アリゾナのマドンナ
「ジェニファー。ジェニファーじゃないか」
後ろから男の呼ぶ声が聞こえた。
「いいえ違います。私の名前はシャクトリムシ。ミドルネームはヘンリエッタ」
するとざわめきが起こった。尋常じゃない雰囲気に顔を上げる。
ここは会議室。そして私は書記係。
「何を寝ぼけてるんだ三崎くん」
な。この声は鬼の権藤部長。そうか、今は会議中。心地よいお昼寝タイムを満喫してる場合ではない。
「いったい、何がシャクトリムシなんだ」
そんな寝言まで言ってしまったのか。口端からよだれが一筋つぅっと垂れたが、今よだれをふき取ったら怒られるかもしれない。とりあえず、放っておこう。
それにしても権藤部長・通称ゴンザレスは、ひどくご立腹だ。こいつは面倒くさいことになった。
「申し訳ありません。会議中に居眠りをしてしまうなんて、
この三崎千夏、この三崎千夏、人生最大の不覚でございまずるずる、あ、涎が」
「ふざけるな!気持ちがたるんどるんだ!」
ゴンザレスの唾と罵声を浴びせられて少々怯んだ。
気持ち6センチばかり、首を後ろに下げる。なんといっても私のウリはこの美貌。美しく完璧で気高い孤高の、このフェイスに唾なんぞ飛ばされたらたまったものではないのだが、一方、私の涎は1m程糸を引きながらスカートに落ちた。あぁあ、染みになっちゃう。どうしてくれる。
そのときゴンザレスの斜め後ろ45度きっかりの角度から速読に定評のある同僚の溝口恵子が部長の肩に手を置き囁いた。
「まぁまぁ部長くん。そんなに青筋を立てずとも良いじゃないですか」
肩、ぽんぽん。
「今は会議中。三崎くんの居眠りはもちろん処罰対象ですが、取るに足らないことです」
肩、ぽんぽん。
部下に肩を叩かれている部長は、どうしたことか恍惚とした表情を浮かべている。
そのとき、恐るべき憶測が脳裏を掠めた。
私はゆっくりとハンカチを取り出し、口元の涎をふき取る。疑惑は確信に変わった。
(間違いない…。溝口恵子は、気安く部長の肩を叩いているように見せかけて、巧妙に肩マッサージをしている…)
「…うむ。溝口くんがそこまで言うのなら、ま、仕方がないよなぁ、あはは」
だらしなく笑う中年怪獣ゴンザレス。
40過ぎのおっさんを20秒少々で洗脳するとは恐るべき女よ、溝口恵子。
「それでは会議を再開しましょう」
溝口恵子が意味ありげに流し目ウインクを送ってくる。それに答えるべく、彼女にだけ伝わる極秘ジェスチャーで応戦する。
(どうやら今回は、貴様に助けられたようだな溝口恵子!!)
(ウフフ、今日の夕食はイタリアンでいいわよ!!)
その後会議は、何事も無く終わった。ゴンザレスはいつものように手もみをしながら専務に尻尾を振りにいく。この分だとお咎めなしと見ていいだろう。しかし、よりによってこんな大切な会議にあのような意味の分からん夢を見てしまうとはな…。
席を立ち、軽く苦笑しそうになったときだった。背後から声をかけられた。
「ジェニファー!やっぱり君はジェニファーじゃないか!」
振り向くと、そこにはハンサムデビルが立っていた。
ホヮーオ、良いオトコ!
得意の上目遣いでハンサムデビルに近づこうとすると溝口恵子(通称:アリゾナのマドンナ)が颯爽と現れ、ハンサムデビルに真空かかと落しをお見舞いした。
「私の王子様に何をするのだ、溝口恵子!」
「シャラ痛ッ」
「なに舌噛んでるのよ!」
「シャァラップ!目を覚ますのよ三崎千夏。あなたは今、再度、再三、騙されようとしているわ!……そこのナイトメアという悪魔にね」
おのれこの女、嫉妬していると見た。何を言っているのかさっぱりわからない。どうせもてない女の嫉妬に決まっておろう。悔しいでしょう。悔しいのね?そうなのね?ほほほ、悔しかったら私のようなゴージャスな女になりなさい。
溝口恵子(通称:アリゾナのマドンナ)は、なおも唾を飛ばし続ける。
「愚かな女!!フーリッシュ・ウーマン!!まだ気づかないのね!!」
一体なんだというのだ。
ハンサムデビルがいったい何をしたというのだ。
私の名前を呼び間違っただけではないか。
大体この女はいつだってそうだ。
私をライバル視するのは勝手だが、
良いオトコが私の虜になるとすぐに
真空とび膝蹴りやファイナルアタックを容赦なくぶちかます。
いつの間にか溝口恵子(通称:アリゾナのマドンナ)は私と目の差わずか30センチのところまで歩み寄っていた。
いくらなんでも近すぎだろう。
溝口の鼻息が首元にあたるので、気持ち6センチほど仰け反って無言の主張をしてみるが無駄なようだ。
溝口の目から大粒の滴が流れ落ち、床で弾けた。驚いて顔をあげると、溝口は私を直視したまま涙を流している。そしてゆっくりと、一つ一つの言葉を紡ぐように、あえぐ様に、次の言葉を発した。
「目を、目を覚まして千夏。貴方は私の親友よ…。そして、気づいて…」
溝口は大粒の涙を流しながら私をそっと抱きしめた。すべてがスローモーションのように鮮やかに写った。
「いい加減、気づいて。私の気持ち…」
その瞬間、気づいてしまった。この女、ただ抱きしめているように見せかけて、実は肩の辺りを巧妙に指圧している。
それも並みの心地よさではない。コンマ1秒の速さで的確にツボを把握し、実に正確に狙いを定めて突いてくる。
これは非常に心地よい。努力では到底及ばない、天性の才能を持っているのだろう。
ふ、恐るべき女よ、溝口恵子。私は今夜彼女の特技欄に速読だけではなく高速指圧を追加で記入することを心に誓った。
という夢を見たのだよ。読者諸君。
by.「千夏の日記」より