026●第5章● 〃 1964年6月16日(火)夜②:マダム・ロック
026●第5章●霊写技師と痛い就活…1964年6月16日(火)夜②:マダム・ロック
万城はカメラを接写スタンドから外し、久に差し出した。
「キュウ君、今から、このカメラで写真を撮ってもらう。こよみくんが連れてくる人物をね」
久はどぎまぎした。ミコンFZはずっしりと重く、ごつごつして、久に触れられるのを拒否するかのように、冷たい。
「あの、使い方は……」
「簡単さ」と万城はフィルムの巻き上げを確かめ、露出を調整すると、「これがシャッターだ。ファインダーを覗いてみな。黒枠の横にプラスとマイナスの印と針がみえるだろ。針がその真ん中に合っているかい」
「はい、合っています」久はファインダーに目を接して、白壁に向けてカメラを構える。万城は久の手に、自分の手を添えて操作を教えた。
「ピントは自分で合わせるんだ、レンズの筒を回す、こうやって。今回、シャッタースピードは三十分の一、かなりゆっくりだ。被写体への悪影響を考慮して、ストロボは使わないからね。だから手ブレに注意すること。肘を脇につけて、しっかりと保持するんだ」
「はい」
万城の指示に素直に従う。不信感はあるものの、不思議と反感は湧かなかった。突飛な発想をする人だけど、根は誠実なのだろう。事情はよく分からないが、スマホには、彼らを心底びっくり仰天させるほど凄い写真が撮れていたのだ。何はともあれ、高く評価されるのは嬉しい。母親以外の人に褒められる経験は極めて少なかったので、ここは進んで協力しようという気になった。
にしても、このカメラ、恐るべきアナログ感覚である。
ファインダーを覗いていると、黒枠の中に、ふわっと滑るように一人の女性が入ってきた。
黒に近い紫のシックなワンピース、鍔の広い帽子、コンサートのステージからそのまま降りてきたベテランの大物歌手のような。
女性は帽子を取り、長い髪の乱れを直すと、楚々として一礼した。無言だ。華やいだ印象とは裏腹に、物腰は地味で、他人の目を避けて隠遁している雰囲気がうかがえる。
とはいえ、ただ暗いのではなく、人付き合いが苦手なだけで、じつは豪壮なお屋敷の上品なご婦人、といったところだ。二十一世紀風に言えば“コミュ障マダム”か。
「マダム・ロックさんです」と、こよみが久に紹介した。「お写真、撮ってあげて下さい」
人物一人のポートレート写真だ。画面を縦長にするため、久はカメラを九十度倒して持ち直した。
丹賀をはじめ、この場の全員がマダム・ロックという女性の事を知っているようで、誰も変な顔をする様子はない。
「キュウ君、それでいいよ。マダムは壁から一歩前へ、離れて下さい」と万城が言い添えた。マダムにピントを合わせれば、背景が適度にボケて、壁の汚れが見えなくなる。
カメラを向けて、久は少し迷ったが、こう言った。
「それじゃ、撮りますよ」
「はい、チーズ」と、こよみたち全員が唱和した。
マダムは微笑んだ。ここの人たちは「チーズ」で撮影するんだ。と久は納得した。
昔の人たちはそうしていたと、母から聞いたことがある。
同時に、額縁のようにファインダーのフレームに囲まれているマダムの上半身に、似ている絵があったと思った。そうだ、モナ・リザ。あの神秘的な微笑みの女が、マダム・ロックに似ている。
ダ・ヴィンチの気分で、もう一枚おまけでパシャッと撮影。今度はマダムの全身を入れた。
「OK。ありがとう」と、締めくくった万城に、今度は丹賀が提案した。
「万城君、いい機会だから、ついでに、ここにいるメンバーの記念写真を撮ってもらおう」
「いいですね、キュウ君、頼むよ」
真幌場も「どうぞ、よかったらご一緒に、写真にお入りになってください」と寡黙なマダムに薦める。
たちどころに、久以外の、丹賀、真幌場、万城、漆田、こよみ、マダムの六人が、白い漆喰の壁をバックに並んだ。今度は画面を横長にして、久自身が「はい、チーズ」をやってみた。
全員がにっこりと笑い、無言を貫くマダム・ロックを除く全員が、なんとも真面目なことに「チーズ」と唱和を返した。
