2.折れた羅針がほふるもの
時はますます巻き戻って、ある節目に差しかかったところで、世界の逆再生と記憶の順再生とが、アルアの中で一旦大きく交叉します。
厳密には、事の発端、と呼べないかもしれません。その人が引き起こした事態にはそうさせるに至っただけの背景があり、その背景が築かれる礎となった人々の精神こそが、本当の意味での発端と考えられるからです。
その人の名はユディエ・コルウイ。ラセフより9つ若い、彼の妻でした。夫と同じく工学者でしたが、ラセフが人に置換するための医用機械の分野を主としているのに対し、ユディエは心理領域を多分に絡めた人工知能を扱う、認知機械の分野を主としていました。
この星に住まう人は、生体器官と人工器官の置き換えを繰り返す事で、その身を寿命という定めから解放させるに至っていました。本人が望めば、際限なく生き長らえる事が出来るのです。ただ、理屈では可能となったはずの永遠の命を実現させる者は、未だありませんでした。人の中枢である脳神経も細胞単位で置換する事は出来るのですが、それをもってしても、本来の寿命を倍ほど超えたあたりから、脳は身体を動作させるための出力信号を徐々に減退させていき、最後には誰もが動かなくなってしまうからです。
『動けない』ではなく、『動かない』――。生命維持に必要な機能の運転は続けられ、どこにも異常が認められないにも関わらず。
その原因が、生体で唯一の未開領野となった『心』にあると捉えた研究機関は、それを解明して復元する技術を得るべく、情報モデルとしての『ココロプログラム』の開発企画を立ち上げました。ユディエはそのチームの一員として参加し、長年その開発に取り組んでいたのです。
そんな彼女の異変にラセフが気づいたのは、悲しい出来事が起こる2ヶ月前。外に雪がちらつき始めた、静かな夜更けでした。
いつも冷めた無機物や手応えのない電子データに囲まれている反動か、彼等の暮らす小さな家は、天然素材の趣を生かす建築材と家具と調度品で整えられた、全くもって時代錯誤なものでした。ある事すら珍しい木柱や、幹の曲線が縁に柔らかな一枚板のテーブル、遠い時代を緻密な模様で描いた絨毯の毛足ひとつとっても、歳月を経なければ得られない、古き良き物の光沢を宿しています。それらに統一感を与える明かりもまた、熱で発光させる古典的な暖色が好ましいという理由で、わざわざまめな交換が必要な白熱電球とそれ用の器具とを自作した照明によるものでした。
その居間で、ラセフはテーブルに広げた図面を手元のメモと照らし合わせていました。自分の書斎や研究室はありますが、根を詰め過ぎた時やひと段落ついた時、こうして居間へ出てきて仕事の整理を行なうのです。
壁掛け時計に目をやると、午前1時を指していました。眼鏡を外し、そろそろ切り上げて眠ろうかと考えていた時、居間の扉が開きます。入ってきたのはユディエでした。今朝からずっと部屋にこもっていた彼女の白衣は座りじわで拠れ、肩にかかる長さの金髪には束ねていたとわかる癖がついていました。家に居ても身なりに気を遣う普段の彼女とは様子を違えていましたし、何よりひどく青ざめた顔に、ラセフは驚きます。
「具合が悪いのかい」
かけられた声に対し首を横に振り、ユディエは向かいのソファへゆっくりと腰を下ろしました。自分の身を抱いてうつむいたまま何も言わない彼女を心配し、ラセフはテーブル上のものを隅に片付けて彼女の横へ移ります。熱があるのかと額に手を当ててみましたが、むしろ普段よりも冷たく感じました。
「ひどく寒いところに出て、どこへ行けばいいのか、怖くて」
ようやく発せられた言葉は、それそのままの意味であるのか、何かを喩えているのか、受け取り方に迷うものでした。単純に、雪が降るほど寒く暗い外が怖かった、と言いたかったのでしょうか。しかし彼女がこの時間に家から出る理由もなければ、髪や白衣が雪に濡れた形跡もありません。かといって他にそれらの表現が当てはまるものを、ラセフはすぐに思いつけませんでした。
「このところ仕事にかかりきりだったからね。しばらく休んだほうがいい」
ここ数日彼女の顔色が優れないのを気にかけていた事もあり、過労から心身とも不安定になっているのだろうと、彼は結論づけました。何かに怯えるふうでもあるユディエの背をさすっていると、開け放されたままの出入り口から入ってくる者がありました。
「失礼致します、父様、母様。お茶をお持ちしました」
「ああ、ちょうど良かった。そこへ置いてくれるかい」
襟元や袖口のカットレースとリボンが愛らしい、象牙色のワンピースを着た彼女は、指示通り手の盆から白磁のティーカップ2つを、テーブルへ移します。
「ありがとう、アルア」
