035●第6章● 〃 1964年6月16日(火)深夜から翌未明②:花売娘
035●第6章●優しい治療と密談と夢…1964年6月16日(火)深夜から翌未明②:花売娘
万城が説明した。
「四矢女学園のお嬢さんが、お隣のよしみで、四谷プロの汚くてむさ苦しい独身男の洗濯物を引き受けて下さるというのが、伝統的な習わしになっているんだ。昔は各自が洗って窓から軒先に干したんだが、女子寮の乙女たちの真ん前で猿股やステテコや褌がひらひらするのは見るに堪えんというので、彼女たちが自発的に洗濯と物干しを請け負うことになったらしい。有料だが、ありがたくお受けしろ。にしても初回無料なんて初めて聞いた。俺んときは入会金込みで倍額取られたぞ」
「あらマンさん、今回は未来からのお客様……ええと、たいむ・とらべらーさんですから、特別にいいでしょ? それに殿方の皆さん、むさ苦しいことは全然ないです。とにかく不衛生なだけですよお」
くるみはフォローしたつもりだが、ちっとも救いになっていないことに苦笑しつつ、万城は久に、「そうだ。どうせ着替えるんだから全部脱げ、昼間から汗だくだろ。下着や寝間着は俺のを貸してやるから。さあ脱げ」
「洗濯って、僕の? ここで脱ぐんですか?」
しどろもどろの久、一方、くるみはというと、籠を置いて両手で目を隠している。が、どう見ても笑顔で、指の間に細い隙間があるような……
「馬鹿、ここでストリップするんじゃない。押入れを使うんだ」
笑ってたしなめられ、久は万城の衣類を受け取って押入れに引っ込んだ。
襖の内側でごそごそと脱衣し着衣する音に聞き耳を立てながら、くるみはすました顔で、籠を抱いて佇む。万城は気安く話しかける。
「ふーん、くるみちゃん、まるでクラシックなフランス映画みたいだよ。その籠に花が入っていれば、パリの花売り娘だ。“巴里祭”のさ」
「そお? そうかしら」
お世辞でも、まんざらじゃないわといった感じで、くるみはその場でくるっとターン、ふわりとスカートをゆらめかせてポーズを決めた。
その一瞬で、手品のように、左腕にかけた洗濯籠が黄色と白の雛菊の花束でいっぱいになり、右手に同じ花を一束だけ捧げ持つ。
マイクの代わりに花びらを口元で揺らし、その唇が、普段とは違う大人びた声で、ひそやかに歌い始めた。シャンソンのムードで。
♪夜空の星映し セーヌは流る
青春のマリアンヌよりも
あたしはアンリエットの巴里祭の
イングリッドみたいに踊りたい
でもあたしは名もないフランソワーズ
日曜日のヴィル・ダヴレイ
夜空の星映し セーヌは流る
シベールの涙きらめかせ
「あのう……」襖を開けて、万城のパジャマに着替えた久が、衣類を抱えて下りながら聞いた。「だれか、近くで歌っていなかったですか? きれいな歌。アコーデオンも鳴らして」
「いいや、ちょいとラジオをつけて、消しただけさ」と、万城がしらばくれる。くるみは洗濯籠を腰の後ろに回していて、前に戻すともう、花束は消えていた。
「それではキュウさま」籠に洗濯物を受け取ると、くるみは久に手を差し出した。
「はい、パンツ、隠してもだめですよ」
猛烈に赤面する久に、くっくっと笑いをこらえきれない万城が言う。
「素直に出せよ。不潔な物体を隠匿すると評判が落ちるぞ。あの未来少年、使用済みのパンツを押入れに溜め込んでいるってな」
仕方なく、押入れの隅に丸めていたパンツを、くるみに渡す。濃いグレーのボクサーブリーフ。汚れの目立つ色でないのが、せめてもの幸いだ。
と、くるみが寄り目になった。久のパンツの織りネームに注目している。製造元の名前。
「に・ろ・ゆ・く?」
縦読みである。
「わ、わ、もういいでしょ、やめてください!」うろたえてジタバタする久。
「ね、ユーエヌって、こくれんのことですよね」くるみはパンツを取り返そうとする久の手を払いのけ、さっと背中回しで、万城にリレーする。
「そうだよ。ふうん、これは国連国際文化労働機構《UNICLO》の略じゃないか? そんな組織があったっけ。ま、キュウ君の素性を探る手掛かりの一つだな」
恥ずかしいパンツはいじり回された挙句、くるみの籠におさまった。
羞恥地獄のどん底に悶絶気味の久を残して、くるみはさほど多くない洗濯物を入れた籠を提げて、るんるんと楽し気にスキップして帰る。
通路の奥は左に曲がる渡り廊下になっていて、手前に何かの境界を示す白線が引いてあった。
あ、そこでコケるかな、と久は一瞬思ったが……
ころんだ。
左に曲がるとき、よく磨かれた床に足を滑らせて、ミスったスケーターみたいに、こてんと横転した彼女だが、即座に起き上がり、助け起こそうと一歩踏み出した久を、大丈夫、と手で止めると、てへ、と舌を出して照れ笑い。
「これからお隣同士だもんね。キュウさま、仲良くしましょ」
そして必殺のウインクを残すと、去っていった。
少年の脳裏に焼き付いた、金髪テヘペロ少女のドジっ子ぶり。
……まるで、醒めない夢を見ている不思議ちゃんだ。
機関銃や機関砲を撃ちまくる、“お仕事中”の姿とは真逆の“お嬢さん”に、久はただ幻惑されるばかり。
