003●序章● 〃 …1878年・秋②:巫女の予言
003●序章●パルナソスへの階梯…1878年・秋②:巫女の予言
霧が激しく揺らぎ、幻が吹き払われる。
何者かに見せられた夢のまどろみから、アルドゥフ青年は目覚めた。
ここは“今”に戻ったのだ、西暦一八七八年の遺跡だ、そして……
石舞台の七輪紋を挟んで向き合う場所に、現在、すなわち西暦一八七八年の女性が佇んでいた。
バッスル・スタイルのドレス。色は黒。
月桂樹の花の飾りをあしらった帽子も、黒。
優雅に後方へ膨らんだスカート。朝の冴えた風を受けて流れる黒髪。
その面立ちは、つい先ほど幻で見た古代の巫女と同じようだ。
しかし、顔の上半分は黒いベールで隠されている。
彼女の手には月桂樹の枝。
そして胸元の縁飾りに留めた金細工のブローチは、小さな円を六つ、三角状に積み重ねた周りを一つの円で囲んだ“七輪紋”をさらに七芒星の中心に収めたデザインだった。彼女が秘密結社“組織”の正会員であることを示している。アルドゥフは唇を舐めた。自分はまだ準会員でもなく、ただの“会友”にすぎない。緊張する。
黒衣の女性は一歩踏み出すと、予言するかのように、アルドゥフの言葉を継いだ。
「……かくて神は世を祝福し、その者たちに月桂樹の冠を与えたもう。そのかたち、パルナソスの頂の彼方、青き空に果てなく白く渦巻く、雲の桂冠の如し」
不思議な女性のたおやかな声に誘われるかのように、アルドゥフはゆっくりと石段を下りた。舞台に片膝をつき、深く額づいて挨拶する。
「“デルフォイ神託会”の巫女、ダフネ様……」
アルドゥフの背後にあるのは、階段状の石の客席、その上の岩場、さらにその上にはるか遠く……
天を衝くパルナソス山の頂。
稜線の彼方から、濃紺の空に朝ぼらけが映える。
山頂に、冠のように渦巻く白い雲。
雲の渦が、虹色に輝いた。
巫女ダフネの口元は優しくほほえんでいた。全身に仄かな霊光がゆらぐ。普通の人ではない。
容姿は若々しいが、実年齢はわからない。現代、すなわち十九世紀に存在する魔法結社のひとつ、“デルフォイ神託会”の幹部級の巫女であることは確かなのだが……
「アルドゥフ・ルフトヴェングラー博士、よくぞ、この聖地を数千年の過去からよみがえらせて下さいました。ピューティア大祭の中心たるピュートゥ聖域、“神寄せの地点”を。デルフォイ神託会を代表して、ここに謝辞をお伝えいたします」
「いいえ、“組織”の導きと、巫女様の使者が伝えられた、ご神託に従っただけです」
アルドゥフは恭しく答え、顔を上げる。二人が交わす言葉は、彼がドイツ語で、巫女のダフネはギリシャ語なのだが、耳ではなく脳が直接に言葉の信号を受け、思念が伝わり、まるで翻訳された字幕が流れるように、意味が理解される。
魔法言語学的には“前バベル語”、あるいは世俗的には“妖精語”とも呼ばれる意思伝達法だ。
アルドゥフはダフネに問う。
「といたしますと……、私どもが発掘いたしました、この七輪の紋が、古代の“神寄せ”のしるしなのですね」
彼女はうなずく。
「ええ、まさしく。今から三千年の昔、古き神々が幾度となく、この舞台に降臨されたのです。この七つの輪で象られた紋様こそ、“パルナソスへの階梯…グラドゥス・アド・パルナッスム”…を示す“七輪紋”。それは光満つる世界から“この世”へと神様を招喚するときにその降着地点を示す、紋章形の呼出符号なのです。この石舞台は神が人に言葉を授ける階であり、人が神の座する階へ近づく梯の最初の一段でもありました」
