094●間奏曲●巴里、古代神の夜④一八九一年秋。“二つの大祭、本物の神様”
094●間奏曲●巴里、古代神の夜④一八九一年秋。“二つの大祭、本物の神様”
「そこに、考古学者が登場する」リシェ教授がにやりと笑って講釈を継ぐ。「ピエール、きみも知っている人物だ。一八七五年、今から十六年前のその年、ベルリン大学のクルティウス教授が陣頭指揮を担い、古代ギリシャの古都オリンピアの発掘に着手した。ドイツ帝国考古学界の総力を投入した大発掘事業だよ。のちにその発掘作業に加わった一人である若手考古学者、今はミュンヘン大学の教授先生に昇格しておられる……」
「アルドゥフ・ルフトヴェングラー博士ですか! 発掘報告を拝読しました」
「ご名答。ルフトヴェングラー博士は十三年前の一八七八年から古都オリンピアの発掘に参加されたが、そのおり、途中で現地を離脱して、神託都市のデルフォイや、クレタ島にも足を延ばしておられる。……そう、特別に、こっそりとだが、デルフォイのピュートゥ聖域にもね」
リシェは得意げにピエールに語った。神々との交信装置として建設したエッフェル塔と古代ピューテック大会との接点が、ようやく議論の俎上に上ったわけだ。そこでエッフェルは戸棚から一綴りの冊子を取り出してテーブルに置いた。
表題は『神託都市デルフォイにおけるピュートゥ聖域の発掘』。
リシェは続けた。
「ピエール、我々も、君と同じ時期に、この報告書を精読したのだ」
だから五年ばかり前に、君のご自宅へ一冊届けて差し上げたのだがね……とは、口に出して言わないものの、その意図は透けて見えた。
ピエールは直感した。
何年も前から彼らに密かに注目され、そして選ばれていたのだと。
「デルフォイと神様、と言えば“神託”だね。ピエール、君もご存じの通り……」
口頭試問のように説明を促されて、ピエールはすらすらと答えた。ルフトヴェングラー博士の冊子を読み込んでいたのが役立った。
「デルフォイの神託……それは、古代ギリシャの光明神アポロンがデルフォイの巫女ピュティアを通じて、人類の未来を予言させた神事です。その権威は古代ギリシャで唯一無二にして最大で、当時の都市国家がことごとく、その託宣に従ったとか」
「そうだ。この冊子にある通り、デルフォイの神託は古代ギリシャ文明圏に絶大な影響を及ぼした。それは紀元前八世紀頃に成立したといわれておるが、神託の原型は紀元前十世紀あたりまでさかのぼれるという学者もいる。それでよいね?」とリシェはピエールに念を押して、再び尋ねた。
「で、ピエール君、同じく紀元前八世紀頃といえば、デルフォイにはもうひとつ、盛大なイベントがあった……」
「ええ、そうです。それこそが“ピューティア大祭”。私が復興を提唱している芸術とスポーツの祭典です」
それは音楽、詩、演劇のコンクール、そしてスポーツでは徒競走にレスリング、円盤投げ、戦車の競走。人々はこぞって歌舞音曲と身体運動の妙技を神前に捧げ、受賞者には神の祝福とともに月桂樹の冠が授けられた。
紀元前八世紀あたりに成立したと思われるピューティア大祭は、最初は八年に一度、のちに四年に一度開催されるようになり、古代ギリシャ世界の全土から、名うてのアーティスト……楽師、舞踏家、詩人に俳優たち、それに加えてスポーツ分野で体力自慢のアスリートが続々と参集して、数千数万の観衆をアポロン神と美神ミューズの妙なる息吹で陶酔させたという。
そのようにピエールは説明した。
「おそらく当時のギリシャ文明圏の、最大にして最高峰の芸術とスポーツの祭典でしょう。しかも世界に平和をもたらしました。開催期間の前後を含めて、各国の強制的休戦期間が設けられていましたから」
「さよう、さよう、ならば紀元前八世紀頃のデルフォイには、“神の託宣”と“芸術とスポーツの祭典”、そして“ギリシャ文明圏全土にわたる平和の実現”が同時に存在していたことになる」
