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眠った朔を起こさないように寝床に寝かせ、私は自分の夕食を作り始めた。冷蔵庫の食材もだいぶ減ってきたのでそろそろ買い足したいところだ。
じいちゃんの家に来てからというもの、碌に外出していない。三時間ごとにミルクを飲まなければならない朔を抱えて遠出はできないし、まして彼を人目に触れるような所には連れていけない。
「かといって朔を家に置いて買い物には行けないし……。やっぱり配達をお願いしなくちゃダメかな」
冷蔵庫に貼られている三枚のメモ。そのうちの一枚に目が吸い寄せられ、そっと逸らした。健吾の携帯に電話をかける勇気はまだ出ない。ヘタレな考えだと自分でも分かっているが、健吾と向き合うにはもう少し時間が欲しかった。
私は冷蔵庫の野菜室で少ししなびてしまったキャベツと大根を手に取った。キャベツはざく切りにして卵とじにし、大根は豚バラ肉と一緒に炒める。
あまり夏を感じる食べ物ではないが、誰が文句を言うわけでもないので構わない。一人暮らしが長いので調理にさほど苦労は感じない。仕事が忙しいときは買ってきた惣菜で済ませていたが、本来料理は好きな性質だ。
出来上がった料理をテーブルに運んで一人で食事の席に着く。黙々と箸を動かして食べる静かな夕食は、なんだか少し味気ない。
誰かのために作ると張り合いが出るって言うけど……。
そういえば最近、ずっと誰ともしゃべっていない。朔にはよく話しかけているが、彼は人の言葉を理解していても返事を返すことができないので言葉は一方通行だ。
「はあ、もしもずーっとこのままでいたら、いつか声の出し方忘れちゃうかも……」
使わなければ声帯だって鈍る。このまま家に引きこもって朔と二人きりで過ごしていたら、冗談ぬきにそうなってしまうかもしれない。そう考えると、朔との二人きりの生活が少し恐ろしいものに感じた。
夕食を食べ終え、洗い物を済ましてからリビングでテレビを付ける。特にみたい番組が思いつかずパチパチとチャンネルを変える。それにしても、今日は朔はよく寝ている。もうそろそろお腹が空いてくる時間だろうと思っていたが、彼が目を覚ます気配はない。
「おーい、そろそろミルクの時間だよ」
朔の寝床を覗いて声をかけてみるが、彼は背を丸めたまま起き上がってこない。
「朔? どうしたの」
いつもは規則正しく上下している彼のお腹が、このとき妙にせわしなく動いているのが見えた。私は慌てて朔を抱き上げる。
熱い。
抱き寄せた朔の体は燃えるように熱かった。彼はきつく目を閉じ、はあはあと苦しそうに荒い息を吐いてぐったりとしていた。
「朔!」
背中に突然氷水をぶちまけられたような悪寒がした。さっきまで元気いっぱいに部屋の中を走りまわっていた朔がこんなに急に体調を崩すなんて……。
急いで子育てマニュアルを引っ張り出し『病気』の項目を探した。しかし、豆狸は本来病気とは無縁の種族らしく本格的な病気のときの対処法は書かれていないようだった。せいぜい食べ過ぎたときは人間用の消化剤を飲んでも良いという情報しか探しだせなかった。
私はじいちゃんの携帯の番号に電話をかけた。二匹の豆狸を育てた経験のあるじいちゃんなら、こんなときにどうしたらいいのか良い知恵を貸してくれるかもしれない。しかし時差があるせいなのか、なかなかじいちゃんは電話に出てくれない。
「どうしよう。この島に獣医さんはいないし……」
豆狸である朔を獣医に見せたところで正確な判断はできないかもしれない。しかし、苦しそうにしている小さな朔を放っておくことはできない。せめて島に一つだけの人間の診療所に見せに行ったら対処してくれるかもしれない。
私は財布の中に入っている現金を確かめ、冷蔵庫の前に貼りつけてある健吾の連絡先がかいてあるメモを取りだした。この島にタクシーはない。ほとんどの島民が自家用車か一路線しかないバスを利用している。
健吾の番号に電話をかけ、祈るような気持ちで返事を待つ。
『……もしもし』
電話に出たのは健吾本人だ。少し固いその声にズキリと胸が痛んだ。
「遅い時間にごめんなさい。じつは朔が熱を出したの。申し訳ないんだけど、今から病院まで送ってくれないかな」
『……』
