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魔法自衛隊1964  作者: 秋山 完
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099●間奏曲●巴里、古代神の夜⑨一八九四年六月十六日。“光、降臨”

099●間奏曲●巴里、古代神の夜⑨一八九四年六月十六日。“光、降臨”



 巨大なオーケストラを前にしても、ヴィルヘルム少年はまったく落ち着いていて、大人よりも堂々として見えた。

 恐れも虚栄も、欲も卑下もない、自然体そのものの指揮者ディリゲントだ。

 少年が振るタクトは、まさに魔法の杖だった。じつは、振り始める前からかすかに震えていたので、菅が、弦が、打楽器が、音の出だしに戸惑った、最初の一瞬は不揃いだった。

 にもかかわらず、雪の上を橇が滑り出すように曲が進み始め、たちまち格調高い楽音に纏められていくのだった。混乱するかのようで、なぜか破綻しない。不協和のはずなのに、なぜか心地よい、そんな、不思議な演奏が聴衆を巻き込んでいく。

 数週間前、フォーレ師がヴィルヘルム少年を指揮者に推挙したことをリシェ教授に伝える場に、ピエールは居合わせたことがある。

 フォーレはこう言ったのだ。

「あの少年は、曲のすべてを見通す第三の眼を持っている。目だけではない、第三の耳もだよ。視覚や聴覚といった五感を超えた、総合的な、ある種の霊感だ。リシェ教授が“第六感覚野”と呼ぶ魔法の脳器官かもしれんな。あの子はタクトを振り始めた瞬間に、その曲がどのように展開し、どのように帰結すべきかを最後まで悟って、音を紡ぎ出しているのだ。聴衆は、その曲が始まって間もないのに、終わるときの感動を予感させられる。このとき聴衆が聞く音楽ムジークは単なる音ではなく、芸術の女神ムーサの化身だ。人はムーサに魅せられ、恍惚とした期待に最後まで酔わされる。終曲コーダの最高の瞬間まで、聴衆の心を音楽に粘着させる、最上の蜂蜜のような、ねっとりとした香気あふれる指揮っぷりなのだ。気に入った。これなら、“光神曲ゲッターフンケン”を振りこなすことができるだろう」

 エッフェル塔の真下で演奏される曲の詳細は秘密にされていた。

 ピエールですら、曲目が三つあること、最初の曲は十一年前に亡くなったリヒャルト・ワーグナーが二十代半ばに書き上げたものであること、二番目の曲はベートーヴェンが晩年に完成したライフワークであること、そして三番目の曲は、ワーグナーが作曲もしくは編曲したとされるが、出自が明らかでない楽曲で、“光神曲ゲッターフンケン”と呼ばれていること、その程度しか知らされていない。

 最初の曲は、初めて聴く人が大多数だった。

 その冒頭で耳を満たすのは虚無のしじま。

 やがて管と弦が交互に、ひそやかな始まりを知らせていく。

 無の世界から生まれ出たそれは、不安の中に、勇気ある一歩を踏み出す。

 繰り返す弦の響き。無限に旋転しつつ、上昇する。空へ、はるかな雲へ。

 未知なる道を開き、輝く希望を求めて、しっかりと昇る。

 ピエールの身体が、心が、熱くなる。そうだ、これは魂の前進なのだ。

 ピエールは、ほぼ半世紀前、この曲を一心不乱に譜面に書き起こすワーグナーを思い浮かべようとした。

 当時、ワーグナーは二十代、今の僕よりも年下だ、とピエールは驚く。心の中で羨望する。なんという力強さ。なんという信念。

 魂の歩みは早まり、やがて走りだし、ひたすらにおもてを上げて、進む。

 楽想が変わり、進みゆく魂は呼びかける。

 苦難を超えて星のもとへ……ペル・アスペラ・アド・アストラ! 