ラセフが言うと、その微笑みを鏡のように返しました。瞳の色は、深いところを暗くするガーネットの紅とよく似ています。
アルアは元々、同居者の生活リズムを学習しながら、知覚されるものに対しプログラミングされたパターンから適切なものを選択して人の振る舞いを再現する、その時代においては一般的なメイド型の機械人形でした。ただ制作された環境は特異で、そのボディは先に述べたとおりラセフが、そしてブレインとなる部分はユディエが、各々の専門分野で独自に開発したものです。子供がなかった二人は、半生をかけて培った互いの知識と技術を持ち寄る事で彼女を生み出し、自分達夫婦の娘として、大切にしていました。
学習が出来ると説明しましたが、それはあらかじめ用意された膨大な数の答えを基に、そこへ至るまでのルーティングを無数のパターンから最適化していく処理の事を指します。そこに無い答えやルートを新規に作るだけの、いわゆる『心』の働きが大いに関与する自発的な能力を持った機械人形は、ユディエがその開発に心血を注いでいる最中である事から分かるように、当時まだありませんでした。
ラセフは手に取ったカップをユディエに渡しました。カモミールの甘い香りだけでも気持ちが安らぎます。
「飲んだらきっとよく眠れる」
ラセフの低く角のない、いつもの声色にも安堵したのでしょう。ユディエは強張っていた頬をやっと少し緩めて、頷きました。
「ええ。アルアも、いつも美味しいお茶をありがとう」
顔を上げてアルアに言うと、彼女はやっぱりその微笑みを鏡のように返すのでした。
それから度々、ユディエは不可思議な言動を見せるようになりました。本人しか読めない文字を床や壁に殴り書いたり、机に張りついて延々誰と通話しているのかと思えば、相手は目の前に積み上げられた電子素子だったりするのです。
理解に苦しむそれらの事を、ココロプログラムという深い内観を要するものに携わっている影響で、彼女の意識が内へ内へばかり向かっているためではないかと案じたラセフは、ある日、しぶる彼女をどうにか説得して仕事を休ませ、表へ連れ出します。アルアも一緒に3人で、研究所の敷地内にある離れ家から、都市部へと赴いたのでした。
到着した中通りは塞がれた地面に代えて、御影調の舗装材が目の細かな砂模様を真似ています。多様に並ぶ建造物ほか街を構成する一切がその白の硬質と清浄を崩さないように意匠され、この街の基礎はひとつの石からこしらえられた彫像なのではないかと錯覚させるほど、まとまっていました。仰げば吸い上げられそうな高層建築が囲っていますが、ビル風も設計されていて、どこも突然の煽りに大切な帽子をさらわれる心配なく歩けます。
ラセフは中折れ帽と同じ消し炭色で揃えたツイードコートの胸ポケットから、銀の懐中時計を取り出して時刻を確認しました。
「昼食の予約を入れた時間まで、まだあるな。寄り道しながらゆっくり行こうか」
仕事机から剥がされた事にまだ納得していない様子のユディエが口を尖らせます。
「それなら急いで仕度しなくても良かったわ。その時間があれば昨日の測定値からノイズ源の解析を――」
「まあ、今日はいいじゃないか。アルアの服も新調したいんだが、私ではどれを買ってよいか分からないからね。君が選んでくれるかい」
肩から少しずれ落ちたユディエのショールを直しながら、ラセフはなだめます。彼女は振り返って、そこに静かに佇むアルアを見ました。淡黄色のコートのケープに紅い髪が零れています。少し考えて、ユディエはひとつ息をつきました。
「そうね。最近、あまりアルアに気を回せてなかったから……。そろそろ髪も切ってあげたいわ」
そして辺りを見回し、道向かいの一角にある店に目を留めた彼等は、そちらへと歩き出しました。
通りに面したショーウィンドウが目を引くその服飾店へ入ると、程なく、ユディエは衣装と装飾を選ぶのにすっかり夢中になります。円筒の台に立たせたアルアに衣装の立体映像を何度も重ねた後、気になった一着を実際に着せてみる事となりました。
試着部屋の外で待っている間、ラセフは自分達の衣装選びに付き合っている店員へ話しかけます。
「家族揃ってこうして出かけるのも、妻があんなに生き生きとした姿を見せるのも久しぶりでね。連れて来られて良かったよ」
それに対する店員の反応は、実に無味乾燥なものでした。
「左様でございますか。私どもはお客様のご都合に関わらずいつでもご来店をお待ちしておりますので」
予測していたラセフは、それでも嬉しさから語った自分にやや苦笑して目を伏せます。
