第二章 一話
1
浩士は目を覚ます。
微睡む意識が漸く焦点を定め始め天井を認識する。
そしてやはり夢などではなく此処が紛れもない現実なのだと思い知る。
「…はぁ……どうしてこんなことになったのか……。」
白旗を上げ捕虜となった日から数日が経った。
目を覚ましてみても此処はやはり異世界で、本来居る筈の無い軍隊の兵舎なのだ。
異常な現実に絶望しつつも漸く状況を整理することが出来るようになってきた。
そこまで思い出したところで左腕の鈍痛が蘇った。
「あいつホントにヘシ折る気だったんだな…」
浩士は痛む腕をさすりながら此処に至ったいきさつを思い返していた…
覚醒は冷水を浴びさせられると同時であった。
直後に頭部と左腕に鈍い痛みが走る、脳内毒の効力が切れたのだ。
現代っ子である浩士は、平和な国日本で喧嘩による怪我等とは無縁であった。
恐らくは初めての経験である暴力による負傷。
痛みは容赦なく浩士の心を削り恐怖を最大限にまで高めていた。
極限の混乱に言葉など出てくる訳もなく、阿呆の子に様に惚けた表情で周囲を見回している。
天幕、簡易的な寝具、黴とも汗ともつかない饐えた臭気。
数名の九八式や一三式の軍衣を纏う者達の姿。
緊急に行われた逃避の名残りであろうか、装備品類はあまり統一されていない。
内一名の兵に身体を起こされる。
拘束目的ではなく介抱されているようである。
厳しい軍人の外見的イメージとは違い思い遣りを感じる手付きだ。
しかし袖を捲り上げた腕は、歴戦の兵士然とした鋼を彷彿させるものであり、新旧かなりの数の瘡が見られた。
「…あ、あの〜…。」
恐る恐る声をかけてみる。
が、眼前の兵達は手で征しただけで何も語らない。
重要参考人である浩士に対しての発言を許可されていないのだろう。
すると天幕の外で軍靴の音。
「はっ!尋問の準備は整っております。」
「御苦労。」
別の男の声が続いた。
天幕の入口を歩哨が開き、白色詰襟の海軍と思しき人物が入室してきた。
浩士を囲む兵達が詰襟の人物に向かい敬礼する。
詰襟も簡単に海軍式の脇を締めた敬礼で応える。
「報告します。第4地点で保護した所属不明東洋人、身体検査完了しております。」
「装備品として、現地人由来と思しき槍、何かの機械部品と思しき鉄製円盤、此方は防具と推測されます。」
「装束として米国調の洋服、日本語で綿100%との表記、英文字で製造元の表記あり。」
「所持品として林檎意匠の印のある硝子と素材不明の手鏡。此方は用途不明でありますが、爆発物ではないようであります。」
脇にある机の上に浩士の所持していた物品が整然と並べられている。
「ふむ、面妖な。意識は戻っておるのかね?」
詰襟は訝しげな表情で物品を眺めながら問いかける。
「はっ!保護の際に茂木伍長の一撃にて意識を失っておりましたが、先刻意識回復したところであります。」
「指令通りに当人からの情報引き出しは控えております故、現情報は以上であります。」
そこまで聞いたところで詰襟は兵士を一瞥し告げた。
「御苦労。では下がれ。尋問は我々海軍が行おう。」
高圧的な態度で命令する。
これには兵士も気を害したのか、
「中尉殿、御言葉ではありますがこの者を保護したのは我々陸軍であります。」
「当戦線での司令官は中尉殿でありますが、我々陸軍と致しましても上官への報告義務が御座います。」
「ふむ、貴様は飲み込みが悪いようだ。」
詰襟はせせら笑い、眼前の兵を小突いた。
「脳みそまで筋肉で出来ている野蛮な陸軍ではマトモな聴取など出来ないから、我々海軍がわざわざ聴取に出向いてやったのだよ。」
180cmの比較的高い身長は、見下しながら嫌味を述べるのに都合が良かった。
「…っな!?」
兵士も流石に引き下がれんとばかりに身構えた。
「ほう、どうするのかね?」
