100●間奏曲●巴里、古代神の夜⑩一八九四年六月十六日。“神の閃き”
100●間奏曲●巴里、古代神の夜⑩一八九四年六月十六日。“神の閃き”
オーロラの螺旋の下で回る二つの金属コイルの間で、空間が変質した。
飛び散る放電の火花に包まれたそこに、ねっとりとした透明な物質がにじみ出る。
水のような、ガラスのような、ゼリーのような、不思議なそれは、湯気のように軽くふるまいながら、氷のように重々しく、コイルの回転からあふれ出た。蔦のように稲妻の電撃をからめながら、大量のそれが塔の先端に吹き上げ、そしてシャワーのように降り注いでくる。
このとき、オーケストラも合唱も、いまや天に昇るほどの興奮に沸き上がり、魂の底からほとばしる情念に突き動かされて、渾身の演奏を続けていた。
塔の真下にいる二千の聴衆は総立ちで、ただ上の方を見つめていた。
ダイヤモンドの瞬きを散らしたような光の渦が現れていたのだ。
それは地上百二十メートルの第二展望デッキの床から染み出して、ねっとりとした重さをもって垂れ落ちようとしている、巨大な光の氷柱だった。光でありながら、湯気のような、水のような、ゼリーのような、あるいは溶けたガラスのような、“粘り気のある光”……
これは霊界物質だ……と、リシェは断定した。
心霊科学者として実施してきたこれまでの実験で、ごくまれにだが、本物と思われる霊媒師が真っ暗な室内に呼び出すことができた、異界の物質。それはせいぜいコップ半分程度の量であり、すぐに雲散霧消してしまったが、これと同じものだった。
そう、今、エッフェル塔の下半分の空間を満たそうとしている、超大量の謎の物質と同じものだ……
“かくて天使たちは、神の御前に立つ!”
合唱が続く。ありったけの声量で、肺活量のかぎりに謳い上げるその詞は……
“……vor Gott!”
歌の声がふっと途切れたとき、人々は見た。
天使が、そこにいた。
短い沈黙のなか、人の形に似たそれは、光の翼を広げ、まぶしく輝いていた。
色彩は感じられず、ただ、明るいとしか言いようがない。
それは八体現れていて、エッフェル塔の第一展望デッキと第二展望デッキの間、地上百メートル近くの空間に浮かび、等間隔に並んで輪をつくり、八つの方角を示しているように見えた。
天使たちは無言だったが、その姿の美しさは、人々の魂を一瞬で吸い取るかのような、恐るべき魅力を発散していた。
この鉄と光の大伽藍に、きらきらと羽ばたき、ゆるやかに回る神々の使徒。
ピエールもリシェもただ胸を打たれ、全身が鳥肌を立てていた。
いや、この場にいる二千人以上の人々はみな、そうだった。そして何かに導かれるかのように、指揮者ヴィルヘルム少年のタクトが震え、動き出した。
歓喜への行進が始まる、軽やかに。
今、エッフェル塔の直上には、神の国へと通じる空間の門が、直径数百メートルの金色の王冠となって開いていた。
神の住む異界のエネルギーが魔法の鱗粉となって、さらさらと天より降り注ぐ。
塔の鉄骨が雪崩を打つように帯電、磁場が沸騰する。
大気が電離し、稲妻が無音で塔をなめる。塔はセントエルモの火で巨大な聖火台となった。
“走れ、同胞よ、汝らの道を”
“揚々と勝利を目指す勇者のごとく”
熱い合唱に続く楽音に誘われるかのように、エッフェル塔をはじめパリ中のありとあらゆる電灯が、電源の有無にかかわらず、まばゆく輝いた。
輝くのは電灯だけではなかった。街中のガス燈が、路側の鉄柵が、下水溝の蓋が、銅像が、金属板で葺いた屋根板や雨樋が、そして教会の尖塔の十字架や風見鶏が、たちまち帯電して青い炎をともし、夕暮れよりも明るく、街を染め上げていく。
鐘の音がパリ全域で鳴り始めた。見渡す限りの教会の鐘が帯電し、燃えるように輝きながら、不可思議な電磁場と重力に揺さぶられているのだ。
幾千の鐘の音が、波ざわめくセーヌ河を越えて、荘厳な光の都に響き渡ってゆく。
神々しい鐘の音は、エッフェル塔の半円形劇場にもこだましていた。
人々の心から一切の迷いが消えた。だれもが信じた。
神は実在する。
神はそこにおわすのだ。すぐそこに。私たちがその気になれば握手することもできる、ごく間近におられるのだ……。
“フロイデ、うるわしき神の閃き、桃源郷に生まれし乙女よ!”
大合唱。天国の扉が開く。
エクトプラズムの霧の中を、八天使が舞い、躍る。鉄骨の伽藍を旋回し、くるくると宙返りし、中央の吹き抜けで上昇と下降を繰り返す。
そのきらめきが渦を巻き、小さな竜巻となって……
ピエールの前に光の柱が立った。“七輪紋”のまさにその上に。
“ともに抱き合おう、限りなき人々よ!”
