113 『むくつけし業火』
クーファをゆすり起こそうとするけれど、俺の非力な手が押したところで竜の体はびくともしない。
物言わぬ白竜の身体は、空気中に溶け出すようにゆっくりと光になって消えていく。
「どうなってるんだよ……こんなの、本当に死んでいるみたいじゃないか」
「精霊は、死ぬと光になって消えるそうです……」
ウルが涙でほおを濡らしながら目を伏せる。
「……南の地で、雷侯に殺されたシリンが同じように消えたのを見ました。きっと私たちがクーファさんのもとにたどり着く前には、もう、たぶん命の灯火は……。私、私は、そのことを知っていても、クーファさんに何もしてあげられなくて」
「どうにもならない……?」
地面に染みる血液さえ、光になって消えていく。
クーファのいた痕跡が跡形もなくなっていく。それを呆然と眺めて、
「そんな……」
ついにクーファの身体が、目の前からいなくなった。
俺は、その場に膝をついた。
「言霊は、なんとかできないの……?」
『無理。消滅した精霊を生き返らせることなんてできない。魔力はすべて空気中に溶けていってしまった。クーファという個体は、もう存在していない』
もらった鱗さえなくなってしまった。まるで存在そのものが消えたかのような喪失感。
俺はクーファが倒れていたはずの場所を見つめていた。クーファは、もうどこにもいなかった。
「やりおるでしかし」
地面からふつふつと湧くように、パトリックが姿を現した。
少し痩せたかもしれない。パトリックは魔法陣で拘束されているアデルバートさんに詰め寄っていた。
「アベルバートン!」
「アデルバートです」
「消費しすぎた。魔力が足りん。お腹ぺこぺこ死んじゃう病!」
「……では私をお使いください」
「いいの~?」
「はい」
「本当に~?」
「どうぞ」
「ではお使わせていただきます!」
パトリックの口が大きく開き、開き、開ききって身体がほぼ口だけになって、そのままアデルバートさんを丸ごと飲み込んだ。
パトリックの中で、骨が砕けすり潰れるような音がする。
やがてパトリックは、生き生きと身体を反らしながらふくれあがった。
「私は冴え渡るッ!」
足元に光った拘束の魔法陣をかわし、パトリックは路地裏へと消えていく。
誰も追おうとはしなかった。
入れ替わりになるように、ネミッサたちが駆けつける。
「みなさん、大変です!」
ネミッサは慌てたように叫んだ。
「遠くからバディが複数こちらに向かってきています! 目的を達成したらすぐ逃げましょう! それとも倒しましょうか!? 私はそっちのほうがいいと思いますが……って、あれ、クーファさんは?」
「…………」
俺もウルも、説明する気力がなかった。
「一人でどこかに行った……わけではないんです? えっと、もしかして、そんなこと、ありませんよね? あのクーファさんが、そんな……」
察したのか、ネミッサは震える声で語尾を濁す。
「一旦逃げるぞ」
黒竜が業を煮やしたように俺たちに言った。
「貴様らがそんな状態ではもはや戦えん。倒すにしても一度態勢を立て直した方がいい」
「そ、そうですね。とりあえず話は教団本部に戻ってから伺います」
ネミッサはチョークでその場に魔法陣を描き、霊符を手にして空中に『門』を開いた。
「おい、いつまでそうしているつもりなのだ!」
黒竜は俺の腕を強く掴んで叱咤した。
「つらいのはわかるが頭を切り替えろ! ひとまず目的は達したのだ。逃げるぞ!」
「俺は……」
パトリックは逃げた。
きっと王都に迫っているバディと合流するつもりだろう。
言霊が反応していなかったのを見ると、『門』を使わずにそのままやってきたらしいことはわかった。
このままバディたちを迎撃するべきだ。
複数来ているなら俺たちを囮にして一網打尽にできる。この戦力なら正面からぶつかってもそうそう負けはしない。
――と、ここまで考えが浮かんだが、しかしそれを行動に移すほどの意志が、俺の中にないことに気づいた。