パシャッ、とシャッターが下りる。
ファインダーの中のだれもが撮影に満足しているようで、久はほっとした。
「チーズ」の一言で、なんだか場がなごむ。これって、時代に関係のない、いい習慣かもしれないな、と久は思った。これからは撮影するたびに「はい、チーズ」を使ってみよう。
「もう一枚ね」とこよみが促した。にっこりした笑顔がそのままだ。なんだ、中身は閻魔様でも、ちゃんと笑えるじゃないか、鬼の目にも何とやら、かな……と、少しばかり、こよみに親近感を覚えた久はもう一度、「はい、チーズ」で撮影した。
そこで万城が「ありがとう。キュウ君、ご苦労さん」とカメラを受け取り、フィルムをシャカシャカと巻き戻すと、カメラ本体の裏蓋をパカッと開ける。
そういえばディスプレイがついていない。デジカメじゃないんだ……と、改めて実感する久。
漆田がフィルムの運び役を買って出た。
「先輩、超特急で源蔵さんとこへ行ってきやす。ひとっ走り」
「ほい、新幹線で頼む。ベタ焼き省略、キャビネの紙焼き一枚ずつ」と万城はフィルムを渡す。源蔵さんというのは、後で知ったが、彼らの基地でフィルムの“現像・焼付け・引き延ばし《DPE》”を行う地下ラボの責任者ということだ。
「了解りょーかい、夢の超特急、時速は二百と十キロね」と言うや、漆田の細い身体はひゅっと風を切って廊下を走り去る。超特急は無理でも、通勤快速並みのダッシュ力だ。彼も魔法使い気取りなのだろう。言うことも軽いが、走っても軽いなあ、と思いながら久は問う。
「あのう、撮影はしましたけど、何を確かめるつもりなんですか?」
「ああすまん、説明が後回しになったね」
万城は丁寧な物腰で語る。久に一目置くようになった感じだ。
「キュウ君、君も気付いていると思うが、このスマホの二枚の写真には、普通の人が普通のカメラで撮影したら写るはずのないものが写っている」
「女神さまと、魔物の怪獣ですね」
「うん、まあ……そういうことだ。普通の人間には、まず、ほとんど見えないし、写真に写ることもない。正確には、ものすごくピンボケで、ゆらゆらした空気とか、かすかな塵みたいな粒子の雲が写ることは写るんだけどね。じつは一流の霊写技師が撮影しても、その程度なんだ。細かな説明は省くが、神様や魔物や幽霊が写真に写らない理由は、要するに“この世のものではない”からだ。神様も魔物も幽霊も、もともと“あの世”の存在なんだから、基本的に“あの世”の物質でできている。すなわち“霊界物質”ってことだ。だから、この世の普通の人には見えないし、この世の写真フィルムや映写フィルムやビデオテープには画像が記録されない。ベストでもモヤモヤのピンボケさ。しかしキュウ君は肉眼で見ることができるだけでなく、見事に、撮影に成功した。それも、実に鮮明に」
「それって、すごいことなんですか?」
万城は深くうなずいた。
「われわれ魔自でも、ここまで綺麗に撮像できる技術を持った霊写技師はいない、この俺を含めてね。こんなに凄い高精細のシャシンは、みんな生まれて初めて見たんだよ。海外でも、このレベルの撮影ができる魔法使いは、まず、いないんじゃないか。そうすると、可能性は二つだ。君のスマホが、とんでもない高性能の霊写システムを備えているか、それとも君自身が、並外れた霊写能力を持っているのか。どちらかだよ。両方という可能性も、追加できるがね。しかし機械による霊写システムは工業的な理由から、いまだ完成を見ていない。“この世の物質だけで作られた写真機とフィルムは、あの世の物質でできた被写体を撮像することはできない”という摂理なんだ。しかるに、さっきキュウ君がマダム・ロックさんや俺たちを撮影したフィルムは、ごく一般の市販品だ。そのフィルムに綺麗に撮影できていたら、キュウ君自身にこそ、優れた霊写能力が備わっていると証明できる。君の頭の中の“第六感覚野”が、霊界物質……物理的に言うと“重光子”……で顕現した“あの世の存在”を正確に知覚して、その視覚情報を脳内の視覚域に組み立て直し、そのイメージを、“この世の光”に変換し、光学的な念動力によって、“現世の実像”として、“この世のフィルムに焼き付ける”……といった動作をしたことになる、というわけだよ」
