006●第1章● 〃 …2024年6月16日(日)昼③:時空転移
006●第1章●東京、時の彼方へ…2024年6月16日(日)昼③:時空転移
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「地震!」と久は直感した。
屋外で地震に遭ったとき、地面が揺れていると知る前に身体の平衡感覚が狂って、立ちくらみに近い状態に陥ることがある。きっとあれだ……と、両足が反射的に地面を踏みしめようとする。しかし……
足裏に感じていたはずの重力を失って、四肢が宙を泳いだ。
がん! と、膝が固いものにぶつかった。
「痛っ!」
悲鳴を上げて前へつんのめり、ぶつかった物体に上半身を載せて止まった。
ゴミ箱だった。
高さ一メートルあまりの円筒形の鉄籠で、薄緑色にペイントされていた。地面から二本の鉄柱の脚を立て、その先端の回転軸で鉄籠を挟むことで、モッキングバードのように籠全体を振る構造になっている。ゴミ収集の際には鉄籠を傾けてゴミを掻き出すのだろう。
久が激しく衝突した結果、鉄籠は回転して下を向き、中のゴミが地面に散乱していた。おもに行楽弁当の容器だ。
木の薄板で作った“曲げわっぱ”風の弁当箱、ご飯粒がこびりついた竹の皮と割箸、汚れた新聞紙、そしてお菓子の空き箱……マーブルチョコ、ビスコ、ココアシガレット、不二家のミルキー、鶴亀キャラメル……
そしてジュースやコーラの空き瓶、どれもガラスの瓶だ。バヤリースにリボンシトロン、ウインコーラにミッションコーラにハッスルコーラ……何これ、新製品?
「あちゃー、やっちまった。拾わないと」
小さく舌打ちしてつぶやく。これは地震ではなく、自分の前方不注意が原因だ。
馬鹿だな、僕は……と自嘲する久の脳裏に、あれ、どうしてここにゴミ箱が?……と、間抜けなほど基本的な疑問がかすめた。オリンピックのテロ対策で、街中からゴミ箱というゴミ箱はひとつ残らず消え去ったはずだけど……。それにこのゴミ、全く分別していない……
しゃがんでゴミを拾おうとして、飲料の瓶がみなガラス製で、ペットボトルが一つもないことを知ったとき、久の全身を、一陣の風と音が打ち据えた。
静止していたビデオ映像が、突然に再生を始めたかのように。
それは銃声だった。
ダダダッ、ダダダッと三発ずつ弾丸を放つ“三点バースト”の発砲音がけたたましく重なり、銃口のマズルフラッシュが花火のように爆ぜる。鼻につく硝煙。飛び散る薬莢。
百式機関短銃だ。
銃口からほとばしるのは、金属の弾丸ではなく、まばゆく輝く光の玉だ。曳光弾かと思ったが、少し違うと感じる。弾頭が燃えてできる輝きでなく、光の玉そのものが飛んでいるような。
弾丸の構成物質が光であることを肉眼で検知できること自体、かなり不可解な現象であることに久は気付いた。ミリタリー・ゲームの影響で素人なりの判断はできる。
あれは被覆鋼弾でなく、高エネルギー・レーザーでもない! 僕の知らない何かの物質……?
『そう、あの弾丸の正体は“重光子…ヘヴィフォトン…よ』
思考の行間から不思議な反響を伴って、回答が浮かんできたことに、久は驚いた。頭の中で、正体のわからない誰かの声……いや、“思考”をあらわす信号みたいなものが響き、たちまち自動翻訳されて、日本語のイメージに変換される。音声よりは、文字の列に近い……外国映画の画面に添えられる字幕のような。
『重光子は“光速よりもはるかに遅く、ゆっくりと進む、大質量の光粒子”のこと。重光子はもともと、“あの世”からやってきた霊界物質なのよ。それは“あの世”から“この世”に“汲み降ろされる”過程で重力子やヒッグス粒子の作用を得て“この世”の質量を獲得して、“重光子”となります。それを弾丸に加工して発射しているの』
字幕化した思考は俊速で脳内を巡って消えていくが、記憶はかなり明瞭に残る。
『大質量といっても成分は光の粒子、“この世”の普通の人々には突風程度にしか感じられないので、生身の人間に命中しても、ほぼ、害はありません。ただし、この世ならぬ世界…“あの世”…からやってきた魔物や幽霊その他の怪異に対しては、実物の銃弾や砲弾と同様の破壊力を発揮するのです』
久は聞きながら混乱する。日本語とはかけ離れた、全然理解できない言語が、頭の中で同時翻訳されている。いったい誰の言葉なんだ?
