082●第13章●覚めやらぬ夢…1964年6月20日(土)~2024年6月16日(日)?①:決意
082●第13章●覚めやらぬ夢…1964年6月20日(土)~2024年6月16日(日)?①:決意
●第13章●覚めやらぬ夢…1964年6月20日(土)~2024年6月16日(日)?
こよみはぴくりとも表情を変えず、胸のすぐ下から突き出ている銛の切っ先……その長さは三メートルほどもあった……を呆然と見つめ、目をカッと見開いたまま、じりじりと両手を寄せて、それを掴んだ。
こよみを刺し貫いたそれは、こよみの両手でようやくつかめるほどに太く、そして、こよみの体内を通り抜けたことによる血糊を受けて、ぬらぬらと赤銀色に光っていた。これを自力で抜くことは難しいし、たとえ抜くことができても、もう、手遅れであることがわかったようだった。
こよみは無言で、そっと目を伏せた。食いしばった唇の口角から、つっ、と血のしずくがあふれる。純白のセーラー服は逆三角形の襟元から下が斬り裂かれ、下半身の白いバトルスラックスまでも、どす黒いほどに大量の血潮に染まりつつあった。
こよみの背後には、ダイハチの頭部があった。それはさきほどまで銀座中央通りを縦横無尽に暴れた巨大怪獣ではなく、動物園で見る象の頭の二倍ほどの大きさでしかなかった。
しかし、その、蛇と竜の特徴を併せ持つ顔面には、人類という仇敵に対する、数千年にわたる怨念が凝り固まっていた。目は半開きだったが、氷よりも冷たい、憎しみに満ちた光を放ち、両眼の間から一角獣のように伸びた銀色の銛角が、こよみを背中から串刺しにしていた。
思案するまでもなかった。おそらく音速よりも早く襲いかかったダイハチの頭部から久を遠ざけるために、こよみは久を蹴っ飛ばし、同時に自分の身を盾にしてくれたのだ。魔法の力場結界を余すところなく久の防御に回したので、我が身が丸腰になることを覚悟して。
久は怒りの叫びを上げ、全力で、こよみに駆け寄ろう……と願ったが、それはかなわず、自分の口も喉も、手も足も、ダイハチの念力に縛られていることを思い知らされるばかりだった。
口もきけず、かすかに呼吸だけが許されて、一寸も動けずに、ビルの壁際に拘束されている。
すべてが静止していた。音が無く、風も無く、周りを包む白濁の砂塵も空中に漂ったまま動きを止めている。
ダイハチはぎろりと、久を睨んだ。その頭部は頸椎のあたりで極端にすぼまり、まるで糸か、髪の毛ほどに細くなって、その先は、頭上に張り渡されている都電の架線ケーブルにつながっていた。
ピカソのシュールな絵画のキャラクターみたいな、滑稽な姿だったが、それはこの場にいる人類にとって想定外の事実を示していた。
ダイハチには第二の頭があったのだ。一つの頭部が巨大怪獣として暴れ、こよみに殴られて顎を折られ、ボロボロになって日本橋の“隠火路”へ逃げ帰ったところで、もう一つの新しい頭部が、復旧されたばかりの電線の芯を伝ってこちらへ攻め入ったのだった。
久一人を抹殺するために。
それは、こよみによって阻止された。
引き換えに、こよみは全てを犠牲にした。
息絶える寸前の状態に、こよみはあった。
しかし、そこで時間を停止したかのように、ダイハチの力場結界のパワーが、周囲の“現象を凍結”させている。
久の脳に声が響いた。人間の声ではない。それは、魔法使いなら理解できる妖精語で、声ならぬ声が字幕となって、久の脳裏に翻訳される。
『生きろ』
「えっ、何だって?」と久は妖精語で自分の思考を返していた。
『生きろ、生きるがよい、自からの時間へ帰り、そこで生きろ。私はお前を家に帰してやることができる』
「いやだ……」
胸をえぐるような怒りと悲しみ。久は激情して、ただ思いをぶつけた。
「僕を殺せ! 僕を殺していいから、こよみさんの命をたすけてくれ! お願いだ。なんでもする。僕の命はいらない。だから、頼む、彼女を助けて……」
泣いていた。涙を流す自由すらなかったが、久は泣いていた。ダイハチはなぜか、ため息をつくかのように、哀れみをまぶしたことばを返してくる。
『不可解、どうしてだ? お前にとってこの、こよみとか言う人型の個体は、自分の未来に何一つ関係のない赤の他人のはずだ。しかも毛嫌いし、忌避しているではないか。要するに、イヤナヤツ、なんだろう? なら、忘れるがよい。元の時間へ戻って、何もかも忘れて、一夜の夢だったと自分に言い聞かせ、そして運命が許す限り、好きなことをして生きればよいではないか?』
「できない」と久は断言した。なぜか、自分でも不思議なくらい、迷いがなかった。直感的に、そして明瞭に結論が出ていた。「僕を殺せばいい、その代わり彼女を助けてよ! それだけだ、僕の願いは」
『だめ、キュウ君……』
こよみの思考が、か細く、切れ切れになって、久の脳内に届く。
『キュウ君は生きるの、ここで生きるの、もう少しだけでいいから、この時代にいて頂戴! みんな、あなたが必要なの、あなたがいなくちゃダメなの、あなたがシャシンを撮ってくれなくちゃ、いけないのよ!』
むっ……と、ダイハチが苛立ったのがわかった。憎悪でささくれ立った感情が、久の心に突き刺さってくる。
『撮影してはならぬ。それだけは許せぬ。それが、わが信念だ!』
怒りのあまり、感情に隙間が生まれ、ダイハチの思考の本音が久の脳裏にフラッシュした。なぜ、撮影を許せないのか?
