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まだ明かりをつけるには少し早い夕暮れ。私はキッチンでお湯を沸かしていた。お腹が空いた朔のためにミルクを作っているのだ。
健吾を怒らせてしまったあの日から、もう二日が経過していた。あれから彼は一度もここへ顔をだしていない。
いくら鈍感な私とはいえ、過去のことをすっかり思い出した今なら彼が怒った理由が理解できる。あんなに大事な思い出を忘れていた私が全面的に悪いのだ。
きちんと話し合って彼に謝らなければいけないとわかっているのに、今さらどんな顔をして連絡すればいいのかわからない。正直、彼に合わせる顔がなかった。
「あ、もう今までの量じゃ足りないんだった……」
ハッと気づいて哺乳瓶の中にスプーン二杯分の追加の粉ミルクをいれる。朔を預かってから、まだほんの四日しか経っていないのに、一度に飲むミルクの量は初めの夜から倍以上に増えた。
飲める量が増えるにつれ、朔の体はどんどん大きくなっていく。最初は両手の平に収まるほど小さくて弱々しかった小さな赤ちゃんが、しっかりとした足取りで家の中を駆けまわるようになったのは見ていてとても微笑ましい。
「すごく可愛いんだけどね……。そう、すごく……」
私はため息を吐いた。私の足元には朔が興奮した様子でドタバタと走り回り、待ちきれないと言わんばかりに足首に爪を立ててキィーキィーと鳴いてミルクの催促をしている。
「こら、危ないからキッチンで騒ぐのはやめなさい!」
火を使っているのでとても危険だ。リビングで待っているようにと朔を抱き上げて連れていっても、すぐにまたキッチンへと戻ってきてしまう。
「立ち入り禁止の柵でも取り付けなきゃだめかなあ」
完成したミルクをもってリビングへ移動すると、私の足にすがりつきながら朔も後を追ってきた。
ご飯がもらえることがわかっている彼は、床に座った私の膝の上にシュタッと飛び乗り、フーフーと唸っている。
「はいはいお待たせしました。お待ちかねのミルクですよ」
朔のお腹を支えて哺乳瓶を近づけると、彼の方から吸い口に食いついた。もうすっかりミルクを飲むのが上手くなった。
飲むスピードも早くなり、瞬く間に瓶は空になった。舌で口の周りを舐めとるその様子は、どことなくまだ飲み足りなさそうに見える。お腹が空く感覚もどんどん短くなっているので、もしかしたら、もうミルクだけでは腹持ちが悪くなってきたのかもしれない。
「もっとほしいのかな? 困ったなあ。じゃあマニュアルを読んで確認するね」
リビングのサイドテーブルの上においていた分厚い子育てマニュアルを手に取る。
ミルクの量は大体適切な量を守れている。でも、ミルクだけで足りない子はそろそろ離乳食を始めても大丈夫らしい。
「妖怪でも離乳食なんて食べるんだ」
ミルクから固形物へと慣らしていく過程が、人間の赤ちゃんとほとんど変わらないのは面白い発見だ。ただ一つ私たちと違う点は、人間ならアレルギー反応が出ないよう、初めはアレルゲンになりそうな食材は避けるのだが、豆狸はそんな事は一切関係ないらしい。卵も牛乳も小麦粉も鯖も、赤ちゃんのうちからなんでも食べられるらしい。さすが妖怪。
おまけに、普通の動物だったら食べてはいけないねぎ類やチョコレートやぶどう、ナッツ類なども問題なく食べることができるそうだ。人間が食べられる物は完璧に消化吸収できるのだという。
極端な事を言えば、ハンバーガーショップに行って一通りのセットを頼んでもお腹を壊すことはないらしい。
「すごいね、豆狸って……」
私はページをめくりながら、朔のミルクを作ったときのお湯の残りで作ったコーヒーを一口飲む。
朔はある程度お腹が満たされて落ち着いたらしく、私の膝の上で満足そうに転がっている。もうすっかり私の膝の上が定位置になった彼は、寝位置が決まらず膝を前足でしきりにぺしぺしと叩いている。
「まだ色々な物を食べるのは先になりそうだね。擬態が解けるまではミルク以外の物を与えてはいけませんって書いてある」
あまりに現実離れしているせいでつい忘れてしまいがちだが、今の朔は擬態という仮の姿なのだ。本来の彼は、漫画に出てくるような二足歩行で縞模様の尻尾を持ったずんぐり体型の狸の姿をしている。
あの冗談みたいな姿にならなければ、人間の食べ物を口にすることはできないのだとマニュアルに書いてあるので、離乳食はもう少し先までお預けだ。
私がペラペラとページを捲っている様子が面白かったのか、朔が突然態勢を低く構えたかと思うと、素早い動きでマニュアルめがけて飛び付いてきた。
「うわ!」
読んでいたページがビリビリと音を立てて破ける。朔はその破れた紙をすかさず口に咥え、爪でガリガリと引っ掻いた。
「ああ駄目だよ。これは大事なものなんだから、いたずらしたらメッ!」
フローリングの上で紙切れと化したマニュアルの一部分と一緒に転がりまわる朔を叱る。彼は怒られた事を理解しているらしく、目にも止まらぬ動きでサイドテーブルの影に隠れてしまった。
私は床に散らばった紙を拾い上げた。破れたうえに爪を立てられ、すっかりボロボロになってしまっている。これでは判読不可能だ。