リシェの言葉を、エッフェルが引き継いだ。
「我々の上位にある“組織”を率いるジェネラルマスターは、そこに注目しているんだ。神託と祭典と平和、これは密接に関係していたであろうと。光神アポロンの神の声を告げる神託、そしてアポロンに捧げられる芸術とスポーツの宴。、そしてアポロンの信託の権威に担保された休戦期間、それらが結びついて、神と人の熱狂的な交歓の場がつくられたのだと。そこで我々は思うのだよ……」
エッフェルはじっとピエールの目を見つめて、じんわりと強調した。「ひょっとすると、当時の人々は実際に、祭りの場に正真正銘本物のアポロン神を呼び、直接に、その声を聞いたのではないか……とね」
ピエールは目を見開いた。それは、彼の目下最大の関心事だったからだ。
リシェ教授が冊子の該当ページを開けて、言葉を継いだ。
「ルフトヴェングラー博士のこの冊子には、“デルフォイのピュートゥ聖域で行われたピューティア大祭こそ、古代ギリシャにおいて唯一、正真正銘本物の神様を地上へ招喚した祭典である”と書かれている」
リシェは静かに、ピエールの本心を確かめる質問を付け加えた。
「そうだね? ピエール、君はさきほど、模範的な一般論ではぐらかしたが、本当の本心では、ルフトヴェングラー博士と同じように、神様の実在を信じている。ただ問題は、この十九世紀末の時代にふさわしい科学的根拠が不足しているということ、それだけではないかね」
言い当てられた以上、逃げる必要はないとピエールは悟った。だから認めた。
「おっしゃる通りです。この冊子に述べられたルフトヴェングラー博士の見解に全く同意します」
「うん、しかしその根拠はどこにあると思う? ルフトヴェングラー博士はピューティア大祭すなわち古代ピューテック大会において、正真正銘本物のアポロン神が降臨していたと発掘調査から読み取れる……と書いておられるが、その根拠となる理由は、わざとぼやかしておられるのだ」
「私は考古学の専門家ではありませんので……」と遠慮したピエールに、リシェ教授は畳みかけた。
「いや、素人としての君の解釈を知りたい。紀元前八世紀とか、それよりも昔の話だ、確たる物的証拠も証言も残されてはいない。それならむしろ素人の直感が正鵠を射ているかもしれないさ。君が神の実在を確信したのは……なぜかね?」
「……腐敗の有無です」ピエールは少し考えてから述べた。リシェ教授を納得させるほどの自信がなかったからだ。「オリンピアで開催された古代オリンピック大会と、デルフォイ近郊のピュートゥ聖域で開催された古代ピューティア大会は、非常によく似ています。スポーツに関してはどちらもほぼ同じ競技メニューで、四年に一回の開催、開催期間に各国が休戦して平和を実現したこと、一千年以上の長きにわたって続いたこと。……でも大きな違いがあります。古代オリンピック大会は着実に腐敗が進んでゆきました。各国からの褒賞の金品に目がくらんで八百長試合が横行するようになり、ついにはローマ皇帝のネロによって私物化され、神聖な競技はナルシストの皇帝が自己顕示欲を満足させる茶番劇にまで堕落してしまいました」
「なるほど」とリシェ教授。「その一方、古代ピューティア大会はクリーンなまま、ルールに反することのない正当な審判を貫き続けた。のみならず、ネロ皇帝のような独裁者からの干渉もはねのけることができた」
「それは、やはり正真正銘本物の神様を会場に招喚していたからではないかと思います」とピエール。
「たしかに」とエッフェル。「本物の神様を前にしたら、ケチな八百長はもとより、ローマ皇帝ですら、タジタジだろうな。いかなる権力者でも、人間ごときが神様に盾突けるはずがない。だから、会期中の戦争休止を、ギリシャ文明圏に強制的に行きわたらせることができた。“しばらく戦争をやめよ、さもなくば神罰を食らうか”……だ。どこの都市国家も逆らうことはない、神様のお告げの通りにする」