ダフネの言葉を聞いたアルドゥフの声が、感動に震える。
「古代の神々は、本当の本当に、実在されたのですね! ……そして今も?」
ダフネは確信を込めて、重々しく答えた。
「そして今も」
期待と希望に破顔するアルドゥフをベール越しに確かめると、しばしの沈黙を置いて、ダフネはさりげなく問いかけた。
「オリンピアの発掘は、いかがでしたか?」
ここ数か月、彼に発掘を依頼していた“組織”の使者から幾度となく訊ねられた質問だったので、アルドゥフはよどみなく報告した。
「オリンピア大祭の遺跡を重点的に調査いたしました。ここデルフォイと同じく、四年に一度開催された身体と芸術の祭典です。ここよりもはるかに壮大な競技場、壮麗な神殿、華やかな祭礼を催し観客をもてなす施設、しかしそこには、七輪紋が確認できませんでした。残されているものは、神聖な競技の勝利を金品で買収した傲慢な俗物たちの証拠、そしてローマ皇帝のネロが自ら競技に出場し、自ら優勝するように仕向けさせ、自らを讃えたという、愚かな八百長の記録ばかり。私は幻滅しました。オリンピア大祭はいつのまにか賄賂の大祭と化していたのです。もちろん、神のご降臨があるはずもなく……。大祭の聖なる意義は、ローマ皇帝の俗物的な権力の前に屈服し、堕落し、侮辱され、退廃したのだと結論づけざるをえません……」
「わかりました」と巫女は、愚痴にも似たアルドゥフの嘆きをさえぎって述べた。「七輪紋がオリンピアに存在しなかったことがわかれば、それでよろしいのです。七輪紋はオリンピアでなく、ここ、デルフォイのピュートゥ聖域に、貴方の手で発掘されたのですから」
巫女は一息ついて、アルドゥフに続けた。
「ですから、ここに貴方をお呼びしたのは……」
彼女は、ステージの石畳に片膝をついた。
七輪紋の中心に嵌められた、要石に月桂樹の枝をかざし、かすかな声で何かを唱えると、指を触れる。
三つの辺が内側に反った三角形の要石が燐光を放ち、持ち上がった。大理石の石舞台の中で、これだけが石英の塊だ。分厚いガラス質の蓋は彼女の指の動きに合わせて側方へずれると、音もなく地面に降りる。
穴の底に青銅の円盤が現れた。レンズのように中央が膨らんだ形だ。直径は八分の五キュビト、およそ三十センチで、厚みは五、六センチあたりか。
彼女が手のひらを上へ向けると、円盤は音もなく空中に浮き上がった。
「魔法……」
ささやくようなアルドゥフの声に、巫女ダフネはうなずき、答える。
「ええ、そうです。……魔法とは、“目に見えない、あの世”から物理力を移動して、それを自在に制御する行為のこと……、“組織”では、そのように定義しています。魔法という名称を冠されていても、現実には科学の一現象なのですよ。不思議でも何でもありません」
「“目に見えない、あの世”とおっしゃるのは?」
好奇心そのままに、アルドゥフは問うた、まるで自ら地球の重力を打ち消すかのように空中に静止する円盤を、うっとりと眺めながら。
円盤の上面の中心に、直径六センチほどの七輪紋が刻まれていることがわかった。緑青に覆われているので読み取りにくいが、七輪紋の縁から渦巻状に、細かな古代文字がずらりと刻印されている。