いくら精巧な出来栄えでも、彼の目には分かります。女性店員のその若さが、人工的に取り繕われたものであると。機械への置換を繰り返して延命し続ける者は、ある一定の線を越えたところから生来の器官の割合に比例するように、『自分の外側』への関心を、弱めてしまうものなのです。子供が成長するにつれて外界へと興味を広げていく発達とは逆で、それを縮めていく様は退行と呼んで相違ない現象です。この店員の無感動な態度も、他者への興味の薄れからくるものでした。それはこの時代において既に周知の事です。そしてその事実やそうなっていく人々に違和感を持たず、当然とする者が殆どとなってしまった社会に、しかしラセフはどうしても馴染めずにいるのでした。自分が携わる事業の成果とそうした結果は、年々、仕事に対する信念との齟齬を大きくし、彼を迷わせるのです。
店が扱う銘柄のスカートスーツを着たその無機的な店員と並んで待ち続けていると、やっと試着部屋の扉が開けられました。中からアルアが姿を現すと同時に、ラセフは感嘆します。
白の清らかさに桃の甘やかさを接いだ、少女の輪郭を浮き立たせる可憐なドレスでした。あしらわれた萌黄色のリボンが取り巻く風を演出して、今のアルアは、花というよりも花を招く季節そのもの、と例えるほうが相応しいと、彼は密かに思いました。
花飾りの付いた揃いのキャップを整えながら、ユディエが尋ねます。
「どうかしら、私はとても気に入ったのだけれど」
「ああ、素敵だ。よく似合っているよ、アルア」
「ありがとうございます、父様」
アルアは相変わらず、受動的な笑顔を見せました。
「では、これをもらって――」
店員に頼みかけたラセフを、待って、とユディが止めます。
「買うのは、アルアのお誕生日にしない? 今の季節よりも春先に馴染みそうなデザインだから、あと1ヶ月先から着せるがちょうどいいと思うのよね。そのお祝いの頃に、また改めて来ましょうよ」
今日の外出を嫌がっていた彼女のほうからまた来ようと言われた事が、ラセフにとってその日一番の喜びでした。
「良い考えだね。ではそうしようか」
その約束はひととき、彼等を幸福にしました。
帰り道、ラセフ達は人の往来が盛んなターミナル駅前の広場を歩きました。駅の入り口脇には、角砂糖を無造作に積み上げたようなモニュメント時計が建っています。そこと並んで、待ち合わせの目印としてよく使われているのは広場中央の噴水。水面に滴を落とした時にできる水の王冠を表現したようなそれを中心に、下には波紋を思わせる環状の石畳が幾重にも渡り、敷かれています。
その噴水の横を過ぎる時、すれ違った幼い男の子がつまずいて転びました。前を行っていた母親らしき女性が気づいて振り向きます。
「あら、大丈夫?」
いちばん近くにいたユディエが、素早く手を貸しました。男の子は少し涙ぐみましたが、すぐにまた駆けていきました。女性が戻る素振りをみせず、もう先へと歩き出していたからです。
「ユディエ」
ふたつの背をじっと見送っていた彼女は、ラセフに呼ばれてようやく振り返ります。その瞳は時計が報せるよりもやや早く、夕暮れの陰りを帯びていました。
ラセフは笑って見せ、側の背もたれがないベンチを指します。
「身体がなまっていけないな。いつもより歩いたら、もう足が棒になってしまった。休んでもいいかい」
当初の目的から、ぶれる事はありません。彼が本当に休憩させたかったのは自分の足ではなく、ユディエの心身です。彼女は微笑んで返し、彼と並んでそこへ座りました。アルアも促されて、ユディエの隣に腰を下ろします。
噴水に面し、水の音と動きが絶えない様をしばし見つめていたユディエが呟きます。
「ああいうふうに、置いてきてしまったのかしら」
ラセフは首を傾げました。
「何を、置いてきたと?」
ユディエは直接それに答えず、立ち上がって噴水へ寄りました。膝の高さほどある縁の人工石は、石英ガラスと見紛うほど透けて、水と一体であるふうに見えます。
「湧き出しては、溢れ出すものよ。そう、水のようね。流れ流れる事。何もしなくても初めから備わっていたその性質こそが、続くために唯一必要なものだったの。なのに、私は――」
言葉の先は、空を行く雲の端のように薄れて消えます。
意味は量りかねるものの、例の彼女らしからぬ不可思議な言動の数々とは異なり、そこには確かに、ユディエの心がありました。ラセフは黙って聴き、その平穏を静かに見守る事しか出来ません。アルアも、ただユディエを見つめるばかりでした。緩い風が、彼等の間にしだれた明日を揺らし、吹き抜けていきます。
彼女は憂いを払うように顔を上げ、ふたりの方へ向き直りました。
「ごめんなさい、心配させている事は分かっているの。自分ではどうにも出来なくて、でも、本来なすべき事はいつだって、学者や技術者じゃなくたって、出来るのよね。だから私は、ラセフとアルアに伝えたいの。――愛しているって」