「当戦線を預かる官として、上官抗弁で処分することも出来るのだよ?」
「軍曹殿?」
「理解出来たのならば早く退室したまえ。」
詰襟は手をヒラヒラと出入り口へと促して見せる。
「……はっ…出過ぎた発言…で…ありました…。」
軍曹は部下達に目配せし退室する。
その肩は怒りのあまり小刻みに震えていた。
(うわぁ…軍人さんもサラリーマンみたく色々あるんだな…
などと浩士は場違いな事を考えていた。
直後詰襟の中尉の眼光は浩士へと向けられた。
先刻ブラック企業の嫌な上司のような皮肉を垂れていた人物であるが、その眼光の鋭さはやはり帝国軍人然としており
浩士は鋭利な刀を突きつけられたかの如く戦慄した。
「さて…」
そう言って直後中尉は表情を弛緩させた。
優しげな中年男性の表情がそこにあったが、浩士の緊張感は解けない。
浩士は気付いていた。
眼前で笑みを湛える人物の眼はキラキラと煌めいている。
完全に瞳孔が開ききっているのだ。
獲物を見据える獣のそれである。
狂人の眼がそうしたものである知識はあったが、実際に見るのは初めてだ。
相対した帝国海軍中尉はフィクションのキャラクターではない。
念の力で頭部を中心に猛烈な急成長を遂げる狂少年や
曖昧な様子で種を求め徘徊する老いた剣鬼などではない。
が、浩士は思う。
(絶対クラス狂戦士だよねこの人…。)
星の数は如何程かなどと無関係な方向に浩士が思考を泳がせている内に、中尉の表情が変化した。
「君は何処の、誰だね?英語を多少解していると陸の者からは聞いているがそれは本当かね?」
好奇心に満ちた子供のそれに近い表情であるがこの質問の意味は字面通りのものではない。
「見たところ東南亜や南洋の民族の顔立ちというわけでもないようだが?」
この将校は此処が別世界ではなくなにがしかの理由で通信が立たれた未開地であると信じたいのだ。
穏やかな口調ではあるが、それ故のギャップにより不発弾の様な不気味さが強調されている。
如何に浩士が凡弱な少年であれ本能が眼前の脅威を告げる。
一つ間違えれば即座に処遇が決定されるであろう問答である。
浩士は拙いながらも言葉を選び答える。
「は、はい!自分は鋼城…。」
「鋼城 浩士と言う者です!!」
「えぇと、鋼の城のカネシロに三水に告げるに武士の士と書いてヒロシと読みます…。」
「ふむ…、鋼城君だね。続けたまえ…。」
中尉は笑顔を崩さず言葉を促す。
まるで面のように貼り付けた笑顔が更に恐怖を煽る。
浩士は何をどう話せば良いのか判らず、取り敢えず中尉の言葉通りに答えることに専念する。
「…はい…、えと、えぇ、日本の普通の東京の高校生です…。」
「英語ですよね…、英語はえぇと…、苦手です、はい…。」
「…英語と言うか…、全体的に勉強苦手っすかね…。…進学校でもありませんし…。」
「日本人か、ふむ、確かに我々と同じ言語を話すようだ。」
「しかし…、君の言う『コウコウセイ』とはどう言ったものかね?」
浩士は中尉の質問の意味がよく解らない。
「はぁ…?あの…普通に高校に通ってる学生ですよ…?」
※浩士は都立高校の生徒であった。
「ふむ、高等学校尋常科のことかな?そこの学徒であると?」
※東京高等学校尋常科とは現在の東京大学教育学部附属中等教育学校のこと。
「へ?尋常科…っすか?…ウチは都立の普通科ですけど?…ガ…クト…?」
(全身義体のミュージシャンか?)
互いに疑問符が付いた状態であるが、詳細は後ほどとせねば埒があかないと判断し中尉は続ける。
「まぁ良い。その歳格好だ、何処なりの学校関係であろう。」
「Hiroshi...,what is your purpose? Why did you come here for?」
(浩士、貴様の目的は何だ?何故此処にいる?)