「“目に見えない、あの世”とは、神様と幽霊と魔物が存在する、不可視の世界、すなわち“神界と幽界と魔界”のことです。神様が実際に、現実に存在なさるということは、同時に幽霊も魔物も実在することになりますから、手放しで喜べるとは限りませんが」
ダフネは空中の円盤を片手でそっと受け止め、アルドゥフに渡す。
まるで無重量の物体のように、円盤はふわりと、彼の両手に収まった。まるで重さが感じられない。
「この円盤は容れ物です。この中に収められている“神具”…thing…は、“この世”のものではありません」
言葉もなく、ただ呆然として見つめるアルドゥフに、ダフネは続けた。
「“組織”のジェネラルマスターにこの円盤をお届けになって、そしてお伝えください。この円盤の中身は、神々がおわす“あの世”へと開く扉の鍵。あるいは神の門を封じている閂を抜くことのできる、聖なる神具《Thing》なのです。ただし“あの世”には幽霊も魔物も棲んでいます。そのことを心して、世界を滅ぼすのではなく、救うために使わねばならないと……」
その言葉はアルドゥフの心を電撃のように駆け巡った。
この物体は、はるかな古代、光の神をこの石舞台の七輪紋へ招くために設置されたと伝えられる、かけがえのない神具《Thing》なのだ。巫女ダフネはそれを、彼の手を介して“組織”に委ねようとしている。
争いのためではなく、平和のために。
紀元前一千年を超える昔、古代ギリシャ文明において、エーゲ海一帯の都市国家は群雄割拠し、戦乱を繰り返していた。互いに争って国力を消耗し、早晩に文明全体が自滅してもおかしくなかったし、どこかの都市国家が欲望にかられてエーゲ海全域を武力で征服して、独裁者が何もかも貪り尽くす可能性もあった。
しかし、なぜか、そうはならなかった。文明は不安定ながら内部崩壊せず、軍事的に統一されるかと思えば分裂し、絶妙なパワーバランスを保ちながら、外敵に屈することもなく、多様で個性的な市民の文化を一千年の長きにわたって存続させたのだ。
それは、世界史にまれにみる、不思議で奇妙な“麗しき時代”だったのではないか……。
数多くの矛盾を内包しながらも、その都度、失った平和を取り戻し、文明の致命的な滅亡をぎりぎりで回避し続ける……という、ファンタスティックなシステムが、古代ギリシャ文明の中枢部分に組み込まれていたのではないだろうか?
それゆえに、神々の美しい物語が、英雄や美女の伝説が、自由闊達な哲学とデモクラシーの精神が、何者にも隷属しない明晰な科学が、情緒豊かな芸術の数々が、見事に均整の取れた建築とその遺跡が、今に至るまで残されたのだ……。
考古学者アルドゥフ・ルフトヴェングラーは、そう考えていた。
自分自身が古代ギリシャに魅了された最大の要因が、そこにあった。
それは、文明の宿命的な滅びを防ぐ、巧妙な方法だ。それは何か?
幾度となく訪れる文明崩壊の危機を、独裁制という破滅の劇薬に頼ることなく、デモクラシーを賛美して乗り越え、美しき文化の命脈を保つことに成功した古代ギリシャの精神世界……
なぜ、どのようにして、何者が、その長き黄金期を歴史にもたらし、麗しき古代文化を育んだのだろう?
それは、神の導き……すなわち“神寄せ”にあったのではないか。
古代ギリシャの人々は、本当の本当に、四年に一度、古代の神々を地上へと招き降ろし、そのたびに神々に導かれて、地上の平和を取り戻していたのではないだろうか?
