氷の解ける時
彼の王国の統治者は、随分と横暴なことで有名だった。王の政策は諸国に対抗するには功績を挙げていたが、国民は疲弊していた。
彼の一人息子のアルベルトは、国王と同じ漆黒の髪と、先に死した王妃の黒い瞳をしていた。
王の氷のように冷たい薄青の瞳だけは受け継がなかったらしい。そう囁かれている。王子は人を魅了する父王と同じ容姿をしていて、幼いながらに、冷たさと優しさの同居した不思議な魅力を放っていた。
アルベルト・グランディフロラ。もっと、ややこしいネームが中に入るが、国民はそう覚えている。
グランディフロラ王国。暖かい南に近く、温暖な気候。一年中過ごしやすい。しかし周辺国が時折騒がしい。王はだからこそ強権をふるっていた。
彼女は常に僕の傍に居て、僕を気遣う。微笑んで、怒って。泣きそうな顔でまた笑う。『感情が豊か』というのは、彼女の事だろう。
「一緒だよ。」
誰と共に居ようが、誰が裏切ろうとも。僕の心はピクリとも動かない。
いつもそう教えているのに、彼女は信用しない。
その頃はまだ穏やかな日々が続くと信じていたかった。
黒煙の中。迎えに来た護衛の騎士と彼女の元に。謁見の広間へ向かう廊下だったそこに、彼女はうずくまっていた。
彼女の傍に行き肩を支える。先に声を発したのは彼女の方だった。
「アル。怪我は?」
「ない。」
「よかっ、た。」
安心したようにそう言って、僕の頬を撫でる。その手から力が抜けた。
僕の無事を確認した彼女は、いつものように口元に笑みを浮かべた。
その眼から光が消える。
ふっと。彼女の中から何かが抜けたような気がした。支える手の中を彼女はすり抜けてごとりと仰向けた。
青ざめた顔と、ドレスに広がった赤。
僕の目はその一部始終を見ていたのに、何も感じない。
冷たい床に横たわる彼女のキャラメル色の髪が僕の手に絡む。
「行きましょう。アルベルト様。」
たった一人に残った騎士が言う。早く逃げなければならない。城は反乱によって落ちている。父王は既に胴と首が別れているらしい。でも。
「これを、持って行っていいか?」
そう言って、事切れた少女の半身を起こす。騎士は奇妙なモノを見る目をした。
彼女はアルベルトの幼馴染。彼の乳母の娘だ。王妃は、僕がお座りすらできない時に死んだから、娘を産んだばかりの彼女が王子の世話係となった。ずっと一緒にいたのだ。
「なりません。」
騎士がそういう。
「そうか。」
残念だけれど諦めて、身体を床に横たえた。
民を顧みなかった父王のせいで、今や城は至る所に火の手が上がっている。王が死したのにここまでされるのは、余程の恨みだろう。娘を殺された宰相か、腕を切り落とされた英雄騎士か、それとも弾圧された民の誰かか、その全て?
表面上の付き合いしかして来なかった僕の味方は少ない。さっきあの子が死んだ。この騎士は何故か僕を逃がしてくれようとしている。
王宮の中でしか生きた事の無い、まだ十三の子供を外へ連れ出すなんて無謀だな、と思う。
ココで息の根を止めた方がいいのに。
明け方の襲撃の為。庭園に出るとまだ薄暗い、しかし、炎に照らされた庭園は、煙がくすぶり、美しく整えられていた花々は無残に燃えていた。
騎士は息を呑んだ。眉根を寄せて苦しげな表情。
「隠し通路を行く?」
王族のみ知り得るそこを指す。冷たいほど冷静な自分の声に、騎士が振り向く。炎が明かりとなり、彼の姿がハッキリと認識出来る。
知った顔。炎と似た紅い髪。灰色の瞳は思いの外、人好きのする光を宿している。鎧を纏わず騎士服ですら上着だけだった。逃げる為に。この国の物を捨てる。
護衛は少しだけ唇に笑みを作る。なのに泣いているかのように見えた。
「そうですね。今しばらく我慢してください。」
護衛はきていた上着で僕をくるんだ。
目を瞑ると彼女の声が聞こえる。
「お花綺麗よね。綺麗って思えるのって幸せね。」
庭園で彼女はそう言った。
「花?毒があったり、薬になったりして便利なのは興味がある。」
彼女はワザと苦い顔をしてみせる。
「綺麗ね。とか、かわいい。とか、素直に言えばいいのに。」
乳母の子のくせに生意気な口をきく。
「・・・は可愛い。」
素直に言えといったので、無表情なままだろう顔で彼女に言ったら。
「ずるいっ!」
と、真っ赤な顔で言われた。意味が解らない。
