ったときに可愛い犬を飼いたいと思っているが、それがいつになるのかは今のところ未定だ。
昼の間ずっと独りでお留守番させるのはかわいそうなので、いつか犬好きな結婚相手を捕まえられたときに可愛い子をお迎えできたらいいなと思っている。ちなみに、今は付き合っている彼氏はいない。というか、生まれてこのかた恋人いたことない……。
「じいちゃんだったら大型犬とか好きそうだな。帰ってきたら聞いてみよう」
午前中のうちに掃除と洗濯を終わらせると、もうする事がなくなってしまった。私は家から持ってきた本を数冊取り出してきた。いつか読もう読もうと思って積み上げていたものだ。
リビングの窓を開けてページを捲っていると、蝉の声が部屋に入ってくる。東京でもそれなりに蝉は鳴いていて、いつもうんざりする思いでその声を聞いていたが、この家で聞く蝉の声はなぜか不快に感じない。むしろ、ここではそれが自然なことだと思えてくるから不思議だ。
この島に滞在していると、まるで自然の中に人間が間借りさせてもらっているような気持ちになる。ここは人間だけの島ではない。海が時化れば漁には出られないし、山の実りが少なければ家計に打撃を受ける家も少なくない。
みんな自然の恵みに感謝し、同時にいつも凪いだ顔を見せてほしいという願いを込めて大切に奉っている。実際、海や山にはお堂や祠がたくさん建てられており、近所の人たちがお供え物を持っていく光景も珍しくない。
都会にいる間は忘れてしまっていた自然への畏敬の念が、私にもふつふつとわいてくる。
私は一度本を置いた。
「そろそろお昼か。ちょっと休憩にしよう」
鍋にお湯を沸かしてそうめんを茹でる。冷蔵庫の中にある食材を確認すると……
「にんにくもあるしトマトになすび――あ、ツナ缶もある」
これだけあればトマトとなすびの冷製そうめんが作れる。さっそくオリーブオイルでニンニクを軽く炒め、ざく切りにしたなすびを炒め塩で味付けする。それにトマトと一緒にツナを加えて混ぜ、少量のめんつゆを絡めて出来上がり。
最後に水で冷やしておいたそうめんの上にそれをかければ完成だ。トマトの酸味とほのかなニンニクの香りで、食欲がないときでもつるっと食べられる。
二杯目をお代わりしようかと思っていると、縁側の方から「おーい」という声が聞こえた。
「はーい、ちょっとまってくださいね」
縁側に回ると、そこには健吾が立っていた。
「あれ? 今日もなにか注文してたっけ?」
「いや、配達のついでに寄っただけ」
健吾は昨日と同じように白シャツにジーパン、そして首からタオルをかけている。
この辺りは民家が少なく、隣の家まで距離がある。健吾は私が困っていないかと気を遣って様子を見に来てくれたのだろう。
「大丈夫。食べ物も飲み物もまだ十分あるし、ちょうどお昼食べてたところ」
「そういや、なんかいい匂いするな」
タオルで額の汗を拭きながら、健吾はふんふんと鼻をひくつかせた。縁側まで漂ってきたオリーブオイルとニンニクの入り混じった香りを嗅ぎ取ったらしい。
「そうだ、ちょっと待ってて」
私はキッチンへ戻り、作ったばかりの冷製そうめんと冷えた麦茶をトレーに乗せて縁側へ戻った。
言われた通りに大人しく待っていた健吾にそれを差し出す。
「もしかしてお昼まだなんじゃない? せっかくだから、ちょっと休んでいきなよ」
「いいのか? 昼飯まだだったからありがたい」
健吾は嬉しそうにそう言うと、いそいそと縁側に腰掛け、まず麦茶をぐいっと一口呷った。
「あー生き返る!」
そして割り箸を割って、そうめんの皿を覗き込んだ。
「なにこれ美味そう」
そう言うや否や大きな口を開け、ずずっと豪快に啜る。口に含んだ瞬間、健吾の目がカッとを大きく見開かれた。