 前進する魂は幾千幾万と集まり、雲海の踊り場を踏み台に、さえぎるもののない空へ跳ぶ。

 星々の煌びやかな光を浴びながら、天に向かって階段を駆け上がる。

 ピエールの魂は震える。ワーグナーはこの曲に、焼けた鉄のように熱くたぎる情念を、ありったけ投げ入れた違いない。若さのまま、走り、跳び、ひたすら進み、足にまといつく雑念を踏み分け掻き分け突破していく。壮麗なマーチに爆発するパーカッション。

 これは精神の竜巻だ。竜巻が巻いて巻いて巻きあがって、一直線に、天へ……

 そして……光の扉が雲上に姿を見せる。

 聴き始めて十分あまりで第一の曲は終わったが、音は途切れなかった。

 炸裂するドラムと管楽器の雄叫びが、魂を揺さぶる。

 第一の曲の終末部に第二の曲の冒頭部が連結されていたのだ。

 そのまま楽音の飛沫は遮るもののない急流となり、怒涛へと変貌し、つながった一つの曲のように、次なる楽想へとなだれ込む。

 このとき、エッフェル塔の頂では、オリハルコンのレンズメダルが発する脈動を電気的に増幅して、二重のステラコイルが狂ったように回転していた。

 二重反転プロペラ状のステラコイルがスレスレの隙間を残してすれ違うとき、二枚のコイルの間に不思議な空間の歪みが現れ、脈動する光の粒がほとばしる。のち、二十一世紀には“拡大カシミール効果”と呼ばれることになる、“あの世”からの零点エネルギー放出現象だ。

 進み、戻り、ねじれ、同調し、反転し、そのたびに上下二つのコイルの間には火花が走り、弾け、飛び散って、不可思議な電磁波のパルスを夜の闇に吐き出す。

 スピーカーから流れる下界の演奏に合わせてコイルの回転を調整するテスラは、ついにその耳に、求めていた音をとらえ始めた。

 ガリガリ、キリキリ、ザーザーと嵐のように吹き乱れていたノイズの荒波が時折、ふっと凪いで静かになる。

 その静寂の間隙に、モールス信号のトン・ツーに似た、なにか意思の含まれた囁きが立ち現れるのだ。こちらから送り出す信号と、“向こう側”すなわち“あの世”の“神界”からやってくる信号が、出会って握手する瞬間。つないだ手は離れ、また出会う。人間界と、神々の世界を隔てる結界の、固有振動に同期しつつあると、テスラは判断した。

 “キャッチした”という合図を、テスラは手を振って周囲に送った。

 同じデッキにいる助手と、数メートル下で見守るエッフェルが了解して手を振り返す。

 ノイズが消えた。神界と同調したのだ。

 ヘッドセットを装着したテスラと助手の耳に、数瞬の間、完全な無音が訪れる。

 このとき、下界の演奏もしばし安らかな沈黙に立ち止まっていた。

 そして始まる主旋律。厳かに弦が奏でるのは、“歓喜の主題”。

 ピエールは聴いたことがあった。この第二の曲は、ベートーヴェンの交響曲第九番“合唱つき”だ。

 たしかに、神を呼ぶ音楽として、これ以上ふさわしい曲があるだろうか。

 ただし、ここで演奏するのは第四楽章のみだ。ワーグナーが作曲した第一の曲に、第二の曲である“第九”の最終楽章が切れ目なくつながり、聴衆の拍手で中断することなく、シラーの詩『歓喜フロイデに寄す』へいざなわれる。

 オーケストラピットの後方を隠していた緞帳がいつのまにか開いており、ヴィルヘルム少年と楽団員の背後には、二百名は下らない大合唱団が整列していた。そしてステージの床の一部が開いて、四人のソリストが競り上がってきた。

 ヴィルヘルム少年はソリストに目で礼を送る。

 魔法のタクトがたおやかに舞い、ヴァイオリン、ヴィオラ、ファゴット、コントラバス、それら弦楽器に全ての管楽器、打楽器が加わり、朗々と“歓喜の主題”を奏で上げる。

 ピエールは全身が震えていることを知った。

 幸せな興奮。曲とともに血流が脈打ち、自分が自分ではない、なにかすばらしい何者かの一部になろうとしている……。

 歌が、始まる。最初は作曲者ベートーヴェン自身の心の叫びだ。


    “おお、友よ、このような音ではなく!”


 エッフェル塔の頂上では、ステラコイルの回転が安定した。無秩序なノイズではなく、均整の取れた法則性に則った旋転、停止、逆転が繰り返される。

 ときおり気まぐれに、回転のパターンや速度が変わる。優雅なワルツ、あるいは激しい片足旋回ピルエットのように。

 これはダンスだ、電磁波が歓喜して踊っている。なんて楽しいステップだ、まるで電子の舞踏会じゃないか……。

 そう思いつつ、テスラは驚愕の眼をステラコイルから離さない。

 Y字形とX字形の二重のコイルが回転によって生み出す電光と火花は、もはや芸術の域に達していた。渦巻き、悶え、跳ね、炸裂する電子のダンサー。二つのコイルで魅せる華麗なパ・ド・ドゥ。

