002●序章●パルナソスへの階梯…1878年・秋①:七輪紋
002●序章●パルナソスへの階梯…1878年・秋①:七輪紋
ほんとのほんとうっていうのは、子どもにも大人にも、だれの目にも見えないものなんだよ。
でも、目に見えない世界には、どんなに力があっても、どれだけたばになってかかっても、こじあけることのできないカーテンみたいなものがかかってるんだ。
……ニューヨーク・サン新聞 1897年9月21日社説「Is There a Santa Claus?」 (written by Francis Pharcellus Church)の抜粋……大久保ゆう訳 青空文庫2023 による
*
巫女は教えてくれた「魔法とは、“目に見えない、あの世”から物理力を移動して、それを自在に制御する行為のことである」と。
……アルドゥフ・ルフトヴェングラー著
論文『神託都市デルフォイにおけるピュートゥ聖域の発掘』1879
●序章●パルナソスの階梯…1878年・秋
若き考古学者は、神を探していた。
それは、 現代の宗教が崇める現代の神様のことではない。
紀元前の、さらに昔、古の人々とともにあった神々だ。
彼は、荒野を登る一筋の道を歩みながら、考える。
古代の神々は、いずこへ去ったのだろう?
シュメールのイシュタル、インダスのインドラ、スカンディナビアのオーディン、ケルトのルゴス、エジプトのラー・アメン、あるいは唯一神のアトゥンは……そしてギリシャの大神ゼウスは、そしてまばゆく輝く光明神アポロンは……
夜の漆黒の天蓋を覆う綺羅星の如く、かつて世界をみそなわした数限りない神々。
十九世紀の今も神話伝説に残されている、古代の神々が住まう天上の世界は……
本当にあったのだろうか?
それら数多くの古代神が歴史から消え去って、千五百年が過ぎようとしている。
それは西暦三九二年のことだった。
ときのローマ皇帝テオドシウス一世は、キリスト教を東西ローマ帝国の唯一の国教に定めた。そして翌年に異教の祭祀を禁じる勅令を発した。
皇帝テオドシウスは無数の古代神の全てを“人類が信仰すべきではない、忌まわしき異端の神々”と断定し、世界を支配する最大の帝国から公式に廃絶させてしまったのである。
ならば今、皇帝によって追放された、かれら古代の神々は、どこにいるのだろう?
消え去ったのか、それとも、世界の果ての何処かに潜んでおられるのだろうか?
若き考古学者は思い返す。
小さく幼い子供だったころ、クリスマス・イブの夜、父と母に連れられて村はずれの教会のミサから帰る道すがら、純白の雪をたたえた極寒の原野のはるか上をふと仰ぎ見たことを……
満天の星空、全天に広がる星座。
果てしなく冴えわたる、その瞬き。
何億年もの時間と静寂の真空を超えて届く、永遠の光。
あまりにも荘厳なその輝きに身も心も包まれた瞬間に、自分の中心に芽生えたものがあった。
それは、大きな謎。
無限の宇宙、無数の星々、数え切れぬ星座に、今は異端とされる古代の神々が、消え去ることなく、ずっと名を残している……
それらの神様たちは、じつは、まだ、僕のすぐ近くのどこかに、本当に、いる?
だから……
十九世紀の時代に生きる、この若く情熱的な考古学者は、熱心に探し求めていた。
彼はギリシャの、ある山を目指す。
首都アテネから北西に百キロメートルあまり。
コリンティアコス湾の北、中央ギリシャの山岳地帯にひときわ高くそびえる、荘厳にして重厚な山塊。
その名はパルナソス山、標高およそ二五〇〇メートル。
大神ゼウスの息子であり、世をあまねく照らす光明神アポロンが、九柱の女神からなる芸術神を従えて鎮座すると称された、聖なる高き峰だ。
光明神アポロンは人類の文化と芸術を照覧し、忠実なしもべである巫女の心に憑依して、人々に神の予言を授けたという。
神に選ばれた巫女が告げる託宣が、エーゲ海を囲む広大な古代ギリシャ文明圏、その全域の都市国家を動かし、数奇な歴史があやなされたのだ。
その場所は、聖なる山パルナソスを北東に望む急峻な山麓、荒々しい岩肌に築かれた神託都市……デルフォイ。
この“デルフォイの神託”は紀元前一千年よりも遠き昔に始まったといわれる。
しかし古の日々には神殿に詣でる参拝者で賑わったこの都市は、今はただひたすらに朽ち果てゆく遺跡と化して、幻想的なオーラで人々を魅了した巫女たちのかすかな記憶とともに、有為転変の時の流れの渦に呑まれて、地層の下で忘却の眠りについている。
山裾の斜面に埋もれた古代都市の骸、その神殿の円柱は崩れ落ち、大理石の土台は雑草に覆われるばかりだ。
今は西暦一八七八年の秋、某月某日。
神託都市デルフォイの本格的な発掘は、まだ行われていない。
しかし、そこからパルナソスの峰に向かって、北東へ五キロメートルばかり、森と荒地の複雑な地形に隠された細道を進みゆくと……
目立たない谷間の一隅で、極秘の発掘が進められていた。
