046●第8章● 〃 1964年6月17日(水)午前②:街の幽霊
046●第8章●四矢女学園、白き魂の少女たち…1964年6月17日(水)午前②:街の幽霊
若葉東公園の中央を貫く広い遊歩道の南の突き当りに瀟洒な宮殿建築が望める。ヨーロッパの王宮を思わせるが、どこか寂れた風情も漂わせている。
「とすると……」久は確信をもって言った。「公園の奥の突き当りは迎賓館、二十一世紀と全く同じ建物ですよ」
「ゲーヒンカン?」万城は、何それ? といった顔をする。
「ええと……外国の重要なお客様、国賓とかをおもてなしする、豪華施設です」
「ああ、あの、べルサイユとバッキンガムを足して百で割ったような宮殿だね。二十一世紀では、迎賓館になっているのか」と、首をかしげる万城。「あそこは旧赤坂離宮。つい先日までは国会図書館だった。で、今は魔法関係の書籍だけを残して、国会議事堂の近くへ移転している。かわりに東亰ピューテック組織委員会が入居しているよ。また、暇ができたら散歩に行ってみよう。まあ、キュウ君が一人で行っても、自由に入れるけどね」
「え? 勝手に入っていいんですか?」
「もちろんだ、予約なんかいらない。公園と同じ公共施設さ。庭は雑草だらけで荒れ放題だし、建物も豪華なわりには埃だらけで、まあ、幽霊屋敷というか……。ああ、そういえばマダム・ロックや、都心部に出没する幽霊は、もっぱらあそこを常宿にしているんだ。魔物の中でも力の弱い丙魔や丁魔が、千や二千、いやもっと多く、あそこの屋根裏に入居している。夜中に一人で忍び込んでみるといいぞ。ちょっとした肝試しになる」
「よ、よしてください。お化けは苦手です」
つい本音を吐いてしまったが、この時代の迎賓館は、人間にとっても幽霊にとっても、カジュアルで庶民的な施設らしい。幽霊にとっては無料のホテルと化しているわけで、丘の上に新築中のホテル新豪谷と好対照だ。とはいえ夜の訪問は遠慮しようと心に決める久だったが……
「なあに、幽霊は全く悪意がない。仲良くして損はないぞ。それと、魔物の威力等級は強い順に超甲魔、甲魔、乙魔、丙魔、丁魔だが、あそこに巣食っている幽霊はたいていが丙丁つけがたい人畜無害ばかりだから、怖くない。すぐに慣れるよ」と万城はこともなげに笑って、「ところで、さっき、風船を持った坊やとお母さんにすれ違っただろ。あれは幽霊だ」
「え……?」
久は青ざめた。そういえば、道行く人々の中に、どことなく影の薄い印象の親子がいた。両足の歩幅と、実際に移動している距離が合わないというか……そうだ、動く歩道の上を歩く感じで、すっと現れて、去っていった親子がいた。あれが……幽霊!
「地震か空襲かわからないが、火事で焼け死んだ親子なんだろう。二人とも、大きな水筒を持っていたからね」
「でも、服は、昔の感じがしなかったですよ」
「そりゃそうだろう。幽霊は成仏するか昇天する前の魂が霊界物質の姿となって“この世”に現れたものだ。ある種の自我があるんだから、時代に合わせて身なりを整えたくもなるさ。霊界物質の身体に“この世”の物質を表面的に“混合”して一体化し、服や持ち物に見せているんだ。だからデザインは自由に変えられる」
そうなのか、それで昨夜の“お岩さん”……マダム・ロックも最近のファッションを試しているわけだ……と思いながら、久はきょろきょろと雑踏を眺めてしまった。
この中に、何人かは幽霊が混じっている……
「まったく怖がることはないぞ。そもそも生きている都民よりも、成仏待ちの幽霊の方が、ずっと多いんだ。特に東亰はさ。関東大震災、東京大空襲、今は交通戦争で亡くなった人の霊が続々と増えているから、お化けの大都会だ。気にしなくていい。ただの幽霊は悪さをしない。キュウ君、それより自分の足がちゃんとついているか、確かめた方がいいぞ。いつのまにか知らないうちに死んでいて、霊界物質の幽体になっていたということもあるらしい」
「えっ」
久はその場で足踏みした。万城はすぐ、ごめんごめん冗談さ、と笑ったが、久は束の間、自分が本当にこの世にいるのかどうか、気持ちがあやふやになったからだ。足裏が感じる地面は固く、しっかりと立っていることがわかった。自分の身体が“この世”の物質であると自覚できて、ほっとする。
足下の歩道は舗装ではなく、土の上に直接、三十センチ四方ほどの四角いコンクリートのブロックを石畳のように並べたものだ。でこぼこして、凹みに砂がたまり、埃っぽい。
舞い散る埃を気にすることもなく、足早に歩く人々。通勤ラッシュのピークだ。
背広姿のサラリーマンや、タイトスカートに白いハイヒールのОLたち。一方、作業着に安全靴の男たちが、徒歩か、トラックの荷台に乗って、工事現場へと向かっていく。
そんな、この世の人々の群れに、あの世の人々が混ざっている。
それらしい人を何人か見かけた。通り過ぎる瞬間に、ふっと背後へ消えていく。そのとき、三次元の空間にできた見えない隙間に、ぶるっと激しく小刻みに震え、身体の輪郭をぼやかして、引き込まれるように消えていくのが幽霊だ。
ある幽霊と、すれ違う直前に目を合わせた。若い男女のペアで、まだ二十歳の手前のようだ。男は、けば立った生地の背広姿、女は白い水玉模様の、裾が大きく広がるワンピースで、スカーフを頭に巻いていた。二人はちらりと久を見て、こんにちは、と会釈して微笑むと、手をつないだまま久の左右に分かれて、通り過ぎて行った。二人の手は久の腰を輪切りにするかのように、すんなりと透過した。