 ピリピリと空間を軋ませて、コイルの放電が頭上から星空へと、花束のように広がる。

 テスラと彼の助手は髪を逆立てながら、制御卓を操作する。

 トン、と大気が震えた。音ではない音が、テスラたちの脳幹を打った。

 トン、そしてツーと、言いようのない神聖な打感が、頭蓋に反響する。

 脳のどこかの部位が、音ならぬ音を感知していることをテスラは感じ取った。

 リシェ教授から聞いていた、脳の中にある魔法の器官“第六感覚野”だ。脳のどこかが受信アンテナになっている。

 聞こえる。トン・ツー、トン・ツー……。

 電子の波動が、耳からではなく、直接、脳内に届いてくる。これは神の声か?

 歌詞はシラーの詩に移る。地上のステージから、合唱の声が昇ってくる。


    “フロイデ、そは、うるわしき神の閃き。桃源郷に生まれし乙女よ”


 空間が脈打ち、演奏のドラムに合わせて荘重な鼓動がこの世界にこだまする。

 テスラの立つデッキが震えた。磁力の荒波にさらされて、びりびりと揺れ動くエッフェル塔。

 天国の扉をノックしているのだ。

 地上の合唱も、神を求める。


    “あなたの優しき翼のもと、人はみな同胞はらからとなる”


 夜空に瞬く星々が電磁場に妖しくゆらめき、雷鳴が轟く。

 目に入る限りの星々、その光点が線になり、くにゃりと伸びた。

 見上げると月が、ゆがんだ光のリングに変わっている。

 月光は七色に分かれ、渦巻状の虹が塔のまわりにかかっている。

 テスラたちは、それを見た。

 回転するステラコイルの直上、夜空の闇から滑り出すかのように、油膜のように七色に輝く光の帯が降りて来たのだ。

 それはたちまち星々の瞬きを巻き込んで、華麗なオーロラに成長した。

 繊維のかわりに荷電粒子で編んだ織物だ。

 その形は……螺旋形。ドリルのように見えるが、先端に向けてとがっていない、アルキメデスの螺旋……アルキメディアン・スクリュー……と称される形である。

 ゆっくりと回るその姿を見て、テスラは悟った。

 あれは、コルクスクリューの如く空間を穿孔し、未知のエネルギーを光に変換して、こちらの世界へ“汲み降ろす”仕組みなのだ。

 テスラは戦慄した。

 扉が開く。何者かが、異界の扉を向こう側から開けようとしている。

 足下の感覚がおかしくなった。立っているのか、浮いているのか、落ちているのか。

 聴覚はすでに、心臓の鼓動に似た不連続なトン・ツーの嵐が、地上の合唱とともに脳内にこだまし、人の声が聞き取りにくい。

 テスラは、用意していたチェス盤ほどの大きさの黒い石板に、石筆で走り書きした。

『重力が変化す』

 見せられた助手とエッフェルが、緊張の中でうなずく。

 助手はまだ十五歳の少年だったが、しっかりとした筆跡で、自分の石板に書いて、テスラに見せた。

『光、重力により曲がる』

 わかった、とテスラは手で合図した。続いて『ここは危険。下へ避難せよ』と板書する。

 制御卓を放棄して持ち場を離れるのは辛いが、やむを得ない。

 エッフェルは了解して、塔頂別荘の屋内へ通じるタラップを降り始める。

 しかし助手の少年は無視していた。制御卓で振れ続ける計器と、手を伸ばせば届くほど近い空中でとろけるように曲がる光の乱舞を、興味津々でながめている。

 ここは、絢爛たる光の花びらの中だ。

 恐れを知らない少年の耳に、合唱の声が届く。


    “善きもの悪しきもの、すべて薔薇の道を辿りゆく”


 テスラはあせった。ここにいる者が着ている、つなぎ服も靴も手袋も、皮かゴム製で金属部品を使わず、可能な限り感電を防いでいる。

 しかし、この有能な助手はまだギムナジウムの学生であり、アルバイトの身分だ。生命の危険にさらすわけにはいかない。

 テスラは怒鳴った。

「ルアベルト君、降りたまえ!」

 しかし少年助手は無視した。テスラはもう一度叫んだ。

「聞こえないのか、ルアベルト・イアンシュタイン! 降りるんだ!」

 二人の頭の上で、人間界と神の世界を隔てる結界がゆらぎ、またゆらいで、ついに破れる。




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