097●間奏曲●巴里、古代神の夜⑦一八九四年六月十六日。“塔と魔女”
097●間奏曲●巴里、古代神の夜⑦一八九四年六月十六日。“塔と魔女”
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それからの日々はとんとん拍子だった。
リシェ教授の口利きで、パリ大学はピエールに多大な便宜を図ってくれた。
数か月後、パリ大学のソルボンヌ大講堂にて、ピエールは“ルネサンス・ピューテック”と題する講演を行い、古代ピューテック大会の復興計画を知識人や学生たちに、大々的にぶち上げた。
そして二年近くが過ぎ、欧米諸国を代表する紳士淑女が、ピエールを発起人として送られた案内状に応じて、パリへと集まってきた。その数、二千人。
そして迎えることとなった。
一八九四年六月十六日、土曜日。
開会式の会場は、もちろんパリ大学のソルボンヌ大講堂。
会議の名称は案内状では“パリ国際スポーツ連合会議”となっていたが、当日に配布された入場券やプログラムのタイトルは“ピューテック大会復興会議”に差し替えられていた。
ピエールをバックアップするリシェ教授の“組織”はぬかりなく、世論工作も仕掛けていた。
開会前日に発行された新聞“ルヴュー・ド・パリ”の紙面には、“ピューテック大会、復活!”の見出しが躍り、近代ピューテック大会が数年後にはパリで開かれるというスクープが賑々しく紙面を飾っていた。
しかも会議を始めようとする矢先に早々と「ピューテック大会の復興宣言に感謝を述べるものである」と伝える祝電が、ほかならぬギリシャ国王から届いている、という手回しの良さだった。これでは誰にも否決などできるはずがない。
ピューテックの復興は、ピエールが決議にかける前から、既成事実として世間に知れ渡っていたのである。
魔法にかけられたような午後だった。発起人と来賓による開会演説のあとは、一気に壮麗なイベントになだれ込んだ。
スポーツを讃える詩が当代一流の詩人によって詠唱され、古代ギリシャの遺跡から発掘された石板に楽譜が刻まれていたという“アポロを讃えるデルフォイの讃歌”が演奏された。
これは文字通り、古代のデルフォイで開催されていた芸術とスポーツの祭り、“ピューティア大祭”、即ち“古代ピューテック大会”へのリスペクトを示すものだった。
スポーツとアートは、神によって結ばれているのだと……。
大人数の合唱団とハープ奏者を並べて、大講堂に波打つ古代ギリシャの調べは聴衆を魅了した。まさに古代ピューテック大会の再現そのものだった。
この曲をイベント用に編曲したのはガブリエル・フォーレその人であり、フォーレ師はこの会議の音楽監督ともいうべき立場で参画していた。
そして盛大な晩餐会。本会議で可決どころか審議ひとつしていないのに、ピューテック復興を祝して乾杯が重ねられ、お祭り気分が頂点に達して、乱痴気騒ぎの数歩手前に至ったところで、リシェがアナウンスした。
「紳士淑女の皆様、ピューテック復興おめでとう! もう、残るは、神の祝福だけではありませんか。ピューテック大会復興会議は、これより、天上におわす古の神々を招き、永遠の祝福を授かるのです。皆さん、組織委員会は準備をすべて整えております。めでたき今宵を寿ぐ、最高にして最大のイベントを、皆様のために用意いたしました。会場はあちらです。……いざ、エッフェル塔へ!」
行ってみなければ何か起こるのかわからないサプライズ・イベントは、貴族たちの好奇心をいやが上にも掻き立てた。「面白そうじゃないか」が、参加者の平均的な反応だった。
人の波が動き出す。大講堂の前庭を埋める乗り物はほとんどが馬車であり、ごく一部の酔狂な伊達男が最新の自転車や、走る騒音楽器ともいうべき二人乗りの自動車なるものを駆っていた。
盛大な車列を組んでエッフェル塔へ向かう参加者を前にして、さきほどから緊張のあまり祝い酒など喉を通らないピエールに、リシェが耳打ちする。
「たとえ正しい理屈でも、理屈っぽい説得はこのさい無用だ。貴族連中は理屈理論では動かんよ。ただでさえマルクスやエンゲルスを振り回すインテリに手を焼いておるからな。だから、会議は踊らねばならぬ! そこで初日に派手なイベントを集中させた。連中を熱狂させ、何かとてつもなく偉大で名誉ある事業に参加するのだ、と思い込ませることだ」
「それはしかし」ピエールは小声で尋ねる。「ある種の、ペテンではありませんか……」
「なにをいう。かれらが望んでいるのは、若造のきみなんぞに説き伏せられることではない。特権階級らしく玉の輿に乗せられて、鳴り物入りで持ち上げてもらうことなのだ。さあ、取り急ぎ美酒を携えて、赴こうではないか。……この世はすべて舞台、参加すればこそ意義があるのだ……前半はシェイクスピア、後半は、いずれきみが言い出しそうな言葉だよ。進め青二才!」