久はびくっと震えた。幽霊の手が自分の身体を通り抜けたとき、静電気に似た痺れとともに見えたからだ。
二人の感情が。
これは心霊感応の一種だ。
二人は、結ばれぬ恋を成就させる代償として、どこかの湖に入水して、心中したのだった。上流階級のお嬢様と、貧民街の工員。二人は四ツ谷駅で出会い、この近くを幾度となく密かにデートして、抜き差しならぬ相思相愛の深みにおぼれていった。
そして二人は、視線を合わせた久に、悪意も敵意もなく、仲間の幽霊だと思って挨拶して、楽し気に歩き去っていったのだ。
それは、ほんの一瞬のことだった。まるで特撮だ。この世の雑踏の場面に、幽霊たちの姿がプロジェクション・マッピングのCGで合成されているような感じ……。
久が感じたのは、電気信号として残っていた、幽霊の残留思念だ。二人の幽霊をまだこの世につなぎとめている、船の錨のような、重たい思念のかたまりだった。
……そうか、僕の脳の中に、魔法力を制御する“第六感覚野”が目覚めつつあるんだ。その能力の一部として魔物や幽霊や神様が見えて、妖精語や心霊感応によって、自然に霊魂の思いをキャッチして、この世の自分にも理解できるイメージに翻訳することができるのだろう。
いや、しかし、それよりも、ずっと以前の小さな子供のころから見えていたのに、はっきりと自覚できなかっただけじゃないか? だって、街角ですれ違った人のことなど、いちいち注目しないし、覚えてもいないから。
そのとき、ふわりと、真っ白な人影が久の背後から現れて、追い抜きながら挨拶した。ありがたいことに幽霊さんではなかった。
「ごきげんよう!」
雲雀のさえずりを思わせる、少女の愛らしい声。
たちまち路上が華やいだ。緑に萌える銀杏並木の下、三々五々連れ立って、白百合の花が舞うかのように軽やかに歩く、クラシックな女学生たち。
白いベレー帽に、白いセーラー服、白いセミロングのフルスカート、白いソックスに白いローファー。そして肩から提げた、簡素な白いズックの鞄。鞄の蓋にあたる冠の布地には小さく、銀糸の刺繍が施されている。
それは七輪紋、そこから放射状に×印の形に置いた四本の矢。矢羽根が四方に向けて広がるデザインで、小規模ながら格調高いお嬢様学校として知られる“四矢女学園”の、世間向けの校章だ。
通称“四女”の生徒に扮するのは、全員、神女挺心隊の魔法少女たち。
顔を合わせると、「おはようございます」でなく「ごきげんよう」と、雅やかに声を掛け合うお嬢様集団。
「あら、マンさん、キュウさん、ごきげんよう!」
通り過ぎる一人ひとりから、そんな声をかけられる。鈴を振るような、心地よい響き。
万城は慣れきっていて、「よっ、おはよ!」と気軽に応じるが、久は小さな声で「……お、おはようございます」と唱えるのが精いっぱいだ。彼女たちの浮世離れした、上品な雰囲気に、すっかり呑まれてしまう。
これが二十一世紀の東京なら、さだめし魔法学園を舞台にしたアニメのコスプレ少女になってしまうが、ここは一九六四年の“招和”である。時代のレトロな空気に、古風なお嬢様たちはナチュラルに馴染んでいる。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花……ってことだ。寝ぼけていても、一発で目が覚めるだろう」と、ご機嫌上々の万城。
歩く姿は百合の花……って、本当にその通りだなあ。と、久も目を奪われる。
乙女たち、お嬢様、淑女、ご令嬢……そんな、清楚でセレブな尊称がまるで違和感なくあてはまり、桃や林檎や蜜柑や檸檬を思わせる爽やかな果実めいた香りを微風に振りまいて、彼女たちは颯爽と、そして優雅に歩く。
そんな彼女たちの背景は、白亜の校舎。
真っ白に塗装した、鎧張りの木造校舎は二階建てで、外見は札幌の時計台に似ていると久は思った。ただし屋根のスレート瓦も真っ白で、砂糖の粉雪をまぶしたショートケーキのような建物が、鮮やかな緑の木々に包まれて、静謐なたたずまいを見せている。
都道が外堀通りに合流して、そのまま北へ歩くと、校地の北端の角が校舎の正門になっていた。御影石の柱が左右に立ち、柱の間には金属パイプの高いアーチがかかって、真鍮で鋳造された七輪紋と四本の矢の校章が掲げられていた。校章の下には、これも真鍮で蔓草模様に装飾した鉄製フレームの門扉があって、学園の少女たちが近づくと左右へスライドして開く。自動ドアのように見えるが、じつは機械的な仕組みではなく、少女たちが魔法力で開閉しているのだ。ちょっとした手振りで扉が開き、通り過ぎると閉じさせていることが、久には見て取れた。
校門に向かって左には電話ボックスがある。ベージュに塗ったスチールの箱といった感じで、赤い屋根が目立つ。黒いゴムで縁取られた窓の内側には“故障・修理中”の張り紙。
白い少女たちは電話ボックスの前でくるっと直角にターンして、純白のフルスカートを朝風にひらめかせ、歩道の銀杏並木と、校舎を囲む桜の梢から斜めに降る陽光を浴びつつ、小鳥のようにさんざめいて、校門をくぐってゆく。
地上の天使だ。
平和だなあ……と、久は思う。日々の何気ない光景だけど、ほっこりして、心豊かになれるような……。




