079●第12章● 〃 1964年6月20日(土)黎明③:ピンクの閃きとナイスキャッチ
079●第12章●危険と魅惑の夜間飛行…1964年6月20日(土)黎明③:ピンクの閃きとナイスキャッチ
バシッ、と何者かに受け止められていた。
我に返ると、コクピットのシートに腰かけたまま、かなり前のめりの角度になっている。
機首が地面に対して、斜めに立っているからだ。それとも、地面にめり込んでいるのだろうか?
正面の半球形のキャノピーは外れてなくなり、くるみの身体以外に、目の前をさえぎるものはない。昭和の名作アニメに見る戦闘機型変形ロボットが二足歩行形態で直立したとき、そのコクピットに座っているような姿勢だ。
全身が、こむら返りのような痛みに襲われている。
久は歯を食いしばって痛みに耐えていた。
「大丈夫? くるみさん! しっかりなさい!」
こよみの、息せききった声。くるみの身体を念動力でコクピットの外へ引き出そうとして寸前に止め、かわりに声を上げた。
「気絶してるわ……衛生係! こちらへ、お願い!」
くるみは目を閉じたまま、ゆっくりと息をしている。
「メディック参上」
忽然、といった感じで、おなじみの長門なつみと酒匂さきえが姿を現すと、くるみの胸と額をなでて触診する。
指先が見えないのは、その分子構造を変えて、皮膚の下へ差し入れているからだ。
「軽い脳震盪」
長門なつみがぼそりと診断し、心配ないと言いたげに、くるみのベレー帽を取り、頭をなでて応急処置を施すと、その指で乱れた髪をすいてやる。ふと指が止まった。
彼女の黒い丸縁眼鏡の下で、眼差しが怪訝に曇ったようだ、くるみの右こめかみの金髪から離した指先を、鼻の下に当てる。
そこに、小さな、血のしずく。ほんの一滴だけど、真っ赤な鮮血。
「これ、治せない……」長門なつみは、小声で相棒の酒匂さきえに囁いた。「心の傷だから、治せない……」
長門に寄り添っている酒匂が、あわてて取り繕った。
「大丈夫です。キュウさん、心配しないで。こんなのは、かすり傷です。赤チン塗ったら治りますから!」
あたふたと言い訳するかのように、酒匂さきえは久に言った。やや声のトーンを上げたのは、長門の囁きを久に聞かれたことを、長門本人に伝えるためだ……と久は感じた。
長門なつみの黒眼鏡はただのサングラスじゃない。
……本当に、眼が不自由なんだ。僕がすぐ近くにいても見えなくて、言ってはならないことを口にしてしまった……
なつみに一言、声をかけるべきだとは思ったけれど、全身の痛みがじんじんと響く痺れに変わっていた。口を開けようと努力しつつも、唇が異様に重たくて、ためらう。
そのとき、ブルブルと重たいエンジン音を響かせて、山吹色のスクールバス“かるがも号”が薄闇の中から近づいてきた。LEDでなく白色灯のヘッドライトが優しくあたりを照らす。
なつみは久の内心のあせりと逡巡に気づくことなく、今はすうすうと安らかな寝息を立て始めた、くるみの身体をお姫様抱っこ風に抱えて運ぼうとした。
同時に、くるみのスラックスが、するりと腰から下がった。
「あら」
酒匂さきえが軽い驚きの声を出し、くるみの腰ベルトをつかんで引き上げてやる。ほんの一秒ばかり、お尻の下着が丸見えになったからだ。久の目の前で“お尻パッド”を外した時にバックルの留め金を外し、左サイドのファスナーを下ろしたまま忘れていたわけだ。
「どうしだすか」と、なつみ。
「ピンクのパンティ……」と、見たものを小声で報告する、さきえ。妖精語を使わず、ひそやかな肉声のささやきで、「白い小さな花びらを散らしたデザイン」
なつみの口元がほほ笑んだ。珍しく、お茶目な笑み。
「可愛いんだすね」
「うん、可愛い」
久も一瞬、それを見た。
淡い桃色のすべらかな丸みと、そこに舞い散る小さな白い花びら、縁取りの細いレースの艶めきを。
けれどなぜか、心臓がどきんと打つこともなく、ただ、意識がぼんやりとしたまま、それを目に焼き付けてしまった。たぶん心のフィルムに。
なつみと、さきえは、くるみを抱いて車輛最後部のドアから運び入れる。
久は操縦席から半身を起こそうとした。くるみの容態は心配なさそうだけど、自分にも責任があると思った。きっと、くるみは僕のために無理な飛行に挑戦してくれたんだ。できれば付き添ってあげたい。しかし体は隅々まで痺れていて、動けない。