中尉は表情を崩さずに浩士を注視する。
「ホワッ??え?…何です?」
浩士は英語能力皆無であり、中尉の言葉を理解出来ていない。
「さては貴様、落第したな?」
ため息と共に中尉はそう呻いた、掛けた鎌が見事に首を刎ねたのだ。
浩士は全力で動揺した、前回の定期考査で赤点だった事を思い出したのだ。
「いやいやいやいや!!何とか留年は回避しましたし!!」
中尉は英語を話すとの前情報から英米諜報の息のかかった追手を危惧していた訳だが。
その線は……
消えた……
何も英語レベルを見ていた訳ではない。
仮にスパイであったとして、恐らくはとぼけるであろう。
質問の意味を理解していたのであれば動揺を隠そうとする。
この場合、この状況下で、唐突に英語の問いを投げかけられて。
冷静な態度であったならば、それは不自然なものであると。
つまりは英米協力者説が濃くなるということだ。
が、浩士は違った意味で激しく動揺し、見事に期待を裏切った。
これには流石のキ○ガイ中尉も苦笑いである。
(…うぅむ、ただの阿呆なのか…)
この期待とは敵スパイを燻り出し自分達の窮地を救うと言う英雄願望ではない。
『あの夜』より十年余り、この未開の土地を攻め落とす。
そこへ鬼畜米英の横槍が入る。
この構図が二次大戦の記憶を想起させる。
『また戦争が出来る』と言う度し難い期待、それでいてこの中尉の正気を保つただ一つ残った琴線なのだ。
会話に間が出来たことにより浩士も出会ってから疑問に思っていたことを口にした。
「…あのぅ…、えと、あなた達って軍隊の人達ですよね?…自衛隊じゃなくて?」
「教科書で見た旧日本軍の軍服っすよね?…コスプレ?て訳でもなさそうですし…。」
中尉の笑みが消えた。
先刻までの弛緩した物腰ではなく、張り詰めた弦を想起させる空気である。
「……貴様…、今何と言った…?」
「『旧』と言ったな?旧とは亡き者を指す言葉であるが…。」
「帝国海軍中尉である私の前で、『旧』とは一体どういう意味かね…?」
(うぅむ…コスプレって何だ?)
「へぁっ!?」
浩士は中尉の態度から地雷を踏んでしまったことを認識した。
「えぇと、何と言いますか、海上自衛隊の方?」
「何かの行事で?…て訳でも…??…ありませんよね?」
顔色を伺いつつ言葉を続けてみる。
「海上自衛隊とは何だ?どう言った隊だ?」
中尉は表情を崩さず問うが、心中穏やかではないことは明らかである。
「えと、海上自衛隊っすよね。…確か戦後海軍から結成されてたはずなんすけど…。」
浩士の回答を聞き、中尉の顔面は徐々に紅潮し始めている。
「…戦後…だと…?…確かに我が軍は劣勢であった…。」
「…が!戦闘に敗北したとて…、…何故に!?何故に海軍が無くなる!?」
「米英どもとの条約を進める上でも我々軍は不可欠であろう!!」
「我々軍が居らねば不利な条件を押し付けられる!!」
「それは彼奴等の植民地奴隷に成り下がることを意味するのだぞ!?」
怒りを露わに早口で捲し立てる。
ここで浩士はふと疑念を抱く。
「あのぅ…、自分は歴史詳しくないんですけどね?」
「条約?の内容とかは知らないですけど何年前の話をしてるんですか?」
「世界大戦とか産まれる何十年も前のこと聞かれてもピンとこないですよ…。」
「軍が無いのだって当たり前じゃないですか?敗戦国で戦争放棄してるんすから…。」
ここまでの会話がどこか噛み合っていない。
まるで目の前の人物の時間が戦争末期で止まっているかのように。
西暦2017年の現代においては眼前の人物の言動はパラノイアのそれである。
目の前の中年男性が旧日本軍を自称している。
生きていたとしても、少なくとも90歳を超えているはずなのである。
魔術により召喚された浩士は少なくとも目の前の軍人よりは超常的な状況を飲み込むことが出来ている。
浩士の抱いた疑念とはつまりは時間軸自体が違う世界の人間だということだった。