が、そんな疑問を詮索する余裕はない。とにかく目の前の現実だ。
今、百式機関短銃を撃ちまくっているのは、今朝、久のスマホを乗っ取った画像の少女と同じ白いベレー帽、白いセーラー服の女の子たちだった。
概ね高校生の年齢だろう。一人ではない。すぐ近くに見える範囲でも七、八人が路上に展開し、機関銃を腰だめに、あるいは片膝を地面について発砲している。
花びらのように可憐な少女なのに、身体の動きは逞しく、機敏で素早い。セーラー服とはいえ、下半身はスカートでなく、白いスラックスに白い半長靴。スラックスは身体の動作に沿って伸縮する素材で、機能的には体操着のジャージに近い。
久はしばし呆然として、少女たちのしなやかな動作と脚線美に見とれてしまった。戦っているのに、バレエを舞うかのように可憐な動き。
しかしここは白昼の上野公園、少女たちの行動は、どうみても場違いだ。
「え? 何これ?」
久はつぶやき、ゴミ籠の背後にうずくまり、身を縮めた。
「いったい何が始まった? サプライズのコスプレ・イベント? アイドルチームのドッキリTV?」
スマホを握り締めたまま、姿勢を低くしてかがむ。冷汗が湧く。
そうか、この女の子たちはきっと、アルファベットの三文字か坂道の地名に二桁の数字を足して呼ぶアイドルチームで、新曲のキャンペーンで、突然、上野公園をジャックしたとか……
久はしばし、銃撃する少女たちを見物しながら、能天気な憶測をめぐらせてしまった。
やっぱり、人集めのイベントだったんだ……と。
にしても、百式機関短銃のレプリカなんて、古すぎて、まるでミスマッチ。
でも、あの機関銃、ひょっとして本物? よく見ると……
かなり、本物に見える。
近くの少女の機関銃から飛び出した薬莢が一個、地面に跳ね返って、しゃがんでいる久の額に、こつんと当たった。
「あちっ!」
久は驚愕して額を抑えた。装薬が燃焼した熱だ。
「ほ、本物!? それじゃあ……」
もしかして……“反社会的”な恐い皆様の抗争? それとも、テロ?
混乱した久の脳は、場当たり的に推測をつなぎあわせ、無責任な結論に達した。
サプライズのコスプレ・イベントに見せかけた本物のテロだ!
中東に吹き荒れている物騒な事件が、とうとうニッポンにやって来た……
武器と発砲が本物なら、場違いなのは僕の方だ!
よくわからないけれど、この戦闘シーン、妙な本物感が満載すぎる!
スマホを握り締めたまま、身体を縮こませて、ゴミ箱の陰に隠れる。
あせりつつ考える。
ここにいちゃいけない。逃げなくちゃだめだ。逃げなくちゃ……って、ここはどこなんだ?
そこにある建物が有明の同人誌即売会場で、ここがコスプレイヤーのお祭り広場なら、それで納得だ。しかし、戦う少女たちの手前には、誰だって見間違えようのない、ロダンの『考える人』が台座の上にうずくまっている。
そのまた背景にそびえるコンクリートのケーキ箱は、まぎれもなく国立西欧美術館。
動物園の檻のように美術館の前庭を囲んでいるのは、鉄棒をX字形に交差して並べた、高さ2メートルばかりのフェンスだ。これも同じ……だけど、ミロのヴィーナスを拝むためにフェンスに沿って伸びていた行列はいない、どこへ行った? そっか、みんな、逃げ足が速かったんだ。取り残されたのは僕だけか。
その鉄柵を背にして、激しく発砲する少女たち。そのターゲットは……
ギエエエッ!
耳をつんざく奇声が久の疑問に答えた。
身の危険を感じて振り向き、「うおっ!」とのけぞった久の視界を圧して聳え立つ体躯、その半透明の腕で樹々をなぎ倒しているのは、スマホの画像に見た、あの骨格恐竜だった。
骨格恐竜は自身の骨の上にゼリー状の、しかし硬さのある肉を纏い、羽毛にも似た七色の光の棘が無数に生えている。体長は二十メートル近くあるだろうか。ビルの六階あたりの高さから見下ろす骸骨の顔が、牙をずらりと並べた口を大きく開けて怪獣の咆哮を上げた。
「じゅ……ジュラシック・何とか?」
思わず口走った久。その着想はあながち的外れではなかった。隣の国立科学博物館には一億五千万年前の恐竜アロサウルスの骨格標本が収蔵され、夏休みになると子供たちに人気の“恐竜展”に出品されている。久も小学生の頃、観に行った記憶がある。
あの恐竜の骨格に、似ている。まさかあれが巨大化して……それとも、あの恐竜の亡霊が“あの世”から“この世”に“実体化”したとか? ちゃんとお祓いして、成仏してもらうのを忘れていたから、恨んで化けて出た?
うろたえるあまりに、変な妄想にとらわれた久の前で、骨格恐竜はムクノキの巨木をめきめきと、造作なくへし折る。