どうやらお気に召したようで、夢中になってそうめんを食べている。ガバッと豪快に開く口でそうめんを頬張り、幸せそうに目を細めて租借している。
私はそんな彼の姿を見ているうちに、自分でもなぜかわからない謎の激しい動悸に襲われていた。目の前でこんなに美味しそうに食べられると無性に恥ずかしくなってしまった。
こんなことになるなら、あり合わせで作ったご飯じゃなくてもっと手の込んだ料理を作っておけばよかったよ。
「ごちそうさん。いや、マジで美味かったわ」
「いえいえ。お粗末様でした」
健吾は空になった皿とコップを置いてすぐに立ち上がった。これからまた配達に向かうらしい。
「ちょっと様子見に来ただけのつもりだったんだけど、昼飯までご馳走になって悪かったな。今度うちでなんか注文するときにサービスするよ。あと、なにか困ったことがあったら遠慮しないで電話しろよ」
そう告げると、健吾は駆け足で車へ戻っていった。
急いでいるところを見ると、あまり時間がなかったのかもしれない。引きとめてしまって悪いことをしたかな。
食器を片付け、またソファーへ戻って本の続きを読み始める。しかし、一日中本ばかり読んでいるのも少し飽きてきた。一冊読み終えたところで、私は外へ出かけたくなってきた。
車の運転はできないのでせいぜいご近所を歩くことしかできないが、散歩するにしてもなにかしらの目的は欲しい。
そうだ、じいちゃんの家の裏の山を登ったところには、ちょうど雄田貫神社があるではないか。
「参拝に行こう! 運がよければ、今夜のお祭りの準備も見られるかもしれない」
祭りの夜は出歩いてはいけないと言われているが、神社に近づいてはいけないとは聞いていない。今は昼間だし問題はないだろう。
そうと決まればすぐに行動だ。私は暑さ対策の麦藁帽子を被り、勇んで出かけていった。
「傾斜……無理。この傾斜が憎い……」
私は肩で息をしながら長い階段を登っていた。傾斜十五度を超える急斜面に、延々と石段が続いている。雄田貫神社へ行くのに、こんな辛い思いをするとは思わなかった。
私は一度立ち止まり、いつの間にか曲がっていた腰を伸ばして階段の先を見上げる。まだまだ地獄は終わらない。
いったいどうしてこんなに傾斜がキツイ場所に神社作ったんだ? これはあれなのか、選ばれし者しかたどり着けない試練かなにかなの? そもそもこんな場所に神社作らなくても、もっと地元の人たちに気軽に訪れてもらえる場所があったんじゃないの? これじゃあ、足が悪いお年寄りとか参拝に来られないよ?
息が激しく乱れているから口には出さなかったものの、心のなかでは醜い愚痴が渦巻く。
こんなくさくさした気持ちのまま神社に上がるのはちょっと失礼かもしれない。鳥居を潜る前に心を落ち着かせておこう。
滴る汗を拭い、私はまた頂上を目指した。ようやく階段を登り終えたときには、もう足を上げるのも嫌になっていた。
朱塗りの鳥居をくぐり抜け、雄田貫神社の境内に入る。その瞬間、正面から爽やかな風が私の頬を撫でていった。まるで歓迎してもらったような気がして嬉しくなる。
さっきは散々悪口言ってごめんなさい。
参道の端を進み、手水で手と口を清める。本堂は古い木造の造りだったが、よく手入れされているらしく痛んでいる様子はない。木陰に入って景色を楽しんでいると、再び清々しい風がさぁっと走り抜けていく。
摂社も末社も見当たらなかったので、私は真っ直ぐ本堂へと向かった。お賽銭を入れて二礼二拍手。とつぜんよそ者が現れてお願いごとをしていくのは失礼にあたるかもしれないので、まずはご挨拶だけに留めておく。最後に一礼をしてから辺りを見回した。
今夜はお祭りだというのに、まったく人の気配がない。それどころか、お祭りを思わせる旗の一本も立っていない。
本当に今夜お祭りあるの?