ワインの一本をぐびりと喇叭飲みして景気づけるリシェ教授に続いて、ピエールも手近なボトルをつかむと、会場の出口へ向かった。
事実、これから数日を経て六月二十三日の最終会議で“正式に”古代ピューテック復興が満場一致の可決をみるまでに、参加者の貴族たちはひたすらお茶会と晩餐会と舞踏会に明け暮れ、フェンシングやボートやテニスの競技会を満喫し、やれパレードだ花火大会だと、連日連夜にわたり、どんちゃん騒ぎを繰り広げることになる。
“会議は踊る、されど進まず”と揶揄されたウィーン会議を引合いに出すまでもなく、国際会議とは、昔も今も要するにそういうものなのだ……と、いずれ納得させられるピエールなのだが、今はとにかくほろ酔い気分で、リシェ教授のあとについていく。
「こっちだよ、若造!」と教授に促されると、大講堂の屋上へ通じる階段だった。
傾斜した屋根板に囲まれた、小さな煙突が林立する屋上では、奇妙な機械が二人を待っていた。
見上げるほどに大きな、バナナ形の気嚢から、蜘蛛の巣のようにロープが下りて、籐を編んで作った開放式のゴンドラを吊り下げている。二人分の客席があり、その背後に操縦席を備えたゴンドラの後半部には最新式のバッテリーパックとモーターがあり、魚の胸鰭に似た方向舵の前で、竹トンボのような二翅のプロペラを回している。ピエールは小さな叫びを漏らした。
「飛行船!」
「ミス・ジェーン号へようこそ」と、皮ジャケットを着たパイロットが操縦席から手を差し伸べた。二人を座席に落ち着かせると、アナウンスする。
「これにて定員一杯。アテンション・プリーズ、安全ベルトをお忘れなく。禁煙ですが、お酒は見て見ぬふり。船外への落とし物は絶対厳禁。では離陸します」
屋根にざばざばと水バラストを放出すると同時に、煙突に結んでいた繋留索を解き放ち、飛行船はぐいと飛昇、滑るように夜空を旋回する。
パリ大学ソルボンヌ大講堂の建物はたちまち視界の下に去った。エンジンは電動なので、じつに静かだ。リシェはピエールにパイロットを紹介した。
「ハンソン・バクストン、当代一流の飛行士だよ。有名になるのはこれからだが」
「無名のままでいいですよ。名前が売れると墜落するのが、この業界のジンクスでさ」
英国人らしい小太りのパイロットは謙遜する。リシェはワインの瓶を差し出した。
「一杯どうかね」
「こりゃどうも。ニュイ・サン・ジョルジュですか、こいつを飲れば、月まで飛べそうだ」
パリ上空から雲は去りつつあり、その隙間から地上へと、月光のスポットライトが降りてきた。真っすぐに天を指すあの塔へと。
「おおおおっ」
興奮のあまり、ピエールはうなり声をあげてしまった。
それは闇の地表からすっくと萌え立つ、金色の光の若芽だった。
フレームに沿って点灯された無数の白熱灯のイルミネーション、そして塔を四方からライトアップするアーク灯の光条を従えて、神秘的な宝石のドレスを身に纏ったかのように妖しくゆらめくそれは、鉄の塔 というよりも、生気に満ちた異形の生き物に見える。
目を細めて絶景を堪能しつつ、リシェはピエールに言った。
「すばらしい眺めだが、さて、ひとつ用事がある。エッフェル塔の頂上には、きみ、何があると思う? 模範的な正解のひとつは避雷針だが、今夜は避雷するつもりはないので、すぐ下で電路を切断している。これとは別に、もうひとつ、重要なものがあるんだ」
「ステラコイルですか」
「その上だよ」
「ああ……」ピエールは目をこらした。塔の最頂部には長い旗竿が立っていて、いつも翻っているのは、おなじみの三色旗だった……「フランス国旗です」
「いや、もひとつ上だよ。旗竿の一番先端には、何があるのか?」
首をひねるピエールに、リシェはとっておきの秘密を教える子供のような顔で続けた。
「風見鶏さ」
「風見鶏が?」
「体長が八分の五キュビト、せいぜい三十センチほどの針金細工の鶏なので、人目につかないが、ずっとそこにあるんだ。そいつを今から取り外す」
「だから飛行船で行くんですね。でも、どうして?」
「魔除けだからさ。風見鶏は、心霊科学的には、ある種の魔物排斥装置なのだ。キリスト紀元よりも昔の、要するに“異教”の魔物だか魑魅魍魎の類が街に入り込まないように、忌避結界を形成する力場の発振アンテナとしての役割を担っておる」
「なるほど」とピエール。「ときどき、教会の塔の十字架の先端が、風見鶏になっているのを見かけますね」