それに、なぜか声も出せない。
と、眼前に、白ベレーの三つ編み少女が立ちはだかり、顔を寄せた。両腕を腰に当てて仁王立ちだ。
こよみだ。冷え切った鬼の形相。
しかも、内心に燃えたぎる怒りが荒い鼻息となって噴出している。
なぜだろう、と久はぼんやりと思った。こよみちゃんが見せた、あのピンクのパン……のせいだろうか? と。
ぐっ、と、こよみの顔が近づく。ここで噛みつかれたら、久の鼻は、先ほどのダイハチと同様に粉砕されたことだろう。
うっ、と久は気勢をそがれた。途端に……
パン! と音がして、こよみの平手打ちが久の頬に決まった。
ただし、魔法力を使った“念力びんた”でなく、生身の手と腕の筋力だけで打ったことがわかった。でも、不思議と痛みが感じられない。
「ばか!」こよみの叫び。「だからあなたはドジでおっちょこちょいなのよ! 死ぬところだったじゃないの! 危ない時は、逃げなきゃダメでしょ。なのに平気で突っ込んで行って……。そうよね、悪いのは、青葉くるみさんよ。あの子がボーっとしてたのよ。キュウ君の安全係だなんて言って、結局ちっとも守れなかったじゃない!」
セリフの後半は、ほとんど八つ当たりに聞こえたのだが、くるみのことを悪く言われると、さすがに久もムッとした。睨み返して言おうとする。
……くるみちゃんは悪くない!
「ふゅるひひゃんははふふあひ……」
あれ? 久は朦朧とした気分で、自分の言葉を聞いた。全然、ろれつが回ってない。
こよみが血相を変えた。
「診ます」
酒匂さきえの声だ。呼ばれる前に衛生係の長門と酒匂が俊足で戻っていた。長門なつみが触診する。あたたかく優しい指先が久の後頭部から首筋へ、そして顎を経て脳へと。
「首の後ろにショック痕。筋肉が硬直、血流阻害、脳の血が足りない。……だどもラッキー。致命傷と違う。一時的な麻痺。今、治すます」
どこかの地方訛りを残した語調で、長門なつみの声が穏やかに聞こえると、頚椎がほわっとぬくもり、肩から脚へ、そしてつま先へと、痺れと痛みが流れ落ちていった。
洗われるように、意識がはっきりしてくる。
ぶるっと、久は首を振った。
「あ、そのまま」と酒匂さきえが注意する。
久がじっとすると、長門の指先が額と目元と頬に触れて、離れた。
「おでこのたんこぶ、眼窩の下の内出血、誰かさんの手によるそこそこの打撲と、ほっぺの腫れ。治りましたす」
長門なつみが淡々と報告した。おでこと眼窩は、墜落時にカメラが衝突したため。ほっぺの痛みは、こよみの平手打ちが原因である。
「ありがとう! なつみさん、さきえさん、あたくしがいけなかったわ。キュウ君の身体が麻痺してるなんて知らずに、ぶったりして。浅はかでした」
おいおい……と、思わず、こよみに声掛けしたくなる久。衛生係に対して詫びながらも、平手打ちの被害者である久に対しては、謝る気など微塵もなさそうである。
「どういだすますて」
「お大事に」
と一礼して、衛生係の二人は去った。他にも治療を待つ人がいるはずだ。
こよみは改めて、久をしげしげと見る。
久を平手打ちしたときの、ほぼナマハゲ化した般若顔はどこへやら、ほっとした様子で口元が和らぐと、ぽつりと言った。
「治ってよかったね、キュウ君」
「うん……?」
正常に言葉を出せるようになったけれど、喜ぶべきか謝るべきか、こんな時、どんな態度でいたらいいんだろう? ……と久は困惑して、あいまいにうなずいた。
それよりも今、一番気にかかっていることが口をついて出る。
「くるみ……ちゃんは、大丈夫?」
瞬時にして、こよみの眉間に太い二本の縦皺が立った。口元は微笑みを維持しているだけに、そのアンバランスが恐ろしい。
「もう、“ちゃん付け”なのね?」
久の質問に答えるどころか、こよみはそっけなく聞き返す。
その顔はまさに、美少女型閻魔大王……。
ああ、こんな時、どんな顔をしたらいいのやら……と、久は心の中で嘆く。それに応えるかのように、こよみは、ふん、と鼻でそしりながら告げた。
「たまには笑ってみたら? 愛想よく、あたくしの前で」
目の前に蜘蛛の糸があれば飛びついて、この地獄からおさらばしたい!
