034●第6章●優しい治療と密談と夢…1964年6月16日(火)深夜から翌未明①:独身寮
034●第6章●優しい治療と密談と夢…1964年6月16日(火)深夜から翌未明①:独身寮
●第6章●優しい治療と社長室の密談…1964年6月16日(火)深夜から翌未明
万城に連れられて、階段を昇り、四谷プロダクションの二階へ。
そこが男子社員の独身寮だった。
四谷プロの本社社屋は、地下鉄四谷駅の前を北から南へ下る外堀通りから分岐して、神宮外苑方面へ走る都道四一四号線に沿って建てられた、長さ八十メートルほどの南北に細長い建物だ。
地上は木造モルタル造りスレート瓦葺きの二階建て。二十一世紀なら、過疎地の村に残る、昭和の遺産ともいうべきレトロな校舎に似ている。
一階は建物の西側が廊下で東側に事務室が並び、二階は東側が廊下で、反対の西側に男子独身寮の居室が並ぶ構造になっている。
一階は事務所で、二階は男子独身寮、地下一階に社員食堂と大浴場を設置した“職住一体”の建物だ。本社社屋といっても、上半分はアパートと言っていい。
独身寮の入口には数十人分の大きな下駄箱があり、靴を脱いで、木目が浮き出た廊下に上がる。廊下に沿って二十ばかりの居室が並び、ドアごとに二、三人の名札が並んでいる。
万城の部屋は二階の一番奥の左手、すなわち北の端の西側にあった。扉の名札は“万城万太郎”が、ひとつだけ。部屋は八畳と押入れ。本来は二人部屋のようだ。
久は黙って、じっと痛みに耐えていた。
左手は、腫れあがった頬に血塗れのおしぼりを当てがい、押さえている。
要するに、これまでの、ありとあらゆる懇切丁寧な説明と議論と質疑応答……つまり、コンセンサスを形成するための正当な手続きをことごとく木っ端微塵にして、こよみの念力びんた一発で、自分の運命が決まったわけだ。
世の中は理不尽なものだと、つくづく思う。
「痛むよな? すまんね。あの時、隊司令も真幌場さんも俺たちも“制動”をかけたんだが、こよみ君の爆発的な魔法力にはかなわなかった。もう夜も遅いし、救急車を呼ぶと警察騒ぎになるし、こっちのほうが早いってことでね」
万城が言い終わる前に、窓がノックされた。窓枠は木製で下半分が摺りガラスだ。
万城がからからと開けると、宵闇をバックに、白いベレー帽に赤い×印をアップリケした女の子が二人、顔を出した。
はにかみを浮かべた、素朴な表情。
黒い円縁眼鏡をかけた大柄な少女は白いセーラー服の名札に“長門なつみ”、ほっそりと痩せた少女は“酒匂さきえ”。両名とも“神女挺心隊”の衛生係、昼間、上野公園での骨格恐竜との戦闘で傷ついた仲間を救護していた二人組だ。
「お待たせしますた。衛生係参上」と長門なつみ。時々、言葉に風変わりな地方訛りが交じる。
「マンさん、窓から失礼します。こよみお姉さまから、こっそりと伺うように言われましたので。今すぐ治療します。患者さんは、ええと……」と酒匂さきえが久に尋ねる。
万城が答えた。
「星川久君だ。キュウ君でいいよ、キュウ君」
久はうなずいた。顎も口も痛みに痺れ、ハフハフとしか喋れない。
「じゃ、キュウさん。こちらにお顔を、ほっぺを差し出してください」
言われるまま、おしぼりを外し、内出血で黒々と腫れた頬を差し出す。
黒眼鏡の長門が両手を出す。酒匂が長門の手首に指を添えて、久の頬へ誘導した。
痛みはますますひどくなって、のたうち回りたいほどの激痛になっていた。
そこへ、包み込むように、長門の両手のひらが触れる。
苦痛を予感して、久の頬がぴくりと震える。
しかし、皮膚にその感触はなかった。むしろ触られる感じがしたのは、肌の内側、骨にひびが入り、血だまりになっている、最も傷の深い箇所だった。そこを、優しく透明感のある長門の指が、そっとなでて、いたわるのがわかった。
より正確には、彼女の指先が霊界物質と化して、久の皮膚や骨を透過、つまり生体組織の分子の隙間を潜り抜けて、最もダメージの大きな患部の細胞に達し、その内部のミトコンドリアと直接に感応して、傷を自己修復するエネルギーと質量を潤沢に注ぎ入れたことになる。
「痛いの痛いの、飛んでいけ~♡」
と、長門が柔らかな声で伝統的な呪文を唱えた。
久はうっとりとして、目を閉じていた。言葉にできない心地よさ。
頬と顎が、内側から、やけに熱いなと思ったら、もう痛みは消えていた。
長門の手が離れたのがわかった。
「キュウさん、お加減、いかがですか」と酒匂が訊いた。
久は自分の頬をなでた。苦痛もなく違和感もない。すべすべの肌に戻っている。これも魔法のひとつなのだろう。
「ありがとう! 痛いのが、本当に飛んで行った! もう全然、なんともないです」
「よかっただす」と、ぎこちなく長門が一礼すると、感謝のあまりぺこぺことお辞儀を返す久に、酒匂が言った。
「キュウさんに、こよみお姉さまからの伝言があります。こうです……“ごめんなさい。もうしません。たぶん”」
「たぶん?」思わず久は、伝言の末尾の言葉を確かめていた。
