73 とある屋敷にて(5)価値と価値観
屋敷に連れられて来て十八日目。
「たいへんすてきな服ですね。気に入りました」
ウルは運ばれてきた何着もの白い色の普段着やドレスを手に取って確かめながら、女中にお礼を言った。
欲しいものを頼むと、すぐに信者たちは手配をしてくれた。
信者たちのローブと比べてやや上品なシルクに似た白だったが、緊急事態ならごまかせるだろうし、色が少し違ったところで気になるものでもない。
傍らにいたガーレを見ると、ガーレもこちらを見上げながら小さくうなずいた。
どうやら仕立て直しは可能のようだ。
「そうですか。よかった……」
女中はほっとしたようにつぶやいた。
そういえば、この女性とはほとんど会話をしたことがなかった。
「レーシ……ウル様?」
「どちらでも呼びやすい言い方でどうぞ」
「ではレーシィ様、最初はどれにいたしましょうか?」
女中が続けて質問したので、
「どれ、とは?」
ウルは聞き返した。
女中は首をかしげる。
「あの、服をお召しになるのではないのですか?」
「ああ、そういう……」
たしかにすぐにクローゼットにしまっては、何のために頼んだのか怪しまれる。
ウルは適当に試着する服を選ぶと、女中がウルの服を脱がしていく。
着替えを手伝ってもらうというのは最初は慣れなかったが、今となっては特に何も感じなくなっていた。
「こういった物がお好きなのですね」
「はい。いい服など今まで着たことがなかったもので……」
「ほかの信者たちから聞きました。シリンの討伐にご活躍されたそうですね」
「ええ、まあ」
皮肉なのかどうなのかウルには図りかねたので、適当に相槌を返した。
すると、女中は少し興奮したように返す。
「私、感動しました。捕らえることはまかりならなかったが、犠牲になる信者たちを守るように最前線で、最も勇敢に戦ったと聞いたときは!」
「それは、どうも」
「来られた当初は何かここがお気に召さなかったようですが、私の気のせいだったのですね」
ただの監視役というだけで、重要なことは知らされていないのだろうか。
「私にできることがあったら言ってください。レーシィ様のお世話ができるなんて、私幸せなんです」
「では、いずれ逃げ出すのでその日がきたら手伝ってくれますか?」
「えっ?」
女中の顔がこわばった。
「どうです?」
「えっと……それは……」
「冗談です」
反応を見るためにあえて言ってみたが、やはり次の定例集会までに彼女を仲間に取り込むのは無理そうだ。
言ったところで、ドレスの着付けは終わった。
「大変お似合いです、レーシィ様」
本当にこんな上等な服は着たことがなかった。
ウルは肌触りのいいスカートのすそを摘まんでみた。おそらくここにいなければ、愚臣の偶像をしていなければ、一生着られなかっただろう白いドレス。
花を模した髪飾りもとてもきれいだ。
鏡で自分の姿を眺めていると、ドアがノックされ、雷侯が入ってきた。
「失礼します、ウル様」
「雷侯……」
なんの用だろう。今まではこんな時間に立ち入ったことはなかったのに。
「少し席をはずせ」
「は、はい」
雷侯は女中に命令すると、部屋の外に下がらせた。
それから一つ深い息をついて口を開いた。
「ウル様。昨日は本当に余計なことをしてくれました。想定外すぎて驚きましたよ。せっかくシリンを精霊兵器として取り込もうと思っていたのに」
説教をするために来たのだろうか。ウルは少し警戒しながら様子を見る。
「しかしなぜですウル様?」
「なぜとは?」
「――とぼけるな」
がり、がり、と何かをひっかくような音が聞こえた。
見ると、雷侯はこちらをにらみながら、右の義手に生えている黒い鱗をかきむしっていた。左手の、黄色い羽毛がところどころ生えた気味の悪い義手の指で。
「なぜ楯突こうとする?」
「…………」
「誰にも必要とされていないはずだ。むしろその目のおかげで今まで疎まれてきたはず。ここでこうしていたほうがずっと平和で不自由がない。ちゃんとした食事も出るし欲しいものは手に入るし信者が安全を守ってくれている。じつに快適な生活のはずだ。不満がどこにある?」