光の柱は大きく、高く、膨れ上がる。それは霊界物質でできた、ゆらゆらとうごめく光の群体。
ピエールは悟った。神々の降臨に成功したのだ。
“同胞よ、星満つる天蓋の彼方に、愛する主が鎮まり給う”
塔の頂上では、とうとう屋内に避難せず、制御卓を守り抜いたテスラとルアベルト少年が、いいようのない幸福感に浸りながら、ステラコイルをながめていた。
霊界物質の輝く粉が、二人の身体をすり抜けて、滝のように足下へ流れ落ちていく。心身がすべての穢れを洗い落として、この世に生まれたときの、清らかな魂に立ち返るような……
“創造主を感じるか、世界よ?”
“星天を超えて、主を探し求めよ!”
“星々の尽きるところ、必ずまみえるであろう”
地上のステージでは、合唱が声量を落とし、しめやかな音のさざ波に変わる。
ピエールが両腕を天に差し伸べ、訪れるものを迎える。
ステラコイルの力で、ついに神々が実体化する。
ピエールの脳に、思考のかけらが瞬いた。それは天使の囁きか。
今がそうだ。ことばを発してもよいときだ……と。
八天使を従えて燦然と輝く光の群体に、ピエールは呼びかけた。
「ここは万神殿……、われら歓喜もて神々の閃きを迎える!」
煌めく群体は反応した。ぐるりと身をよじって、円形劇場の全体に、光の粉を発散させた。
吹雪となって舞う光の霧の中に、その姿がぼんやりと現れる。
それは身体の一部に真っ赤な炎を纏った、銀色の巨人に見えた。
ああ、神よ、神よ! ……と、ピエールは声なき声で叫んでいた。
ただ、限りないよろこびこそが、全身を貫いていた。
そして、素朴な驚きも。
意外だったのだ。今、眼前にそびえる光の巨人の幻想的なイメージが。
……どうして、どうして、神は、僕が思っていた通りのお姿で顕現なさったのだ?
しかし、同じ驚きに身を震わせている者は、ほかにもいた。
地上六十メートルの第一展望デッキでは、生暖かい霊界物質の風に黒いドレスをはためかすマリア・スクロドフスカとピュリー青年が互いの背に腕を回して支え合い、ただ感動に震えて、ガラス管でできた特大パイプオルガンというべき測定機器を見つめていた。
マリアの目には涙が浮かんでいた。エクトプラズムを混ぜ込んでガラス管を通過してゆく大気は、ガラス管のいくつかの部分に封じられたガスに反応し、青白く、あるいは緑がかった透明な色に、くっきりと蛍光していたのだ。
同じデッキの反対側では、リュミエール兄弟が興奮のあまり鼻息も荒く、ムービーカメラを回していた。人生でただ一度でも、この被写体を撮影できる幸運に恵まれたカメラマンは、ほかにいるだろうか。
その目の前の空中は、天使たちのダンスフロアとなっていたのだ。
合唱が高まった。
“フロイデ、うるわしき桃源郷の乙女よ”
“あなたの優しき翼のもと、人はみな同胞となる”
ヴィルヘルム少年が、狂ったようにタクトを振る。その先端は青白い火花を引いている。
ステージからオーケストラピットへと、たちこめた霊界物質をすさまじい速さで切り裂き、激しい電位差を生んでいるのだ。
オーケストラの楽器も霊界物質の洗礼を受けて、光り始める。
半円形劇場にたゆたうエクトプラズムの霧が、音楽の調べに合わせて流れ、波打ち、泡立った。光の洪水。演奏も合唱も途中でやめる者はいない。
この輝きは、神の恵み、神の恩寵だ。
客席の聴衆もひとりでに讃歌に加わっていた。
歌詞を知らない者も、いつのまにか声を上げて、わけのわからない言葉で歌っていた。
それでも意味はだれもが理解していた。
歌詞はドイツ語のはずだった。
しかし、今ここで、歌っている言葉がドイツ語なのか、人類の理解を超えた未知の共通言語なのか、あとで明確に思い出せる者はいなかった。
覚えていたのは、みな、同じ言葉を知っていた、ということだけだ。
“あなたの優しき翼のもと、人はみな同胞となる”
このとき、舞台袖でストップウォッチを握っていた音楽家のフォーレは、床を踏みしめて歌いながら、電撃的な霊感に打たれていた。
かの昔、バベルの塔が崩れ去る以前、人類の言語はひとつだったではないか……と。
いったん緩やかになった音楽が、助走をつけて、全力で疾走する。
天に向かって。
“ともに抱き合おう”
“限りなき人々よ!”
“このくちづけを”
“すべての世界に!”
“フロイデ、うるわしき神の閃き……”
“桃源郷の乙女よ!”
“フロイデ、うるわしき神の閃き……”
歌唱も楽音も壮絶なカオスとなり、いまや疾風と怒涛だった。
この場にいるすべての人々の魂を巻き込む思念の嵐が、爆発する。
“神の閃きよ!”