ピエールはうなずいた。本物の神様が現れてくだされば、人類はみなひれ伏して、争いごとをやめるだろう。……そう、世界平和のために、本物の神様をこの世にお招きすることだ。誰にでも見える、感じられる、理解できるお姿で……
「そうだね、ピエール君、私もそう思う。神託都市デルフォイの古代ピューテック大会は、おそらくきっと、本物の神様か、少なくとも本物の神様と同等の神聖な権威のもとで執り行われたのだ」とリシェ教授は結論づけると、さらにピエールに水を向けた。
「ということは、デルフォイの古代ピューテック大会と、オリンピアの古代オリンピック大会には、本質的な“格の違い”のようなものがあるわけだ。君はご存知だね。古代オリンピックはどのようにして始まったかを」
「ええ」ピエールは語った。
紀元前八世紀のある年、古都オリンピアが属するエリス地方に、恐るべき疫病が流行した。
困り果てたエリスの王イフィトスは、デルフォイの神託に救いを求める。彼ははるばるとデルフォイへ赴き、光明神アポロンのお告げを受けることができた。
古都オリンピアではもともとゼウス神を祀り、かつては盛大な祭典を催していたのだが、イフィトス王は諸般の事情、おそらく近隣国との戦争が原因で中止していたのだった。そこでアポロン神は告げた。“争いをやめ、祭りを復活せよ”と。
エリス王イフィトスはアポロンに指示されたとおりに、オリンピアでスポーツ競技会を含む盛大な祭典を復活した。
「すると疫病はたちまち収まりました。以後、その祭典は、“オリンピア大祭”すなわち“古代オリンピック”として四年に一度開催されるようになったのです。……まあ、あくまで伝承ですから、史実と断定することはできませんし、諸説ありますので……」
「いやいや、それで十分だよ、ありがとう」とエッフェルはピエールをねぎらった。「ということで、この伝承で我々が理解できることは、“オリンピアはデルフォイのお告げに従って、古代オリンピックを創始した”ということだ。つまり……」
ピエールは合点した。
「そういうことですか! 古代ピューテック大会が原型で、古代オリンピックはその複製ということになる」
「うむ、多分それが、古代ピューテックと古代オリンピックの根本的な格の相違ってことだろう。前者は本物の神様を招喚し、後者はそうでなかったのだ。まあ、まだ仮説の域を出ないにせよ、確かめる価値は大いにある」とリシェ。
「本物の神様の降臨を実現する“神寄せ《コーリング》”の神事が、デルフォイのピュートゥ聖域の、あの場所で行われていたのだ。アルドゥフ・ルフトヴェングラー教授の発掘記録によると、光明神アポロンを祀る聖なる山、パルナソスの峰をはるか頭上にのぞむ、とある秘密の半円形劇場の石舞台で。だから……」
エッフェルはたシャンパンの瓶をテーブルに置くと、東に向いた窓にかかっていたレースのカーテンを引き、窓を開けた。
眼下にはパリの街並み。モザイクのように地表に張り付く石造りの建物群、苔のように緑青で彩られた屋根が延々と連なり広がる、その上に、西日を受けるエッフェル塔の影がくっきりと落ちている。
「だから、我々はここに、世界最高の鉄塔を建立した。古代の神々に敬意を表して。この塔は神託都市デルフォイを見下ろす聖なる峰、パルナソス山の代わりだよ。ここで我々は、最新科学の技術を結集して、現代の“ピューティア大祭”を執り行うのさ。そのとき神々がご降臨なさるか否かを確かめて、“Quo vadis, Domine? ……主よ、何処へ行き給うや?”……つまり、神は何処に実在するや? という人類普遍のクエスチョンを実証的に解き明かす。ただ、そのためにだけ、我がエッフェル塔は存在するのだ!」