そうか……と、久は悟った。それは、自分が記録されるからだ。静止画であり動画であれ、これまで普通の人の目には見えなかった魔物が、初めて世界中の人々の目に見える状態で記録され、印画紙やフィルムに姿をとどめて、時を超えて残されていくということは……
そう、つまり、“未来永劫の指名手配写真”と同じになってしまうのだ。
カントクは語っていた。「フィルムは永遠に残る」と。
魔物の姿が正確に、鮮明に記録されれば、それは永遠に、人類に警告を発し続ける。これが魔物だ、みんな用心しろ、探し出して殲滅しろ……と。
そうなれば、魔物であるダイハチの行動の自由は制限される。ダイハチの映像を見た人類は、ダイハチを名指しで敵視する。これまでは、ダイハチの姿も正体も確信が持てず、そのため人類は長年、ダイハチを野放しにしてきた。だからダイハチはのびのびと悪事に励み、破壊を尽くし、人類を食い散らかすことができた。
そんなダイハチから未来の自由を奪う行為、それが久の撮影だったのだ。
戦場カメラマンの使命がそうであることに、久は気付いた。
愚かな人類の悪行を記録し、未来永劫に警告を続けること。
人は、人であるためには、こうあってはならないのだと。
だが、それでも、自分の命を差し出しても、こよみに生き延びてほしい。
それが久の決意だった、理屈なんかない、説明もできない、ただ後悔のない、唯一の結論だと、自分で思った。
今、自分にできることは、それしかないのだから。
『やれやれ……』ダイハチが魔物なりに、あきれるのがわかった。『聞き分けのない未来人だな、それなら取引しよう。……お前の彼女、こよみとやらが死なずに済むように計らってやろう、そのかわり、お前がおとなしく未来の、自分の家に帰ることが条件だ』
少し考えたい、と久は思った。しかし、結論を先延ばしにする時間など、ダイハチは与えてくれなかった。
『今ここで決めろ、これが最後の取引だ』
待て……と久は念じた。直感したのだ、ダイハチのたくらみを。
「ダイハチ、お前は信用できない。だって、最初からお前は、こよみさんを狙って、こよみさんの命を引き換えに、この取引を持ちかけるつもりだったんだろう? 取引はかまわない、けれど、こよみさんの命を助けるという保証がないじゃないか。絶対に彼女を助けてくれるのか? それが確実なら、取引に応じよう」
久をここで抹殺することは“未来人を過去で殺す”ことに他ならない。数千年にわたる隠火路の主であるダイハチなのだから、その力で、やってできないことではないだろうが、やってしまったら、そのあといろいろと面倒なタイムパラドックスが生じるので、きっと、その修復作業が大変なのだ。
だからダイハチとしては、久を生きたまま、もといた未来へ追い返すのがベストの解決策なのだ。
しかし久にとっては、こよみの救命が保証されることが絶対条件だ。これは譲れない、一ミリも。
『……わかりました、私が保証人になりましょう』
どこかで聞いたことのある妖精語が割り込んできて、久は唖然とした。「まさか……アフロディテ?」
『ええ、そうです。私が神として保証します。こよみさんが死ななくていいように、必ず』
女神様の声は、優しくも威厳に満ちていて、久を安堵させた。ここで新しい条件を出して、さらなる取引を挑む気力は、もう残されていなかった。
「……了解しました。女神様、こよみさんを、どうかお助けください。僕が元の時間に戻るには、どうすればいいでしょうか」
『日本橋の方へ向かって、そのまま歩きなさい。振り向かないように。振り向くと、あなたは、心残りに抵抗できなくなりますよ』
「はい」と答えて、カメラなど撮影機材を道に降ろすと、久は一歩、踏み出した。ダイハチがかけていた念力の手枷足枷は、その瞬間、きれいさっぱり、外れていた。
自分の足が踏みしめる地面を見て、久は息を呑んだ。
七輪紋が、地上に現れていた。
地面にうっすらと吹きだまった白い埃が、まるで生真面目な雲水がふらりと立ち寄った寺院の庭を掃き清めたかのように整えられ、盛り上がって、レリーフを描き上げていた。
直径、数十メートルはあるだろう。
その中心、俵積みの形に配置された、六つの円環の中心の、内側に凹んだ三角形をめざして、自分は歩いていこうとしている。
そしてダイハチが身を引いて、音もなく吸い込まれるように電線のケーブルの中に戻るのが、視界の片隅に見えた。
同時に、こよみの身体を刺し貫いていた無情の銛も消え失せたはずだ。
力を失った彼女がよろよろと跪き、両手を地面の血だまりに落としたように感じられた。