電話の向こうで健吾の息を飲む音がする。私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ごめんね、こんな時間に迷惑だよね。でも私、健吾しか頼れる人がいなくて……。お願いします、このお礼は絶対にさせてもらうから病院に連れて行ってください!」
焦って早口になる私の耳に健吾の低い声が聞こえてくる。
『落ち付けよ。朔は吐いたりしたか』
「……してない」
『熱があるだけか』
「うん」
健吾は少しだけホッとしたように息を吐きだした。
『今すぐいく。もう少しだけ頑張れるか』
「うん」
『よし』
そう言って健吾は電話を切った。
すぐにいくという彼の言葉に安堵した。気づけば、私はいつの間にか涙がボロボロと溢れて止まらなくなっていた。
あとはもう寝るだけという時間なのに、健吾は嫌な返事一つせずにこっちに向かってくれた。それがどうしようもなく嬉しい。
「もう少しの辛抱だからね。頑張って、朔」
クッションの上で荒い息を吐く朔の小さな前足をそっと握る。さっきよりも息が早く、口からピンク色の舌を出している朔は苦しそうだ。
私は朔の養い親なのに、こうして側に付いていることしかできないなんて……。自分の無力さが嫌になる。しかし、それでも朔が私を求めるようにときおり弱々しく鳴くので、私は彼の前足をそっと握りしめていた。
「優希、俺だ、開けてくれ!」
インターホンと共に家のドアをドンドンと叩く音がした。健吾が到着したらしい。
私は急いで玄関のカギを開けて健吾を招き入れた。
「ありがとう。迷惑かけてごめんね」
「迷惑だなんて思ってない。それより朔は」
「まだ熱があってぐったりしてる」
クッションの上に寝かせた朔を見るなり、健吾は痛ましそうに顔を曇らせた。そして、彼は朔の容態を確かめるようにそっと柔らかなお腹に触れる。
「朔は生後どのくらいだ」
「えっと、たしかうちに来た日に生後一週間って聞いたから、生まれてから十一日くらいだと思う」
「十一日。やっぱりそうか」
健吾はそう言うと、彼が持参してきたビニール袋から小さな氷嚢をいくつも取りだした。そして、それをテキパキとした手つきで朔の脇にはさみ込む。
「たぶん朔は病気じゃない」
「じゃあ、どうしてこんなに苦しそうなの」
「朔はそろそろ擬態が解ける時期なんだ。多くの豆狸は問題なく擬態が解除出来るらしが、稀に擬態を解くのが下手くそで発熱してしまうこだぬきがいるんだよ。おそらく朔もそうなんだと思う」
氷嚢の冷気が気持ちよかったのか、朔の呼吸はあっという間に穏やかになった。
「体に溜まった熱を放出してやったほうが擬態を解除しやすいんだ。だから、こうして氷で冷やせば症状も落ち着いてくるはずだ。あとは、朔の頑張り次第だな」
「良かった……」
あれほど苦しそうだった朔の表情が嘘のように安らかになっていく。私はホッと胸を撫で下ろした。
「それはそうと――健吾は朔が豆狸だって知ってたんだね」
私は思わず健吾の顔をじっと見つめる。知っているどころではない、彼は私よりもずっと豆狸の生態に詳しかった。
「前に言ったろ、俺のひいじいさんが小さい頃にはうちにも一匹いたんだよ。だから豆狸の育て方は色々聞いて大体知ってる」
「そうだったんだ」
私は肩の力が抜ける思いだった。朔が豆狸だとバレないようにあんなに必死に隠していたのに、それらは全部無駄なことだったようだ。
「この島で豆狸の存在を知らない人間はいない。いわば公然の秘密ってやつなんだ。でも、優希が豆狸の存在を秘密にしなくちゃいけないと考えてたなんて思ってもみなかったな」
「だって、まさか島の人たちが妖怪と共存してるなんて思わなかったんだもん」
私は朔の容体が落ち着いてきた安堵感も相まって体中の力が抜け、床にペタリと座り込んだ。
「でも本当に良かった。健吾がこうして助けてくれなかったら、朔はもっと大変なことになってたかもしれない。来てくれて本当に感謝してる」
「いや、こっちこそ豆狸のことちゃんと話しておかなくてごめんな」
私たちは向かいあったまま、なんとなく気まずい思いで下を向いた。よく考えてみれば、前回健吾を怒らせてしまった件はまだ解決できていなかったのだ。
熱を出した朔に気を取られてすっかり忘れていたが、こうして彼と話をするのは二日ぶりだ。
私はおずおずと顔をあげて彼の様子を窺った。謝るならきっと今しかない。
意を決して健吾の顔を正面から見据えると、同じようにこちらを見ている彼の視線とかち合った。