哀しき太宰治な心境は、蜘蛛の糸ならぬ能天気なスポーツ少女の一声で救われた。
「もう、降ろしていいかなあ? キュウちん」
見下せば、そこに浅黒い顔を上げた白ベレーの少女は、南風はてるか。
運動会の組体操で、一人が中腰になって腕を前に延ばし、もう一人がその人の膝の上に足を乗せ、後ろの人の腕に支えられて立ち、T字型に両腕を広げる“サボテン”という技がある。
まさにその、中腰になって土台を務める人のスタイルで、“秋花”の残骸……コクピットから前の弾頭型の部分……を両膝の上に受け止めて、そのままの姿勢で踏ん張っている。
つまり、くるみが気絶した状態でコクピットから救助され、くるみのスラックスがずり落ちて、全身麻痺に陥った久が治療してもらい、ついでに、こよみの“魔法抜きびんた”と久への気まずいやりとりを聞かされる間、ずっと“秋花”を両膝と両腕で保持していてくれたわけだ。思えば怪力である。
「あ! ご、ごめんなさい。はてるかさん、今、降ります!」
久は我を忘れて叫んでしまう。これは申し訳ない。すこぶる物凄く申し訳ない。あたりが薄暗がりになっているので、うっかりしていたが、そういえばコクピットは水平でなく、地面に対して四十五度あたりの角度で静止していたのだ。
「ナンクルナイサー、あわてないあわてない。そっと降ろすからね」
はてるかは全く疲れていない様子だ。
機体が地面につき、久はようやく、“秋花”から這い出ることができた。
振り向いて、ぞっとする。
自分が掛けていた操縦席の背中には、機体が不時着で転覆したときに、パイロットの頭部を保護するための、逆U字形の頑丈な金属フレームがついている。
それを境に、後ろの機体は消えていた。缶切りで開けたような、ギザギザの切り口に縁取られて、あとは何もない。
胴体の三分の二あまりと翼が全部……
「これって、みんな……」と久は口ごもった。
「ああ、ダイハチに食われたんだ」はてるかは、さらりと言う。「この部分だけ、日本橋の方から弾丸ライナーって感じで、投げつけるみたいに飛んで来たんで、ここでキャーッチ! さすがだろ」
巨大な人食い鮫の顎から、からくも生還した……ってことか。
こよみの言葉通り、掛け値なしで死の一歩手前だった。
「ダイハチは人だって何だって、食うんだ。食われたら、ダイハチの身体の一部にされちまうってさ。消化されなくて、よかったね、キュウちん」
そう言うと、はてるかは屈託のない無邪気な笑顔で、死の恐怖を実感して青ざめる久に、一言付け加えた。
「ナイスキャッチ、って言ってくれる?」
「あ、もちろん、ナイスキャッチです。ありがとうございました!」
「ファインプレーは誉めてくれなくちゃ。誉めてくれたら、また今度、ハッスルしてあげるからさ」
「すみません……」
「なんだよ他人行儀に。何も謝んなくていいんだよ。シゴトだもんね」
はてるかは明るく答える。このサバサバ感は、久にとって救いの女神だ。
「まあ、命拾いしたんだから、くよくよしないで、ドーンと行こうよ。筆頭級長だって、やることは怖いけれど、たまには話せるところもあるんだ。さっきさ、キュウちんの“秋花”がダイハチの頭に食われそうになった時、魔法のゲンコツでダイハチの鼻をぶっ潰して、ダイハチの口に念動力の突っ支い棒をかまして、顎をへし折ったのも、こよみお姉さまのシゴトだよ。やっぱ強いね、筆頭級長だもんね。くるみちゃん一人に任せておけないんで、つかず離れず箒で飛びながら、いつもチラチラ横目使って気にかけてたみたいだ」
「そうか……そうなんですか!」
「まあ、気が短いのが玉に瑕なんだけど、その点だけ差っ引いたら、いいお姉さんかもしれないね……え、どうした、キュウちん?」
はてるかは訊く。久は立ち止まり、あたりを見回していた。
一言、お詫びとお礼を言わなくては、と思ったのだけど……
こよみの姿はなかった。