人々は歓喜のるつぼにあった。拍手する者、手を振り回す者、身体をゆすり、踊り出す者……神を賛美し,喝采する声が大きなうねりとなって、聖なる劇場に渦巻く。
ピエールは理解した。
若き日のワーグナーが作曲した第一の曲は、人の感情を“進む”“呼ぶ”“昇る”というベクトルへ誘導した。
そして第二の曲、ベートーヴェンの交響曲九番の第四楽章は、“祈り”“迎え”“歓び”の感情ベクトルを含んでいた。
つまり、第一の曲はわれわれ人類の精神を、天の神々に向かって持ち上げる、上りのエレベータなのだ。
そして第二の曲は、天の神々を地上へといざなう、下りのエレベータだ。
今、上りと下りのエレベータが出会った。ということは、これから奏でられる第三の曲……“光神曲”の感情ベクトルは、“昇華”“合一”“涅槃”といったところじゃないか?
第三の曲の役割は、一つの場所に出会った神と人を結んで、語り合わせる曲なのだ。
だから、タイトルは“光神曲”……ベートーヴェンの第九の合唱の最後のフレーズを受けて、同じタイトルがつけられているのだろう。
第三の曲、“光神曲”の序奏が始まった。
フォーレはストップウォッチの釦を押し、思った。
……さあ、モーツァルトが『魔笛』で着手し、ベートーヴェンが苦悩の果てに到達した『第九』。その“神に至る調べ”を着想の源として、ワーグナーが自らの若き日の作品から抽出したエッセンスで編んだ秘曲『光神曲』よ。ピエールの言葉を神々の懐へ届けてくれたまえ……。
かたや、リシェ教授はステージにひざまづいた。顔を上げ、神へ、挨拶の言葉を送る。
「神よ、万古不易の真理をまとい、われら人類の上主たる神よ。われらが“大回帰”へようこそ。彼方よりのご降臨に、われらは伏して感謝いたすのみ。許されるならば今宵、われら人類を代表して、ここに控えし一人のしもべに、おんみと語り、おんみに聞き、おんみのことばを預かる使命を為させたまえ。そは、この者……」
リシェは立ち上がり、ピエールを紹介するかのように手を広げ、ステージから後ずさりながら、その名を神に告げた。
「エッシェンバッハ男爵ピエール・ド・ホーロット!」
*
この“大回帰”と名付けられた“神寄せ”の儀式は公式の記録に一切残されることなく、その夜、その場に居合わせた人々の記憶にのみ留まることとなった。
人間の記憶は、じつはかなり曖昧で、ほんの数分前の出来事でも、意外と正確には思い出せないものだ。
写真にせよ文書にせよ、信頼できる公式記録を欠いた事件は、そもそも実際に起こったのかどうか、それすらも模糊としてしまう。
その夜、エッフェル塔に現れた光輝く不思議な事象が、ナダールの写真とリュミエール兄弟の映画フィルムに視覚的な痕跡を残したかどうか、その結果を知るよしもない。
“大回帰”の全貌は、数週間で人々の記憶から消え去ってしまった。
いや、隠された、と言うべきであろう。
ただ、儀式の首謀者であるリシェ教授とその“組織”の中に口述で伝えられたのみである。
なぜ一般に情報公開せず、極秘の儀式としたのか、その理由も定かでないが、仮に公開しても、はるか古代の忌むべき異教の神々の招喚なのだから、まず大衆は心情的に反発するか、むしろ信じたくない者が多かったのではないだろうか。
ともあれその夜、霊界物質の金色の光の吹雪が乱舞する半円形劇場で、古代の神々と半ば同化して、その憑依に陶酔するエッシェンバッハ男爵ピエール・ド・ホーロット……世に言うピエール・エッシェンバッハ男爵は、神々のことばを代弁して、「古き世の神々は万神一致してピューテックを讃える!」と宣言し、ここにめでたく、降臨した古代の神々が、古代ピューテックの復活を了承し、その未来に祝福を授けたと伝聞される。
このとき神々の憑代となったピエールを介して、人類は神々との間に、ひとつの契約をなした。
……新たに近代ピューテックを開催するたび、その開会前夜までに、古代の神々を平和なる地上へ召喚し、今宵のように祝福を受けること。
人類に異論などあるはずがない。
その場のあらゆる人々が、神々の栄光の前にひざまづき、心から敬服して厳かに誓ったのだった。
四年ごとの地上の平和と、古き神々の招聘を。
この夜より、ピューテックは“神に禁じられた異教の祭祀”ではなくなった。
その証拠に……
二年後、ギリシャ王国の首都アテネにて第一回近代ピューテック挙行さる。
続いて十九世紀最後の年、西暦一九〇〇年、第二回近代ピューテックとして、パリ大会が盛大に開催された。
そして世紀を越えて、“ピエール・エッシェンバッハ男爵”の名が、世界史にくっきりと刻まれたことは、誰一人疑うことのない事実である。
“近代ピューテックの父”として……