「あの……、こないだの話、なんだけど……」
「あ、ああ」
「私、思い出したよ。東京に帰る一日前、健吾と一緒に雄田貫神社の山に登ったこと」
「……そうか」
健吾はばつの悪そうな顔で私から視線をそらした。そんな彼の仕草を目にして、一瞬拒絶されたような気がして悲しくなったが、そのまま話を続ける。
「景色綺麗だったね」
「……そうだな」
「連れてきてもらってすごく嬉しかったよ」
「そうか」
言葉少なに相づちを打つ健吾の表情はあまり芳しくない。
私は一度口を結んで膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。鼓動が恐ろしいほど速くなっており、発熱したときのように顔が熱く赤くなっているのが自分でもわかった。
「それから……あのときキスしたこと忘れててごめん。あれは私にとっても大事な思い出だったのに……」
握った拳からじわりと汗が滲んだ。緊張と申し訳なさと、許してもらえるだろうかという不安で、視界の隅がチカチカしている。よく口から心臓が飛び出るというけれど、ちょうど今がそんな感じだ。
どれほど沈黙が続いただろう。二人の呼吸の音だけが聞こえるほどの静寂を破ったのは健吾の方だった。
「……優希があの日のことを忘れてたってことに気づいて、すごく腹が立ったんだ。俺はずっと忘れたくても忘れられなかったのに」
「ごめん」
「なあ、もう怒らないから正直に言ってくれよ。あのとき俺をからかったのか」
「それは違うよ!」
泣き出しそうな健吾の顔を見て、私は思わずそう叫んでいた。
「からかってなんかいない。怪我した足を引きずりながら私を背負って山を降りてくれた健吾はすごく格好良かった。だからあのとき、ありがとうっていう気持ちと、それで喜んでもらえるならっていう気持ちでキスしたわけで……」
初めの勢いはどんどん薄れ、最後の言葉は尻すぼみになってしまった。
でも私はあのとき、たしかに彼が世界で一番格好良く見えていた。普段は憎まれ口ばかり叩いていたって、太っていたって、自分の怪我をものともせずに困っている人を助ける健吾に憧れたのだ。
「でもその結果、健吾を傷つけたんじゃ本末転倒だね。本当ごめん」
どんなに説明しても、大事な思い出を忘れてしまった償いにはならない。やっぱり健吾に合わせる顔がない。自然と視線は下へと下がっていく。
突如、健吾の腕が伸びてきて私の顔をがっしりと掴んだ。そして彼は無理やり私の顔を上向かせると、片方の唇だけを器用に吊り上げて笑った。少し涙目になっていること除けば、それは昔よく見た悪ガキ時代の笑みだった。
「そんな殊勝なこと言ったって許さねえよ。お前も俺と同じ思いを味わってもらうからな」
そう言うや否や、健吾は私の顔を強引に傾けると、左頬に顔を近付けた。吐息がかかる距離になってもその勢いは止まらず、彼は私の頬に口づけた。
「え、ちょっと……」
焦ってじたばたもがく私を押さえ込みながら、健吾は柔らかい唇を押し当て続ける。
な、なんか、ちょっと長い気がする……。
恥ずかしいやら訳がわからないやらで混乱している私がぐったりし始めた頃、ようやく健吾の唇が離れていった。
「はは、これでお前も忘れたくても忘れられなくなっただろ。ざまあみろ」
「……でも、それは健吾も同じなんじゃない」
昔の健吾と同じ思いを味わわせることが目的ならば、キスをされた方だけが悶々とした思いをしなければ彼の復讐は完成しない。つまり、今の馬鹿みたいに長いほっぺにチュウを健吾は完璧に忘れなければならないのだ。
「しまった……今のを忘れるなんて俺には無理だ」
赤い顔をして頭を抱える健吾がおかしくて、私は声を殺してこっそりと肩を震わせた。笑っているのがバレたらまずい。
しかし、すぐに見つかって痛くない程度の力で肩を小突かれる。
「笑うな。こっちは十三年間も気持ち引きずってんだ。なんなら今日はもうこれから眠れないかもしれないんだぞ!」
「だって、自分で仕掛けておいて失敗なんて……」
馬鹿馬鹿しいやり取りをしているうちに笑いが止まらなくなってしまった。
きっと、健吾はとっくに許してくれていたのだ。こうして笑い飛ばせるようにしてくれたのは彼の優しさなのだろう。
「ありがとう」
私の心からの感謝の言葉に返事はなかったが、代わりに大きな手が私の髪を撫でて離れていった。