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絵里ちゃんはアイスコーヒーを飲みほすと、時計を確認し名残惜しそうにため息を吐いた。
「ああもうこんな時間。残念だけど、これから予定があるからもう行かなくちゃ」
「忙しいのに引き留めてごめんね」
「私の方が優希君に声かけたんだから気にしないで。コーヒーご馳走さま」
手を振りながら、絵里ちゃんは彼女の愛車へ乗り込んだ。私も手を振りかえしながら彼女を見送る。
いつか、もっとゆっくり彼女と話が出来たらいいな。
朔と二人きりになった部屋はしんと静まり返っている。私は朔を膝にのせ、彼のもっふりとした背中を撫でる。
朔は気持ち良さそうに目を細め、大きなあくびをした。
「いっぱい遊んだからもう眠くなったかな」
朔を撫でる手を止めることなく、せっせと手を動かす。膝の上にいる朔の小さな体がだんだんと弛緩してうとうとするのを見届けながら、頭の中では健吾と一緒に山へ行ったときのことを思い返していた。あの日も、今日と同じくらいよく晴れた暑い日だった。
「ねえ健吾、どこまで行くの。もうずいぶん登ってきたよ」
「まだだ。いいから黙ってついてこい」
健吾を先頭にして、私たちは空き地を後にし、じいちゃんの家の裏山へとやって来た。殺人的な傾斜と段数を誇る雄田貫神社の階段を上り、本堂を抜けてさらに上を目指していた。
子どもの足でも、小一時間も歩き続ければ山頂近くまで登ることはできる。私はこのまま道に迷って帰れなくなってしまうのではないか少し不安になっていた。
健吾は空き地にいたとき同様に無口だった。いつもの彼なら、憎まれ口を叩きながらも、もっとたくさん話をしてくれるのに……。
都会から来た気に食わない奴と二人きりでは、会話も弾まないのかもしれない。すでに彼を友達だと認めていた私は、ずんぐりとした健吾の丸い背中を追いかけながら、なんとなく寂しい気持ちになっていた。
「ここだ」
そう言って健吾がこっちを振り返る。彼の背後はちょうど小さな崖になっており、木々が途切れて開けた場所になっている。
汗だくの健吾の背後には、透き通るような青い空と深い藍色をした海、そして島の緑色が広がっていた。
「うわあ……すごい。綺麗」
私は健吾の隣に並んで食い入るように眼下に広がる風景を見つめた。こんな絶景を見るのは初めてだった。
「すごいだろ。ここから見る景色がこの島で一番綺麗なんだ」
「うん、今まで見た中で一番だよ」
「そうだろう。こんな綺麗な場所は東京にはないんだろうな」
健吾は得意そう鼻の穴を膨らませてふんぞり返る。
私は真っ青な空と海。そして、緑溢れる島の光景を目に焼き付けた。今度島に来られるのはいつになるかわからない。楽しかった思い出の一つとして、今日のこの景色も忘れないで記憶に留めておきたかった。
「連れてきてくれてありがとう。最後にすごくいい思い出になったよ」
「お前さ、本当に明日東京に帰っちゃうのかよ」
「うん」
「突然仲間に入れろって俺らのとこに来たくせに……急に帰るなんて勝手だな」
「ごめん」
本当にその通りだ。私は申し訳なくなって下を向いた。
「……帰るなよ」
「でも、じいちゃんの家に泊っていいのは一週間だけっていう約束なんだ。それに、もう少しで学校が始まっちゃうから……」
隣に並ぶ健吾の顔を見ると、怒ったような真っ赤な顔で唇を噛みしめている。
「東京になんか帰るなよ。このまま長十郎さんとこに住めるように頼んでみればいいだろ」
「健吾……」
彼も無理を言っているのは十分わかっているのだろう。暑さと怒りで赤くなった彼の顔には、汗と涙が浮かんでいた。
「俺、まだ優希に意地悪しかしてねえよ。これからはもっとちゃんと仲間として遊んでやろうって、昨日男子全員で決めたばっかりなんだ。それなのに、それなのに……」
拳を握りしめて健吾は肩を震わせる。
「健吾ありがとう。みんなと過ごせて嬉しかったよ。短い間だったけど、島でのことはずっと忘れない」
私はそっと健吾に歩み寄ろうとしたそのとき、地面に盛り上がっていた木の根に足を取られてバランスを崩した。
「あっ」
「馬鹿、そっちは!」
慌ててなにかにつかまろうと手を伸ばしたが、運悪く崖の方へと体は傾いていく。健吾は私が落ちる直前に手を伸ばして私の腕を掴んでくれたが、落下の勢いに負けて二人とも崖を転がり落ちた。