パルナソス山の頂を真東に仰ぎ見て、崖に囲まれた斜面を利用した、擂鉢を半分に切った形の劇場がひっそりと姿を現している。
古代ギリシャの半円形劇場だ。
考古学者の青年は、足を止める。
日の出前の薄暗い時間なので、人はいない。
発掘作業は始まって日が浅く、大理石の客席が数段分と、円いステージの石舞台のみが地表に露出して、おおまかな形がわかる程度にすぎない。
石舞台の直径は二十メートルあまり。
その敷石には、七つの輪を使ったシンプルな円紋が、水路状の細い溝で彫られている。
同じ直径の小さな円環を六つ、下から三、二、一と三角形の俵積み状に接して描き、外側の三つの円に外接させて、ひとつの大きな円が囲む。
この円紋が、十九世紀の魔法界では“七輪紋”…ヘブンズセブン:天国の七…と呼ばれていることを、彼は知っている。
石舞台に刻まれた七輪紋の、全体の直径はおよそ十三メートル。
それを見下ろすのは、人影のない石造りの客席。
冷えた風が吹き下ろしてゆく。
若き考古学者はしっかりと石段を踏みしめ、七輪紋を眺め渡す。
歴史の闇に葬られた無数の古代神との邂逅を求めて、ここに至った男。
ドイツ帝国“秘密発掘隊”の隊長、アルドゥフ・ルフトヴェングラー博士。
年齢二十五歳。ぼさぼさの髪に口髭。苦悩を秘めた険しい顔つきとは裏腹に、眼には熱い炎を宿し、身のこなしはきびきびとして、信念に満ちている。
上着のジャケットと蝶ネクタイは折り目正しく整えられていて、探検家風の膝下ズボンも汚れてはいない。これから大切な人物と会う予定だからだ。
アルドゥフ・ルフトヴェングラー博士は今から三週間ばかり前、南西に百キロあまり離れた古都オリンピアの近郊で、神殿と競技場の発掘を進めていた。
そこで、彼は大きく失望した。探し求めていたものが見つからなかったからだ。
そのとき、彼に発掘を委託していた“組織”から密命が届いた。
アルドゥフ・ルフトヴェングラーはただちにオリンピアの発掘を中止し、隠密裏に編成した発掘チームを引き連れて、古代の神託都市デルフォイに到着したのだった。
しかし目的の発掘地点は正確にはデルフォイではなく、彼に指示されたのは、デルフォイの都市遺跡とパルナソス山の頂の間に位置する、この谷だった。
土地は“組織”によって購入済みだった。身分を隠した発掘チームは農地の開拓を装って黙々と樹木を伐採し、岩石をどけ、丁寧に土を払った。
ついに日の目を見た遺跡を前に佇む、考古学の若き俊英。
その脳裏には、声なき感慨がひたひたと押し寄せる。
ギリシャ神話の古代劇に登場する英雄が叙事詩を吟じるかのように、彼は唇を震わせ、囁いた。
「紀元前一千年よりも昔、四年に一度、神を呼ぶ儀式がおこなわれていた、ここ、秘められた場所、“ピュートゥ聖域”のこの舞台で」
古代を呼び覚ますかのように、アルドゥフ・ルフトヴェングラーが両腕を広げると……
七輪紋を彫り込んだステージに、突如、濃い霧が湧きおこった。
霧の中から古代のイメージが現れる。
それは、彼の心眼が見る幻だ。
はるかな古代の夜、松明に照らされた舞台が、闇に浮かび上がる。
アルドゥフは唱えた。
「そは神聖なる精神と肉体の祝祭、神託都市デルフォイの“ピュートゥ大祭”。四年に一度だけ開かれる聖なる祭りの開会前夜に、ここピュートゥ聖域で、古代の神々を天上から地上へと招く、聖なる儀式が執り行われた。それは“神寄せ”。人々は古代の神々の御前で楽曲を奏で、歌い、踊り、詩を吟じ、劇を演じ、あるいは歓喜して走り、跳び、投げ、馬を走らせ、汗を噴いて肉体の技を競い、高揚し、清らかな魂を神前に捧げた」
竪琴をつま弾き、フルートを奏で、歌いながら乱舞する、古代ギリシャの乙女たち。
歌舞音曲のイベントに加えて、徒競走、レスリングや円盤投げといった身体競技…西暦一八七八年の今はまだ、“スポーツ”という用語は普及していない…、それに加えて、馬が牽く戦車の競争までも行われたという。
これは、たおやかな芸術とたくましい肉体の融合。そして神と人との合一。
石舞台のダンサーが左右に分かれると背景の垂れ幕が割れ、高い三脚の椅子に腰かけた女性が姿を現した。
神に選ばれし巫女。
神託都市デルフォイの至聖なる祈祷の場、ピュートゥ聖域の祭祀長だ。
彼女は片肌を露出したキトンをまとい、白く端整な面立ちは闇のベールに隠されている。
その片手に携えた月桂樹の枝が、満天の星空に掲げられた。
アルドゥフ・ルフトヴェングラー博士は祭祀長の巫女に向けて力強く唱えた。
「そして闇は光となる!」
七輪紋の溝に流されていたのは、液体とも気体ともつかない不思議な霊界物質だった。重たい霧のようなそれが青白い光を発した。
七輪紋の形をなぞって神秘の炎が舞い上がり、夜空に純白の火の粉を噴き上げる。
頭上の星々が、カッと輝く。神々の星座が。
一瞬ののち、天より、まばゆい光の柱が降り立った。
神の降臨。
神の姿は光に包まれて見えない。あまりの眩しさに、アルドゥフは目を閉じる。
一陣の風が、舞台と彼の頬を打った。