「ええ、“たぶん”」と酒匂はにっこりした。「それじゃ、お大事にね。おやすみなさい」
「おやすみなさい」と万城が手を振り、二人は去った。万城も、ときどき、南風はてるかと同じ南国風の言葉を使う。出身地は南、沖縄諸島方面らしい。
それにしても、“たぶん”か……と久は複雑な気分で思い返した。肉体の傷は完治したけど、心の傷はまだ疼きが残されている。
神よ願わくば、彼女が二発目を発動する日が永遠に訪れませんように……。
祈りながら、久は窓を閉めた。そして、ここが二階だったことに気が付いた。
「よかったな。なつみ君の手は神の手だ。魔法自衛隊のミス・ベン・ケーシーさ。医師免状はないが、外科手術なら世界一じゃないかな。たいていの怪我はきれいに治してくれるよ。心強いだろ」と、久の肩を叩く万城。ベン・ケーシーは一九六四年当時の米国製テレビドラマで有名な天才医師の名前である。
「本当に、助かりました……でも、二階ですよね、ここ」
「二人は白衣の天使だからね。見えない翼を持っているんだ」
本当に? と訊く久に、万城は「まあ、おいおいわかるさ」とはぐらかした。
久はようやく一息ついて、部屋を見回す。
壁際に本棚。ぎっしりと、本や原稿用紙の束が詰め込まれている。座卓の上にトランジスタラジオ。その前に縞模様の座布団。手前には円い卓袱台と本棚の隣に小さな茶箪笥。
懐かしの昭和を描く、朝のTVドラマのセットそのものである。
「シナリオや宣材など、原稿書きの仕事をここでするので、一人部屋にしてもらっていたが、君が部下に来てくれたので、今夜から同室だ。ま、よろしく」
と、握手を求めるが、どうやら正式な部下は久が初めてのようだ。万城の手を握り返すと、見た目よりもがっしりした骨太さを感じる。
こうしてみると屈託のない朗らかな青年で、久は胸をなでおろした。
うまくやっていけそうだ。
「とにかく長い一日だったよな。映画ならフィルムの長回しで、延々とワンカット撮影するような時間感覚だねえ。ヒッチコック監督の“ロープ”を観たことあるかい? あんな感じかな。それとも、“會議は踊る”の有名な馬車のシーンか。あの“ダス・ギプツ・ヌア・アインマル”…“ただひとたびの”…って歌がずーっと流れる名場面だよ」と、趣味の映画知識を少しばかり、ひけらかした万城は、疲労と眠気でフラフラ気味の久を見て取ると、「……ところで俺は残務を片付けるので、一階の事務所に戻る。もう深夜なので、風呂は朝にしよう。先に寝とってくれ。寝床は押入れの上の段でいいだろう」
部屋のサイズは団地仕様よりも大きな江戸間なので、押入れは左右の長さが一七六センチになる。襖を開けると、下段に布団が敷いてあり、万城はそこをベッド代わりに使っていた。
万城氏の身長だと頭がつかえるので、頭から足先を対角線上に置いて寝ているとのこと。
「畳の床で寝ると、朝夕に布団の上げ下ろしをしなくてはならない。面倒なので、独身男は大抵こうしている。俺は体重があるので下を使っている。君の方が軽いから、上を使いなよ」
……ということで、久も納得して、ご厚意に甘えることにした。
上段に置いてあった収納ボックス代わりのリンゴ箱を出して、予備の布団を敷き、そこが久の寝室になった。和風のカプセルベッドと考えれば、それほど悪くない。
そこへ、今度は廊下側のドアがノックされた。室内の返答を待つことなく内側へ開く。
「こんばんは」
本物のパリジェンヌと見間違えそうな、金髪の美少女が立っていた。
「お、くるみちゃんか、どうぞ、入りなよ」と万城。
なんと、スクールバスの窓から手を振ってくれた、くるみという、可愛い娘だ。
体つきが小柄なので、両手で持つ籐編みの洗濯籠がとても大きく見える。
手を使わずにドアを開けたことがわかった。もちろん足で開けたはずがない。
白いセーラー服に白いロングの布地たっぷりのフルスカート、白いソックス、白いスリッパの金髪少女は、ベレー帽を被らず、柔らかく肩にかかる金髪が耳元に複雑なカールを描いているさまは、学園アニメの美少女ヒロインそのもの。
久は緊張した。一発で眠気が先送りになる。きっと顔が真っ赤になったはすだ。頭の中のすべてが、くるみの愛らしい輝きに満たされ、こよみの陰気な影がそそくさと退場する。
にしても、なんて綺麗な声なんだろう。
「お洗濯物、ございますか? キュウさま」
蒼い眼をきらきら輝かせて、“さま”付けで呼ばれることの面映ゆさ。
初めて話しかけてくれた言葉の魅惑的な響き。
またもキューピッドの快進撃にハートがメルトダウン、血圧と脈拍が急上昇して思考が緊急停止する久に、くるみはちゃっかりと、「この籠の縁までで十円、大盛りは十五円いただきます。けど、キュウさまは今、お手元不如意なんでしょ?」
「あの、ふにょい……って?」
「やだあ、お財布がぺったんこってことなのです」と、くるみは甘ったるい声で微笑みながら「最初の一回は無料で、出血大サービスさせていただきますぅ」