ハッと気づいたときには私たちは地面に横たわっていた。起き上がってしばらくは、何が起きたのか理解できないほどあちこち痛んだ。足や腕に擦り傷がたくさん付いているのを見て、どうやら体を地面に打ち付けてしまったことを思い出した。
先に意識を取り戻していたのは健吾だった。彼もあちこち傷だらけになっているものの、しっかりした足取りで私の方へやってくる。
「大丈夫か」
まだ地面に座りこんだままの私に手を伸ばした。
「うん、健吾も無事でよかった」
私は彼の手を取り、立ち上がろうと右足に力を入れた。その直後、鋭い痛みを感じてうめき声をあげる。
「どうした!」
「ごめん、足捻ったみたい……」
健吾はしゃがんで私の足の具合を確認する。そっと腫れ物に触るように触れ、よく分からないと言いたげな顔で手を離した。
「立てないのか」
「ごめん」
健吾はほんのわずかの間難しい顔で黙り込んでいたが、すぐに顔をあげた。
「大丈夫だ、俺が運んでやる」
健吾は私を背に乗せると、思い切り踏ん張って立ち上がった。一歩進む度に彼の顔が強ばり、歯を食いしばっている。もしかすると、傷が痛むのかもしれない。
「無理だよ。健吾だって怪我してるのに、私を背負って山を降りるなんて絶対に無茶だよ。私は大丈夫だから、健吾一人で先に行って。それで大人の人を連れてきて」
「駄目だ。山には色んな獣が住んでるから、一人でいるのは危ない」
健吾は一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと歩く。細身の女子とはいえ、ほとんど同じ背丈の子を背負っているのだ。重くないわけがない。
「でも、私重いから。怪我してる健吾に無理させるのは嫌だよ」
「重くない! それにお前は……女だろ。男の俺が、こんな場所に女を一人でおいて先に行けるか」
歯を食いしばって山道を下る健吾を、彼の背中から見つめていると涙が出てきた。彼は私に意地悪をしたと言っていたが、暴力を振るったり、生理的に嫌がるようなことは一度もしなかった。
自分だって怪我をして痛いはずなのに、私に泣きごとも恨み言も言わずに当然のように守ってくれる。こんなに優しくてかっこいい男の子、私は他に知らない。
「ありがとう。……健吾ってかっこいいね」
「ふん、そんなわけあるか。こっちは女子たちに狂暴だのゴリラだの毎日言われてんだぞ」
健吾が馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻を鳴らす。
「そんなお世辞言われたって嬉しくないわ」
「お世辞じゃないよ。本当にすごくかっこいい」
「嘘つけ。そんなに言うなら礼がわりにチュウの一つでもしてみやが――」
大口を開けて悪態を付く健吾の頬へ、私はそっと唇を当てた。彼の頬は地面を転がったときについた泥で汚れていたが、とても柔らかかった。
「したよ」
「おま、お前……」
「私は優しい健吾のことが好きだよ」
そう言うと、健吾の柔らかそうな耳たぶが真っ赤に染まっているのが見えた。
ここまで思い出してみて、私は思わず赤い顔を隠すように俯いた。
過去の私、なにやってんの……。
あの頃は羞恥心や男女の機微に非常に疎かったので、好きという言葉に特に深い意味を持たなかったのだ。言われるままに頬にキスをしたのも、それでお礼の代わりになるのならという気持ちからだ。
でも、今改めて思い返してみても、あの時の健吾ほど優しくてかっこいい人はいないと思う。彼は怪我をしながらも、最後まで私を背負って山を下りてくれた。傷だらけの泥だらけになった私たちは大人たちにこっぴどく叱られたが、健吾は最後まで「俺が無理やり連れ出したんだ。優希は悪くない」とかばってくれた。
幸い、私の足も少し捻っただけで大事にはならなかったが、健吾は父親にだいぶ怒られてゲンコツをもらったそうだ。
「なんで今まで忘れてたんだろう……」
これからどんな顔をして彼に会えばいいのか分からなくなってしまった。あんなの、完全に私の方が恥ずかしい人だ。「あのときは勝手にチュウしてごめんね」とか、「好きって言ったけど、あれは友達としての好きのつもりだったんだ」とか弁明するのも憚られる。それどころか、本当ならきちんと伝えなければならない「私を背負って山を下りてくれてありがとう」という言葉さえ言えない気がする。
「どうしよう……。ねえ朔、私どうしたらいい? 謝ったら許してくれるかな」
スピースピーと寝息を立てている朔の背中を撫でながら問いかけてみるが、眠っている彼は返事をすることはない。
ガックリと項垂れたまま、私はずっと朔を撫で続けていた。