なんだか難しい説明になってしまい、よくわからないが、久はうなずいた。
「それって……オカルトで言う、心霊写真の“念写”ということですか?」
「なんだ、よく知ってるな」と丹賀が感心した。「そうだ、同じことだ。たとえば、“あの世の霊魂”をまず肉眼で検知して、次いで頭の中で“この世の幽霊”に翻訳して、印画紙に感光させる能力だ」
ピュッと風が吹き、ドアが開くと、漆田が飛び込んできた。手には封筒。パラパラと写真を出し、テーブルに並べる。手のひらよりやや大きなプリント。カラー写真だ。
それにしても現像から焼き付けまで五分とかかっていない。常識離れしたハイスピードである。これも魔法なのだろう。
室内に興奮が渦巻いた。
「たいしたもんですよ」と称賛する漆田。「源蔵さん、この紙焼きを渡してくれたとき、手がぶるぶる震えていましたよ。いかに魔自でも、これはありえない、奇蹟じゃろうってね」
「だろうなあ」と、したり顔の万城。一枚一枚、丁寧にながめる。「最初の、スマホ画面を接写した複写写真は問題なし。女神様の画像も、骨格恐竜の画像も、鮮明に複写できた。つまり、このスマホという装置に記録された二枚の写真は、普通人の眼でも見える、完璧な霊写だということです。そのあとでキュウ君に撮影してもらったマダムの写真も我々の集合写真も、文句なしに鮮明に市販のフィルムに焼き付けられています。これはひょっとすると快挙かもしれない。いや、私は、自信を持って、快挙だと断言します!」
「キュウ君、やったね!」と相好を崩す真幌場女史は、久の手を握り、眼を輝かせて誉め讃える。「やっぱりキミは宇宙人、半魚人、河童、いいえ未来少年!」
「マダム……とても綺麗」と、こよみがほのぼのとして写真に見惚れる。マニュアル操作のフィルムカメラを、久が生まれて初めて自分の手で扱っただけに少しピントが甘く、それがかえってフォトジェニックな効果を出していた。素人にしては運良く成功した部類だろう。こよみは久に向かって言った。
「これ、マダムに差し上げていいかしら?」
丹賀たちも、ええどうぞ、もちろん、と承諾し、マダムのポートレートの二枚は、本人の手に渡された。マダムは、うっとりとその写真をながめて微笑むと、恭しく久にお辞儀した。
久は予期しない感謝に、どぎまぎしてうつむいたが、目を上げると、マダム・ロックはもう、この部屋にいなかった。
そこにあるのは、生暖かくそよぐ、夜風だけ。
「ここしばらく会うたびに、お見合い写真が欲しいって、おっしゃってたんです」と、こよみが網戸の外の暗がりに目をやって言った。「いろいろ、最近の洋服も試してみたくなったって。ファッションのお手本はジェーン・マンスフィールドだそうです」
ひゅう、と漆田が口笛。「めざせハリウッド女優か。そりゃあいい。レッツラゴーの前向き余生だ。あのドレス、よく似合ってたねえ」
「そうか、マダムもようやく、その気になってきたのか……」と、しみじみ顔の万城。
「昔から、色々あったからねえ」と、煙草をくゆらせる丹賀が、なにやら感慨深げにつぶやくと、真幌場が少しばかり潤んだ声で付け加える。
「ご心労とご不幸が長すぎましたわ……もう、ご自分で幸せを探されてもいいですね」
よくわからないが、僕には関係ない、あちらの事情だ。たぶん、長い間独身で寂しく過ごしてきた四谷のマダムが、ついに婚活を始めたということか。写真、役に立つといいけどな……と聞き流していた久は、突然に悟った。
マダムは、この世の人ではない……。
ロック……って、岩? だとしたら、まだ成仏していなかった?
そういえば、ここは四谷。
肩をポンと叩かれた。ぎょっとして振り向くと社長の丹賀。ニカッと、意味深な笑みを見せて豪快に一言。
「どうだキュウ君、うちで働いてみんか!」
「え、ええっ?」