「そう、教会は神様を大歓迎するが、魔物はお断り、というサインだ。エッフェル塔もそれにならって、パリを守る魔除けの塔として役立ってきた。古来、魔物や幽霊、魑魅魍魎は夜間に活動するものが多い。キリスト教会が、もっぱら夜間の儀式を避けているのも、そのあたりに理由のひとつがあるのかもしれんがね。そこで、夜が白々と明け始めたときに、コックェリコ! と鳴いて魔物たちを追い払ってくれるのが、風見鶏の魔除け効果の由来であるってことは、貴君もご存じであろう。ただし、その効果が持続するのは光のある日中だけだ。いかんせん風見鶏は鳥目なので、真っ暗な夜中は魔物を探知することができず、お手上げ状態となる。だが見ての通り、今宵のエッフェル塔は昼間のように明るいので、風見鶏の魔除け効果はまだ持続していると考えられる。しかし、今夜はそれを完全解除しなくてはならない。我々は、西暦以前の、古代ギリシャ以前の古い神々、すなわちキリスト教からみたら魔物に等しい“邪教”とされる神々を呼び寄せるからだ。とりわけギリシャ神話の神々に祝ってもらわなくては、古代ピューテックの復興はできない、そうだろう?」
「ええ、もちろんです。私たちは、等しくこの地球の古き時代にあまねく地上をみそなわした、あらゆる地域の古代神を呼び寄せなくてはなりません。この地上の、ただひとつの塔に。今宵、この塔は真の意味で万神殿となるのですから」
「そうだ。わかっとるじゃないか」とピエールに感心しつつ、リシェは天空を指さし、その腕を回す。「古代の神々が星々を通して、我らを、みそなわしておられるぞ!」
リシェのその腕がエッフェル塔の頂上へ向く。もう目と鼻の先に接近していた。
そこに、三本と四本の腕を伸ばして、金属の光沢を放つ、奇妙な装置が見えた。きらきらと輝くヒトデのような趣だが、じつは未来的な電磁気学の産物だ。あれがステラコイルかと、ピエールは目を見張った。
ステラコイル原型初号機は差し渡し十三メートル強の、Y字形とX字形の金属材を芯にして、さまざまな太さの銅線を、ケルト紋様を思わせる複雑な様式で巻き付け、造形したものだ。中心の回転軸でプロペラのように回る構造になっていて、半世紀ばかりのちに登場するヘリコプターという乗り物が使う二重反転ローターに似ている。
上から見たらY字型とX字型のふたつのコイルが滑らかにくるくると回転し、試運転を始めていた。
塔の最上展望デッキに載せられたエッフェルの空中別荘の屋上作業台では、コイルの運動を操る制御卓に向かうテスラと、その下の階段から見守るエッフェルが、こちらに手を振っている。
ステラコイルの回転軸はそのまま旗竿の下に一体化して、コイルの腕は左右の夜空へ伸びている。
フランス国旗はすでに降ろされていたが、旗竿の先端には、避雷針の三本の棘を横に見て、小さな鶏が翼を休めていた。とさかを立て、尾を垂らし、翼の短い、緑青にくるまれた針金の鶏。
「さあ頼むぞ、若いの」と、リシェはピエールにフックのついた細いロープを渡す。「風見鶏は旗竿の穴に差し込んであるだけだ。これで鶏の背中を引っ掛けて引き上げたまえ」
ピエールはふと、ためらった。これは、教会に対する冒涜ではないだろうか?
「僕がやっていいのですか」
「そうとも、きみの仕事だ。神々の憑代を引き受けた本人であるきみが、今宵、この魔除けを解除しなければならない。“邪教”とされる神々を迎え入れる、最初の儀礼だよ」
「わかりました」
決心して、ゴンドラの手すりからロープを降ろすピエールは、下界を取り巻く果てしない闇に眩暈を感じて、顔をしかめた。その表情を見て取って、リシェは静かに語る。
「見たまえピエール、真下を。このエッフェル塔を真上から見れば、四方に伸びた塔の脚が、矢十字を象っていることがわかるだろう。神々の着地点を示す、美しい標識だ。地球のすべての方角におわす神々よ、ここに降り給え……とね」
地上の街の黒々とした背景にぽっかりと浮かぶ、巨大な光の矢十字を、ピエールは見下ろした。
その瞬間、眩暈は消えた。ワインの酔いが程よく回っているせいか、恐怖感も薄れていった。
風見鶏はゴンドラの数メートル下だ。パイロットの操縦は見事で、ほとんど揺れはなかったが、それでも、針金細工の小さな鳥にフックを引っ掛けるのは至難の業だ。風見鶏の上へ下へとフックが行き来する。
「案ずるな。アシストがつく」
ピエールの焦りを察したリシェがそう伝えると、不思議なことが起こった。
風見鶏の近くの暗がりから、すっと白い手が伸びると、フックをつかみ、風見鶏の背中に引っ掛けてくれたのだ。
※作者注……“ニュイ・サン・ジョルジュ”はジュール・ヴェルヌの作品で月世界旅行に挑む紳士たちが愛飲しています。