ぼんやりと、誰もいなくなった廊下を見つめる。
なんて、可愛い……
「そうだ、言い忘れてはまずい」万城が久に忠告した。「あの白線は絶対不可侵のボーダーラインだ。何が何でも絶対に踏み越えるなよ。向こうは四矢女学園の女子寮の領分になる。乙女の花園だ。二つの建物はこの渡り廊下でつながっていて、彼女たちは白線を越えてこちらを自由に行き来できる。けれど、こちら側、四谷プロの独身寮からは、緊急の人命救助を要する非常事態を除いて、男性はなんぴとたりともあちらへ侵入してはならない。そういう掟になっている」
そうか、彼女が転んだとき、僕が追いかけて行ったら、ルール違反になるところだったんだ……と知って、久は当然聞くべき質問をした。
「今までに、それをやった人はいるんですか?」
「わからない。聞くところでは、あっち側にちょっかい出して、還ってきた奴はいないとさ。向こうはあの娘たちの世界、“侵略者は撃て”の原則が適用される。白線一本だが、この世とあの世の境目みたいなものだ。勝手に越えたら、生命の保証はできないよ」
「肝に銘じます……」
万城は真顔だった。現実とは、まことに油断のできないものである。
うっかり“あちら側”へ忍び込んだら、彼女たちの“お仕置き”は、こよみの念力びんた程度では済まない……ということだ。
万城が事務所へ降りていき、部屋に残された久は喉の渇きを覚えた。
卓袱台の上に盆があり、ペリカンの嘴みたいな注ぎ口のポットが置いてあった。
アルミのピカピカした円筒には“全虎印魔法瓶”とあり、額に“全”の字の縞をつけた虎が、大口を開けてあくびをする図柄が描いてある。
中に氷水が入っているから、好きに飲んでいい……と、万城が言い残していた。
嘴形の蓋を上げ、中の栓を回して外す。“魔法瓶”の中を覗くと、キラキラしたガラスの円筒だ。半ば満たされた水に、小さな氷がいくつか浮かんで、万華鏡に似た輝きとともに、カラカラと涼し気な音を立てる。
茶碗で一杯、いただく。甘さのある、おいしい水だった。
後日、万城に聞いたところ、水不足に備えて、魔法自衛隊の秘密本部基地“三角ベース”の地下に一千メートルよりも深く井戸を掘って汲み上げた、深層地下水であると知ることになる。
喉の渇きが癒されると、改めて、部屋をゆっくりと眺める気になった。
寝間着はパジャマだが、部屋の雰囲気は、地方の古びた民宿に泊まるようなものだ。
長いようで、あっという間の一日だった。
本当に僕は時間を旅して、今は一九六四年なのだろうか?
見ると、壁にカレンダーが貼ってあった。ポスター形式の一枚もので、イラストと写真の周りに、十二か月の七曜表が配されている。
中央に二人乗りの円錐カプセル型宇宙船の解剖図、その下に“ジェミニ宇宙船”とある。
背景には、二本の噴射管から炎を吐いて打ち上がる銀色のミサイルのような写真、こちらは“タイタン・ロケット”とある。
イラストを最初に見たときは、国際宇宙ステーションと地上を結ぶ新型の連絡宇宙船かと思ったのだが、その右上のタイトル“宇宙カレンダー”の横には“1964”と“招和三十九年”。
昭和とは、少し違うみたいだけれど……。
久はため息をついて、本棚に目をやる。ぎっしりと並んだ単行本と雑誌。知らないタイトルがほとんどだ。
背表紙にSFと表記されているものが多い。単行本は『美しい星』『第四間氷期』『日本アパッチ族』『地には平和を』『海底軍艦』『新戦艦高千穂』……、また金色や銀色の背表紙のペーパーバックや文庫本で『渚にて』『破滅への二時間』『月を売った男』『地球の緑の丘』『夏への扉』『華氏451』『火星年代記』『われはロボット』『ジェニーの肖像』……。万城氏はかなりのSF好きらしい。SF以外では『ゼンダ城の虜』『海の義賊』『ルックネル艦長』『女王陛下のユリシーズ号』『ナヴァロンの要塞』『星の王子様』『ファニー』『アラビアのロレンス』、国内作品では『紙の罠』『飢えた遺産』『探偵事務所23』『のるかそるか』『おれについてこい!』『キューポラのある街』『愛と死をみつめて』……。そのほか、戦前のものらしい古書も混じっている。そして雑誌は草川書房の“月刊SFM”。背表紙は一九六四年七月号までだ。
やはり、そうか……
本棚の中身は確かに一九六四年だ。
※作者注……
『パリの空の下』(フランス語: Sous le ciel de Paris)は、ユベール・ジロー (Hubert Giraud) 作曲のシャンソンです。作詞はジャン・アンドレ・ドレジャック (Jean André Dréjac) 。
1951年のフランス映画『巴里の空の下セーヌは流れる』(Sous le ciel de Paris)のテーマ音楽的な挿入歌であり、リーヌ・ルノーが歌いました。CDではエディット・ピアフの録音が有名ではないでしょうか。
くるみが花売娘の気分で歌った曲が『パリの空の下』と同じメロディだったのか、それは定かではありませんが、“似た感じのする別の曲”だったのかもしれません。もちろん、くるみは物心ついた頃にこの映画を見て、曲を覚えていたと思われます。