「私は……」
帰らなければいけない。
言いかけて、少し躊躇した。
ここでそれを言っていいものか迷ったからだった。
「ご主人様が帰りを待っている、か?」
雷侯がすかさず、ウルの心を代弁するように言葉を挟む。
「おめでたいな。本当に帰りを待っているとでも思っているのか?」
「え……」
「お前はただの奴隷だろう。使えなくなったらまた新しいのを買えばいいだけのことだ」
「…………」
「自分の存在を思い出してみろ。人として今まで扱われてきたのか? 外じゃ、お前は個人の自由がない奴隷だろうが。ただ命令に従うだけの道具だ」
ウルは反論できずに、無言になってうつむいた。
そうだ。確かにそうしてきた。命令には黙って従う。文句は言わない。そうしないと生きていけなかった。
がり、がり、がり、と固いものをかきむしる音が聞こえる。
「ここに来てもう何日目になると思ってる? 十八日だ。お前のご主人様も今頃お前を諦めて新しいのを買っている。そういうものだ。どこにいるかもわからないお前などを助けるために多大な労力を使うはずがない。うぬぼれるな。思い上がるな。お前のことなんて誰も考えちゃいないし、誰も心配なんてしていない。どこでどうのたれ死のうが、誰も気にしない」
雷侯が一歩近づいてきて、ウルは後ずさった。
背に鏡が当たった。壁があってこれ以上は距離をとれない。
「お前の帰りなど、誰も待っていない」
壁に手をつき一際顔を近づけ、雷侯はウルに言い聞かせるように囁いた。
手首にはまったままになっている手枷の鉄の感触が、その冷たさが一層肌に伝わってきた気がした。
それきりウルから離れ、雷侯はうやうやしく頭を下げる。いつもの慇懃な調子に戻っていた。
「おわかりになりましたら、どうかくれぐれもここで大人しく優雅な生活を謳歌なさいませ、レーシィ様。そして、もう二度とシリンのときのような無謀なことはせぬようお願いいたします。その方が、あなたの幸せのためかと存じます」
……雷侯が去ったあと、女中が戻っても何も言わず、いつもそうしているように部屋の隅でじっと窓の外を眺めた。
「ウルっち――なんかさ、俺もそう思うよ」
河童が、立っているウルの隣に胡坐をかいて言った。
「外に出ていつどこで何を言われるか何をされるかビクビクしてるような人生なんかさ、俺はウルっちに送ってもらいたくねえよ」
「お前まで何を言い出すんだ」
低めのよく通る声で言いながら丸太が出てきて、河童の脇をつついた。
「だってそうだろう。それでなくとも稀名のそばは常に危険が付きまとう。首狙われてんだからな。お前らだってウルっちに死んでほしくないだろ? ここで平和にヨイショされていたほうが何倍もましだ」
「そんなこと言って、お前はここで怠けて過ごしたいだけではないのか?」
「…………」
「どうなんだ?」
「それも含めての意見だ」
「いばるんじゃない」
それきり、また丸太と河童はかしましく言い合いを始める。
「私は……」
ウルが静かに言うと、河童と丸太の言い争いがぴたりと止まった。
「私、私は……」
稀名は自分のことをどう思っているのだろうか。
取るに足らない、ただの替えのきく道具だろうか。
「雷侯の言う通り、きっと、ご主人様にとって私の価値は低いのかもしれない……」
彼なら違う、と漠然と思っていた。
この国の常識が通用しないくらい遠い場所からやってきた彼なら。
しかしそれもウル自身の主観でしかない。本当のところは何もわからない。
「待っていないのだとしても、もういらないのだとしても、直接本人の口から聞きたい。それを聞くまでは、私はまだご主人様のものです」
予定に変更はない。手筈通りに。
ウルは不安そうにしている使い魔たちに告げた。
「大丈夫、次の定例集会で、私はここを出ます。大丈夫……」
自分に言い聞かせるような言い方。
彼女にしては力ない、か細い声だった。