久は歩いた。静止した白い砂塵の中へと。
足が止まった。
後ろから、片方の足首をつかまれていた。こよみの両手で。
やっとの思いで、力を振り絞って這いつくばって進み、血塗れの腕を伸ばして、久の足をつかんでいた。弱々しいけれど、必死の力で。
『帰らないで、お願い……、どうか、帰らないで……』
とぎれとぎれに、嗚咽に交じって、彼女の妖精語が伝わってくる。
久は前にかがんだ。振り向いてはならなかった。こよみの手にそっと両手をかけ、こよみの指を一本、また一本、足首から引き離した。
何を語ればいいのか、全くわからなかった。こよみの号泣が、絶望の声となって、久の脳裏にこだました。
僕の胸も、引き裂かれる……
『キュウ君、あたしが呼んだの、あたしがあなたを呼んだのよ、神様にお願いして、あなたを招喚してもらったの、あたしが……』
思い出す。四矢女学園の校庭に“ライン引き”で象られていた七輪紋を。彼女は自分でその形を描き、その真ん中に立って、神様に願いを託して、僕を呼んだのだ。たぶん、自分の中の“霊的特異点”を神様と語るための道具に使って。
願いはひとつ。
……あたしたちのシャシンを撮ってくれる人を、お招き下さいますように、と。
そうだ、そういうことだったんだ、と久は知る。……神女挺心隊《SJT》の彼女たちは、自分たちの仕事を映像で記録してくれる人を必要としていた。日々、魔物と戦っていても、それは一般市民の普通人には見えることなく、写真にも映画フィルムにも映らない。必死の思いで戦っても、見えないものに対して“戦う演技”をしているふうにしか見えないのだ。そのうちに、自分たちが何のために何をしているのか、わからなくなってしまう。SJTは、ちょうど、そういう状態になりかけていたんだ。だから彼女は本気で、切実に、自分たちの“卒業アルバム”の写真を撮ってくれる人を求めた。魔法自衛隊のSJTが命がけで身も心も捧げている、本当の仕事の記録、それを後世に残せる能力のある人物を……
それが、僕だった。
こよみさんが神様に願いを建てたのは、僕に出会う前夜なのか数日前なのか、わからない。神様は何か回答してくれたのか、それも分からない。願いが本当にかなうのか、かなうとしても、どこの誰が招喚されてくるのか、そういったことを事前に知ることはできなかったのだろう。
しかも実際に出会ったのは、骨格恐竜スケルタルドンと戦っている最中だ。彼女は僕が正しい招喚者なのか、それとも敵のスパイなのか判断に困った。だから、スパイということにした。なぜなら、僕を魔法自衛隊の基地へ強引に連れていけるからだ。
そして僕のスマホの写真を見て、彼女は僕が招喚者だと確信した。
けれど魔法自衛隊への入隊を、僕はしぶった。損得を天秤にかけ、どうしようかと打算した。こよみさんは困った。そこで僕を逃がさずに即刻入隊させる方法が、念力びんたの鉄拳制裁だったのだ。咄嗟のことなので、野蛮で乱暴な就職勧誘だったけど。
今になってわかる。僕は、こよみさんが、どちらかと言えば嫌いだったけど、実は、本当の本心では、全然、嫌いではなかったことが。
そう、今ならわかる、嫌いとは真逆なんだと。
なぜなら。
彼女が僕を本当に心の底から、嫌いだったら……僕を叱ったり、些細な小言をくどくど並べ立てたり、ボロンチョにけなしまくったり、叩いたり蹴ったり、そんな“面倒くさい”ことは、絶対にしなかっただろうから。それに、ダイハチに空中で食われる寸前に念力魔法のゲンコツで助けてくれたことや、僕の落とし物のヘルメットを探してくれることも、しなかっただろう。
そして何よりも、たった今、自分の命を差し出してまで、僕を救ってくれた。
それは、僕のことが全然、嫌いではなかったから。“嫌い”の完全に完璧に、ものすごく正反対だったから、一瞬もためらわず、僕を救ってくれた……。
この時代に来る前に、こんなお姉さんがいてくれたらいいな、と思ったことがあった。その願いはしっかりと、かなってしまった。ついさきほどまで、そのことを災難に思っていたけれど、今は、本当は……、そう、とても、とても、とても……
ありがとう……
なのに。
別れなくてはならない。
足首から、こよみの最後の指を離しながら、最後に何を言うべきか、久は苦しんだ。けれど涙ばかりがぽろぽろとこぼれただけで、結局、一言しか残せなかった。
「ごめんね……」
こよみの指が離れた瞬間、ふっ、と足の下の感覚が無くなり、久は前のめりに倒れた。
無音の、闇の中へ。
そして、夢の中へ。




