016●第3章● 〃 1964年6月16日(火)昼さがり②:スマホ
016●第3章●特車隊と“東亰ピューテック”…1964年6月16日(火)昼さがり②:スマホ
怪獣は何かが喉に詰まったかのように、唐突に沈黙した。
久は直感した。この怪獣は、かなり驚いたんだ。だから黙ったのだ。
……そうか、やはり見えていなかったんだ、普通の人々には。あそこに集まってきた見物の人たちの目には映らない、透明なステルス怪獣みたいなもので……だから、このバスの女の子たちがあれほど真剣に戦っていても、特撮映画のロケという、“作られた状況”に人々は納得しているんだ。怪獣はいないけれど、そこにいると仮定して演技している……って。
ということは、あの女神様も透明人間と同じで、見えていなかったんだ。本当に見えていたら、見物人はもっと反応しただろう。綺麗な人だ、とか、あれは誰なんだ? 上半身が裸だぞ……とか。それがまったく見えないから、疑問に思わなかった。これは特撮怪獣映画のロケなんだから、あとから映画フィルムに特殊効果の手法で、怪獣や女神様みたいなものを合成するんだろう……と。
音は……そうだ、あの怪獣の吼える声や、歩く時の地響きなんかは聞こえていたはずだ。けれどそれは演技を盛り上げる人工的な効果音で、撮影スタッフがスピーカーから流していたと思うだろう。
だから、本物の怪獣と、本物の“対怪獣特殊部隊”みたいな秘密組織が、本物の戦闘行為を行っていて、それを世間の目から隠すために、特撮映画のロケ撮影に見せかけていた……と考えれば、いちおう、スジは通る……
でも、まだ本心から信じる気にはなれないけど……と思いながら、久はドシラの反応を見る。
「ふーむ」ドシラは考え込んだあげく、言葉を濁した。「そうか、君には見えていたんだな。本当にそうだとしたら、別な意味で、いろいろと訊きたいことがある。まあ、おとなしくしていれば命の安全は保証しよう。だから協力してくれたまえ。……にしても、この秘密写真機はよくできているなあ、手帳に似せてあるのか」
愛用のスマホは、ドシラの手の中にある。さっき、久の手から簡単に奪ったのは、念動力を使ったのだろう。スマホを持つ右手だけで不器用にケースのストッパーを外して、開く。
「げ」
短い驚きのうめきが、ドシラの口から洩れた。
久は黙って考えていた。……この男、スマホを初めて見る様子だ。というより、スマホそのものを知らない。こよみという娘もそうだ。ひみつカメラだとか、スパイの写真機だと言っているし。今どき“写真機”なんて言うか?……いったい、何なんだ。他人を捕まえてスパイというなら、この男の方が、よほど変人じゃないか。
ドシラはナマズ似の口をぱくぱく開けて、文字通り食い入るようにスマホの画面を見つめる。口の中は薄い黒布が張ってあり、そのスクリーンを透かして外を見ているわけだ。
スマホの画面は、先ほど久が“女神様”のアフロディテを撮影した、そのままの写真を表示していた。左右に巫女を従えて、右手で火炎土器を胸に支え持ち、左手には紅玉の輝きを放つ、つややかなリンゴを掲げている。
虹のような光の粒子で構成された女神さまの御神体とその衣は、ステンドグラスを集めて作った彫刻のようでもあり、むしろゲームのVRゴーグルの中に浮かぶ、3Dホログラフィの女神キャラに近いかな……と久は思った。
「むうう……むむむむ」ドシラの口の中からスマホの画面を熱心に観察する青年のうめき声が、なぜかオクターブを上げた。「布越しでは、どうも……ねえ」と、こよみに問う。「この写真、見えにくいんだ、ぬいぐるみ、首だけ脱いでいいかな?」
さっ、と、こよみの顔色が暗転した。かすかにうろたえる。
「え、ええ……わたくしは……かまいませんけど……で、でも」と答え、何かを我慢するかのように唇をしかめたところに、少女たちがみな、一瞬、息を止めるのがわかった。そそくさとバスの窓を開ける娘もいる。
この満席状態の車内で着ぐるみの首だけでも脱ぐことが、いかなる不幸を意味するのか、だれもが知っているようだ。
今、車内には少女たちのフレグランスで、爽やかな香りが漂っている。そこへ、ただでさえ梅雨どきの湿気がこもり、ぐっしょりと汗だくで、全身ムレムレの青年男性を内蔵して、しかも何週間も洗濯していない様子の、このボロっちい着ぐるみ怪獣が首を脱いだら、どうなるのか……
どこか天然的に優しい少女たちなのだが、それでも全員が恐怖におののくのだから、過去に同様のケースで彼女たちの嗅覚に対する破滅的な惨劇があったのだろうと推測される。
すると後方の席から、はてるかの声が、すっぱりとドシラの願いを断ち切った。
「絶対、だめだよー!」
そういえば、はてるかは時折、耳慣れない方言を挟む。浅黒く日焼けした容貌が南国っぽいと久は思った。おそらく沖縄あたり、南方の島嶼部の出身なのだろう。
はてるかの忖度無用の一言で、怪獣ドシラは「わかったわかった」と頭をかいて観念し、スマホを腕の中にしまった。「今の話は取消し。基地に着くまで、このままでいるからな」
こよみが「ごめんなさい……」と、すまなそうにフォローした。
レディとして、心ならずも耐えがたき一線があるので、ここは我慢してね、という意味だ。
そこへ、赤倉と呼ばれる運転手が告げる。
「首都高速道路、四号線、江戸橋インターチェンジに上がります」
スクールバスは交差点を右にぐるりと転回、高架道路の昇り斜路に乗り入れる。
これまで車内に気を取られていた久は、外に注意を向けた。
自分の座席は最前列の左側で、前面は金網で仕切られ、乗降ドアのステップを隔てて、左座席の運転席だ。フロントガラス越しに景色がよく見える。
すぐに、奇妙なことに気が付いた。
ここは首都高のはずだ。なのに、左右を過ぎていく路面も側壁も、ぴかぴかに綺麗なのだ。しみついた汚れ、といったものがない。
そして随所に虎縞のフェンスに囲われて、セメントの袋や小型のミキサー、二輪の手押し車、シャベル等の工事備品が置かれ、黄色の地に黒の鶴嘴を描いた交通標識が立てられていた。さっき、骨格恐竜との戦いで、こよみが振り下ろした巨大な光の武器と同じ形だ。あれは何だろう? 危険を知らせる標識かな? と考える。そもそも久は鶴嘴という土木用具を見たことがないので無理もない。
「いい眺めだろ」と、怪獣ドシラは自慢げに言う。「戦後復興のシンボルだ。わが街“東亰”が今年のピューテック大会に備えて建設した首都高速道路。オール立体交差だぜ。まだ開通していないから、特別許可通行さ。一部工事が残っているしな」
「え? 修理してるんじゃないんですか? 老朽化が進んでボロボロだから、オリンピックまでに急いで直しているって、ネットのニュースで見たけれど」
「は?」と面食らう怪獣。「おいおい、この道は新品だぞ。できたてのほやほやだ。開通式自体が八月で、二か月後なんだぜ、それに」怪獣ドシラは口を開けて、その奥の暗がりから視線を向けていぶかしげに訊ねた。「なあ、“おりん・ぴっく”って、何なんだ?」と問いかけて、記憶を探るかのように繰り返した。「どこかで聞いたような……おりん、おりん……おりんぴっく……?」
今度は久がいぶかしげに答える番だった。
「オリンピック、知らないんですか? 今年開催される、東京のオリンピック!」