今は何もせずに、ここにずっといたかった。
「悲しいのは主だけではない。受け入れろ」
黒竜の説得する声を聞きながら、俺は今までの旅のことを思い返していた。
自分勝手で、気まぐれで、人の言うことなんて全然聞かなくて、でも肝心なところではちゃんと助けてくれる白き竜のことを。
「白竜は死んだ。勝手に生き返るなどありえない。それは生きているものすべてに共通する理だ」
そうこうしているうちに、やってきたバディが城壁を破壊するけたたましい音を聞いた。
「逃げないんですか!? このままだとこっちまで来ちゃいますよう!」
『稀名、私はどうしたらいい?』
ネミッサの急かす声と、言霊の困ったような声。
建物を破壊しながら、バディが俺たちの元へ接近してくる。
数は三つ。空中に浮いた二対の羽がついた虫のような個体、四つ足で歩く太ったサイのような個体、二足歩行する巨大な人型で手の爪が異常に発達した個体。
「――しゅわしゅわしゅわ(こうなれば戦えるものだけで戦う)」
しゅわちゃんはそう言うと、巨大な怪鳥の姿に変わった。
「じゃ、俺たちが食い止めていればいいな」「ふん、面倒のかかるやつだ」
コルとバラムがしゅわちゃんに続く。
バディたちに向かっていこうとする三体は、しかし空を舞う泥のような液体に阻まれ、急停止を余儀なくされた。
「ダメだ! 行くな!」
パトリックだった。パトリックは迫ってくるバディの一体――四つ足で歩行する獣型に触れて、
「これは私の食料! 誰にもあげない!」
喚き散らすように叫んだ。
「食料!?」
パトリックはアデルバートにそうしたように、バディを丸呑みにして貪る。
「うえええ、なんだよ、共食いか!?」
龍になっていたコルが気持ち悪そうに身体をうねらせた。
そうこうしているうちに、パトリックは二足歩行型に羽根つきの虫型に、やってきたバディを次々に飲み込んでいく。
もはやパトリックは人の形をした液体でもなく、宙に浮く丸みを帯びた巨大な不定形の塊と化していた。
「――私はさらに冴え渡る!」
パトリックが叫ぶと、かろうじて円形のその身体から、光の光線のようなものが放たれる。
地上に触れた光は炎をともなって爆発し、周囲の民家を吹き飛ばした。
空を飛ぶパトリックから幾筋もの光が地上に降り注ぎ、爆発して王都の街並みを次々破壊していく。
俺たちに光が集中したが、言霊がドーム状の鳥籠を俺たちの周囲に展開し、爆発をどうにか防いでくれていた。
「――見よ愚民ども! 魔族を操って世界を征服しようとした反逆者・神無月稀名はこの私が倒しますよって!」
「こいつ自分自身がその『魔族』の姿だって気づいてないのかよ!」
前に出ていたコルが鳥籠の中に避難して毒づいた。
「ありゃ無理だな」「しゅわっ(ああ無理だ)」しゅわちゃんとバラムも続いて駆け込む。
爆撃は鳴り止まない。言霊が鳥籠を展開してくれなかったら、俺たちは今頃消し炭になっていただろう。
「いい加減に何か行動しろ。逃げるのか、それとも戦うのか?」
腕を掴む黒竜が、俺を急かす。
「前を見ろ。起きてしまったことをずっと悔やんでいるだけでは解決しない。忘れるな、お前の行動に命を預けているものどものことを。お前のことを信じているものたちを裏切ってくれるな」
「……俺は」
鳥籠の外は大変なことになっている。
俺はもう一度クーファに会いたかった。
割り切ることなんてできない。
だがこのままでは全員死ぬ。俺は自分自身の行動を決断しなければならなかった。
わかっていた。どうにもならないと。死を覆すことはできないって。それでもどうにかなるんじゃないかって、疑わなかった。
流れそうになる涙に抗うように、俺は奥歯を強く噛んだ。ぎり、と音がして歯が滑る。
俺が立ち止まっていてはだめなのだ。
迷っている暇はない。
動かなければ。
すぐにでも、行動を起こさなければ。
「…………」
――俺は覚悟を決めて前を見た。迷いは、なかった。