社務所で少し話を聞けないかと本堂の裏手に回ってみるが、それらしい建物はなにもない。そろそろ帰かろうかと後う振り返った瞬間、藪の奥からガサガサという音が聞こえてきた。
ずいぶん近い距離だ。山の中の神社なので、野生の動物が出るのかもしれない。ウサギとか可愛い動物ならいいが、気性の荒いものだと困る。テリトリーに侵入されて攻撃してくる動物だったらどうしよう。
私は藪の中のなにかを刺激しないようじっと息を潜め、じりじりと後ろに下がる。
このままフェードアウトするから大丈夫だよ。だから襲ってこないでね。
あと少しで神社の参道に戻れるというところで、森の奥からガサガサと激しい音が鳴りはじめた。ぎょっとして立ち止まると、周りの藪が一斉に蠢くのが見えた。
鹿? まさか熊? いやいやこの島には熊は生息していないはずだから大丈夫。でも、じいちゃんが昔イノシシを見たって言っていたから、もしかするとイノシシかもしれない。いつのまにかあちこちの茂みが揺れ動き、唸るような獣の息遣いが聞こえている。
囲まれてる……。
私はゾッとして、一目散に逃げだした。
子どもの頃にじいちゃんから教わった野生動物に出会ったときに注意事項は頭から綺麗に吹き飛び、とにかくこの場所から逃げたくてたまらなかった。
階段で転びそうになりながら全速力で山を下る。じいちゃんの家まで走って逃げ帰り、玄関の鍵をかけたところでようやく安堵することができた。肺が爆発するんじゃないかと思うほど息がきれ、口の中がからからになっていた。
ああ、怖かった。氏子でもないのに興味本位で覗きに行ったのがまずかったのだろうか。もう、雄田貫神社には近づかない。
それにしても、汗だくになってしまった。
私はシャワーを浴び、その後夕食を食べ終えてテレビを見ながら夜を過ごした。今夜は誰も外出してはいけないらしいので、このまま戸締りをしてしまおう。
祭事の夜ということで、いつにもまして人の気配はない。昨日は少ないながらも車が何台か通り過ぎる音がしていたのに、今夜はそれもない。隣の家までの距離が開いているせいで生活音もまったく耳に入ってこない。聞こえてくるのは虫や蛙の声ばかりだ。
「健吾が尋ねてくれなかったら、今日は誰とも会話してなかったかもなあ」
こんな寂しいところに一人で暮らしているじいちゃんは、どれほど夜が寂しいことだろう。じいちゃんが一人で過ごしているところを想像してみると、なんとなく胸が痛くなった。
ばあちゃんは、私が生まれるずっと前に他界してしまったそうだ。
居間に飾られているばあちゃんの写真を手にとって眺める。綺麗な人だ。細身で眼鏡をかけていて、少し神経質そうなところが、父さんの兄である伯父さんによく似ている。ガタイがよくてワイルドな雰囲気のじいちゃんとクールビューティーなばあちゃんが並ぶと、まさに美女と野獣だ。
学校の先生をしていたばあちゃんは、怒るとそれはそれは恐ろしかったと父さんは語る。
「私も会ってみたかったな」
もし今でも生きていたなら、じいちゃんとおなじように可愛がってくれただろうか? それとも、わりとだらしない私の素行を見かねてお説教が絶えなかっただろうか?
そのとき、来訪を告げるチャイムが鳴った。
私はびっくりして時計を確認する。いまは八時を過ぎたところだ。今日は神社のお祭りの日だから、島民は絶対に外出を控えるはず。
私は迷いながら玄関を開けた。すると、そこにはスーツ姿の男がふたり立っていた。ひとりはフレームレスの眼鏡をかけていて髪をオールバックにしている。こちらを見下ろしている目つきが異様に鋭く、目があった瞬間私は震えあがった。白いタイトなスーツを身に着けており、それが妙に様になっている。まるで映画に出て来てくるインテリやくざのようだ。
もうひとりは、短い髪を逆立てた体格の良い男だ。くりっとした大きな目に口角の上がった口元。ダークスーツを着ている姿は厳ついが、絶対悪いことなんてできないような優しい顔をしている。彼はなぜか丸めた毛布を持っていて、ときおりそれを大事そうに抱え直している。
「どちら様ですか?」
私は慎重に彼らの様子を窺った。どう見ても近所の人じゃない。何かの勧誘? それとも地上げ屋?
「……長十郎はいないのか?」
眼鏡の男が私越しに廊下の奥を見ながらそう呟いた。
「あ、あの、じいちゃんは出かけています。失礼ですがどちら様ですか」
正直に答えてしまってから、しまったと思った。この家に私しかいないことを自分からバラしてしまった。すると、短髪の方が素っ頓狂な声を上げる。
「ええ、長さんいないの! どうする十六夜」
「くそ、長十郎の援助を受けられると思ったから、この女に和子を預けることにしたというのに。だが今さら変更はできない。このまま進めるしかないな」
眼鏡の男があからさまに嫌な顔をして舌打ちをする。
私の質問は華麗に無視され、男たちはひそひそと相談を始めた。そして、話が纏まったところで二人そろって私に向き直った。
「この度の雄田貫神社祭の宣託において、栄誉ある養い親に君が選ばれた。謹んで拝命したまえ」
「え、いまなんて……?」
眼鏡の偉そうでふてぶてしい物言いが気に障る。彼の言葉が半分も頭に入ってこないのは、私の理解力が足りないせいではないと思いたい。
「おめでとう。養い親は初めてだろうから戸惑うことばかりかもしれないが、頑張ってくれよ」
短髪はニコニコしながらぐいぐいと前に出てくる。
私がなにも言えずに固まっているのに焦れたのか、眼鏡が不機嫌そうに舌打ちをした。さっきからこの男舌打ち多いな。
「察しの悪い娘だな。おまけに気も利かないとは。まずは使者を丁重にもてなすのが昔からの慣わしだろう」
そう言うと、眼鏡の男が私を押しのけて家の中へ上がりこんでくる。短髪の男も「おじゃましまーす」とあとに続いた。