その謎を解くことができれば、来たる二十世紀に待ち受けているに違いない、おぞましい科学戦争と大量殺戮の時代に、人類文明を救う手立てになるのではないか。
太古の闇から希望の光を掘り起こす。それこそが考古学の偉大な使命である。
アルドゥフの心は踊り、胸は高鳴った。
その鍵が、地中の隠れ家から現れ出でて、ここにある。
「ダフネ様!」
“デルフォイ神託会”の、しかも魔法使いの巫女とまみえる機会は、もう二度とないかもしれない。
おそらくそうだろう。
唯一無二の機会を逸したくない思いが、アルドゥフ青年の、不遜なまでの問いかけとなった。
「お教えください。この神具《thing》は、……長年、“組織”が探し求めていた、“平和の原器”ではありますまいか?」
ダフネは微笑んだ。仄かなオーラをゆらめかせて。
なんという神々しいお姿かと、アルドゥフは驚嘆した。
ただ魅せられるばかりの青年考古学者に、彼女はひそやかに答えた。
「あなたが解きたい謎は、あなた一人で解くべきではないでしょう。多くの人が少しずつ、ひとつひとつの部分を解くのです。そして、あなたはもちろん、その謎解きの一部分を担うのです。それでよろしいでしょう、ね」
アルドゥフは胸を打たれて、ダフネを見つめた。
神託の巫女はふと表情を変えた、語り口の音調が変わる。
神々を代理して運命を予見するかのように、強く告げる。
「この神具《thing》は、われらが精神と肉体の祝祭……神託都市デルフォイを寿ぐ四年に一度のピュートゥ大祭に、天上の神々を招くために用意されたもの。そして“組織”は、“神寄せ”の儀式を今の時代によみがえらせようと願っている。近々に、“組織”の誰かが、その計画に着手することであろう。この神具《thing》は、その者のために、そなたが運ぶのだ。再び人類がピュートゥ大祭…ピューテック…の開催を望むことを、われらが光明神アポロンにまみえて、直接に伝え、語り、述べたならば、古代の全ての神々はその祈りにこたえるであろう」
アルドゥフは息を呑み、背中が鳥肌立つのを感じた。
これは、神の言葉だ。兜のように強い意志を授ける言葉。
今、巫女ダフネの脳内には古代の神が宿っている。しかし、しばしの時を置いて告げられた言葉には、神様らしくない親しみがこもっていた。
「おしまいに、一言。アルドゥフ・ルフトヴェングラー博士、あなたは何年かして、良き妻を娶ります。愛しなさい、子宝に恵まれますよ。最初に生まれる男の子の名前、いかに名付けますか?」
考えたこともなかったが、アルドゥフ青年は直感的に答えていた。
「ヴィルヘルム……たぶん、そう名付けます」
巫女の優しい心が、彼女に乗り移っている神の意志に混ざり合っていることに、アルドゥフは気がついた。彼女の語調がまろやかに、和らいでいる。
「ヴィルヘルム……強い気力を秘めた、気高い名前です。音楽の女神がその子を導くことでしょう。ヴィルヘルム君もきっと、あなたの謎解きを引き継いでくれますよ」
考古学者の青年はきょとんとして、戸惑い、頬を赤くした。
彼女は楽しそうに笑みを浮かべていた。巫女ダフネは乗り移っている神様との別れ際に、ちょっとした幸せの予言をプレゼントしてくれたのだ。
彼はすっかり気持ちが打ち解けて、とても嬉しくなり、笑顔でダフネにお礼を述べようとしたが、彼女は自分の唇に指を添えて、アルドゥフに沈黙を促した。
これは、ここだけのサービスだから、秘密にしてね……という意味だ。
そして巫女ダフネはそっと、別れの言葉を言い添えた。
「世に幸あれ」
アルドゥフ・ルフトヴェングラーは感極まった。
跪き、深々と頭を垂れる。
再び濃厚な霧が巫女を隠すと、入れ替わるように、山頂近くに朝日が顔を出した。
まっすぐな日差しを受けると、目の前に残っていた霧のカーテンが爽やかな微風とともに晴れわたる。
すでに巫女の姿はなかった。
ただ、石畳に刻まれた七輪紋の溝が、陽の光に照らされている。
溝の中に影を落とし、くっきりと浮かびあがって見えるのみ。
そして両腕の中には、重さを感じない、不思議な円盤が残されていた。
*
時に十六年後の西暦一八九四年六月、フランスで開催されたパリ・スポーツ連合会議において、 “組織”の会員である無名の貴族ピエール・エッシェンバッハ男爵の電撃的な提唱により、国際的なスポーツと文化の祭典として、ピュートゥ大祭すなわち“ピューテック大会”の復興が可決された。
そして二年後の一八九六年、“第一回ピューテック大会”がギリシャで盛大に開催されたのだった……。