せっかく擬態が解ける際の注意点が書いてあったページを読んでいたのに……。
仕方なく破れていないページを読み進めてみるが、肝心の注意点の説明は終わっており、お馴染みの豆狸賛辞しか書かれていなかった。
「大事な項目だったのに、結局よくわからなかったよ」
しかし、いつまでもくよくよしていても仕方がない。私はまだテーブルの影に隠れながらじっとりとした目でこちらの様子を伺っている朔に向き直った。
「朔、もう怒ってないから出ておいで」
普段と変わりない調子で声をかけたが、朔は警戒しているのかテーブルの向こうから出てくる気配がない。
悪いことをしてしまったという意識がきっとあるのだろう。朔はほんの少しだけ顔を覗かせているが、上目遣いの視線はどことなくおどおどしている。
私は腰をあげた。朔がこんなにヤンチャな性格をしているのは、もって生まれた彼の性格なので仕方がない。男の子だし、元気が有り余っているのだろう。
「そういうときはいっぱい遊んで体力を発散させるのがいいと思うんだよね」
私は洗面所からミニタオルと輪ゴムをいくつか持ってリビングに戻ってきた。タオルを丸めて輪ゴムでとめれば即席ボールの出来上がりだ。柔らかくて、口が小さなこだぬきでも楽に咥えられる。
「見てごらん、朔専用のおもちゃだよ」
ポンポンと手の中でボールを弾ませると、まだいじけて隠れていた朔の瞳が真ん丸に膨らんだ。
好奇心を露にした彼の目が「なにそれ!」と言っている。すぐに机の足の裏から飛び出してきた朔に向かってぽんとボールを放ってあげると、弾丸のように一直線に丸めたタオルに駆け寄っていった。
そのまま飛び付くと思いきや、朔はボールのそばまで来るとピタリと足を止めた。怖いものかどうかを確かめるように前足で器用にちょんと触れ、安全だと確信すると小さな歯でかじりだす。
私はその様子を静かに見守りながら、自らのシャツの胸元をぎゅっと握った。うちのこだぬきが可愛くて辛い。
朔はボールをかじっては飛び退き、またひとかじりしてはすぐ離れる。その様子は「なんだお前? お? やんのか」と威嚇しているように見えなくもない。ビビりの割にだいぶ好戦的だ。
朔の遊びは次第にエスカレートしはじめ、首がおかしくなるんじゃないかと不安になるほどブンブンと勢いよく振り回し始めた。
「さ、朔、首……。それじゃあ首痛くするから、一旦ちょっと落ち着いて」
ボールを優しく彼の口から取り上げると、興奮冷めやらぬ朔はフーフーとうなり声をあげて私の手に飛びかかってくる。
「いたた、意地悪してるわけじゃないから噛まないで! ほら、ボール投げてあげるからとっておいで」
ボールを取り返そうと躍起になってかかってくる朔をなんとかかわしながら、私はボールをぽんと廊下に向かって放り投げた。
朔は脇目も振らずに追いかけて飛び出していく。小さなボールと一緒に跳ねるように駆けていく朔の後ろ姿がまた恐ろしく可愛くて激しい動悸に襲われる。
朔は得意気にボールを口に咥えて戻ってきて「どうだ」と言わんばかりの満足そうな顔で私の前にポトリと落としてみせる。
私は朔の頭を撫でた。
「すごいね、ちゃんと取ってこれたんだね」
昔読んだ犬の本に書いてあったことだが、簡単そうに見えて「取ってこい」は実は難しい遊びだ。独占欲が強い子やトレーナーの言うことを素直に聞けない子はボールを人に渡すことを嫌がったり、ボールを追いかけなかったりするらしい。
朔はそれをあっさりとやってのけたので、やはり普通の犬や狸とは違う存在なんだと改めて認識させられる。私の言葉もほとんど理解しているし、たまに問いかけに応えようとすることもある。
何度もボールを追いかけているうちに、朔は疲れて眠くなったらしく、いつの間にか私の膝によじ登って丸くなっていた。膝の上でうとうとし始めたので、私は彼の小さな頭をそっと撫でた。触れられることで安心するらしく、こうした方がずっと寝付きがよくなると気づいたのはつい先日のことだ。
「まだ赤ちゃんだもんね……」
人の手がないと寝られなくなったらどうしようという不安もあるが、眠気に抗えずに舟をこぐ朔が可愛らしくて、ついつい甘やかしてしまう。
眠る朔を見ながら彼の気持ちを考えてみる。この子は今、幸せなんだろうか……。
子育て未経験の私が育てることで、朔が不憫な思いや愛情不足にならないだろうか。私なりに精一杯お世話しているつもりだが、まだまだ至らない事は多い。
十六夜や三日月に電話で色々と相談したいのに、彼らは携帯の番号を教えていってはくれなかった。
「あいつら、アドバイザーとかいってたのに全然連絡くれないし……」
二日後に様子を見に来るらしいので、その時には彼らの番号を必ず入手する事を心に決めた。
「そういえば、健吾はいつくるのかな」
リビングの窓から外を見つめる。頭のてっぺんだけを残した夕日が空を濃い茜色に染めている。
「もしかしたら、もう来てくれないかもしれない……」
ずっと不安に思っていたことを口に出したとたん、涙がこぼれ落ちた。朔が濡れないように目頭をそっと拭って、私はまた空を見あげた。