騎士は律儀にアルベルトを連れ王国から逃げ延びた。行き着いた先は、セッカ。彼の産まれた国で、グランディフロラよりかなり北側にある。国自体は大きくないが、発展した商都があり。中央王宮は王女が治めていたはずだ。
「ここなら安全に暮らせます。」
僕は母国より肌寒い気候に慣れず、暖かな栗色のフード付きコートを着て、フードは被っている。彼も久しぶりの帰郷に寒いのか、紺色のコートの前をきっちり閉めて着ている。
きっと僕は王族ではなく、せいぜい良い所のお坊ちゃんぐらいに見える事だろう。
「兄上。」
「え?はッ、はい!」
そう呼ぶようにと言ったのにえらくびっくりされた。旅の道中。兄弟で通すと言ったのは彼だ。親戚の家を頼るそうで今はそこへ向かう途中。
「御親戚の方はご迷惑にならないでしょうか。」
「堅苦しすぎま・・。」
自分も堅苦しいのに思い当たったか、黙り込む。
「・・叔母の家、だ。昔からよく世話になった。だから大丈夫。」
元騎士。今は兄のエドガーは、そう言った。昔世話になって、今も僕を押し付けようというのは図々しくないだろうか。彼の口にする叔母は、親しげに語られていたので仲は良いのだろう。でも、断られたらどうする気なのか。甘い男だ。
「さあ。いこう。直ぐだから。」
エドガーは街中の為はぐれぬよう僕の手をとって、人ごみの中を歩き出す。子供を連れるように。
もう、13歳だというのに情けないが諦める。
エドガーの叔母は応接室に二人を通した。一応歓待してくれているらしい。
彼女も失礼ながら思ったより若かった。木漏れ日を思わせる金髪を緩く肩口でまとめ、明るい青空色の切れ長の瞳で不敵に笑う彼女に、一瞬父の青と重なったって強張ったが、彼女の青は穏やかだった。
「で。エドガー?いつの間に弟が出来たのかしら?」
「ははは。十年ちょっと前から?いたよ。忘れたのかなぁハハハ。」
乾いた笑いで頭をかきながら叔母にこたえるエドガー。
「まあ。いいですけどね。あなたが良い子なのは知ってるから。」
ゆったりしたソファに腰掛ける彼女はシンプルな白いブラウスと張りのあるブルーのスカートを穿いていた。二十歳のエドガーよりは年上で、乳母が病で死んだ歳と同じくらいに見える。伯母上がこちらを向いた。
「私はフィリアブラン・シードル。叔母様ではなく、フィリアと呼んでね。あなたのお名前は?私。エドガーの弟の名前をすっかり忘れてしまって。」
ふふと笑い。聞かれたので台本通り答える。
「アル。エドガー兄上の弟です。」
彼女の、女性にしては凛々しい顔が困ったと言っていた。それでも笑みを浮かべてくれたのだから嫌悪は無いらしい。
「・・今日からよろしくね。アル。そうそう。エドガー?」
「はい?」
「貴方は一旦、実家へ帰りなさいね。いくら家督は弟が継いだからって、顔出しぐらいはするものよ。」
へいへい。とエドガーは適当に返事する。
「兄上には他にも弟がいらっしゃったんですね。」
僕の発言にフィリアは面白そうに笑う。エドガーは、ああ。と生返事。
「ほほ。そうなの。でも安心してね。実家の家督は弟が継いだけど、帰郷したのですから、約定通り我が家の後を継いでもらうことなるので、住む所には困らなくてよ。」
微笑む女主人。
「え!まだその話消えてなかったのか?」
驚いた顔のエドガー。
「あら。だってそうでしょ。花嫁を迎えた暁にはあなたは帰って・・・ごめんなさい。」
夫人は途中で語尾をにごした。そして謝る。意味が解らない。
「とにかく。今日は疲れたでしょう。お部屋に案内するわ。掃除は行き届いているから、寝るには困らない筈。後は日用品かしらねえ。」
主人直々に案内してくれるらしい。立ち上がってぶつぶつ言っている。エドガーに目配せされて、自分も後に続く。
この国の習慣なのか?それともこの家系だけなのかは解らないが、この家にはメイドや下働きの者が少ないようだ。
母国では大勢の人間にかしずかれていたから基準が解らない。解るのは、あの国で騎士をしていたというエドガーは、この国で貴族と同じ地位にあるはずだという事。他国民があの国で騎士を拝命できるのは、自国での家柄がいいからにほかならない。
「アル。今日はゆっくり寝ろよ。」
自分にあてがわれた部屋から、アルの所までやって来たエドガーは気遣いの言葉をかけて来た。彼もやっと落ち着いたのか、ピリピリした空気が薄れていた。
エドガーとは隣り合わせの部屋。
ここへ落ち着いてから夕食は部屋に運んでもらって、一人で食べている。誰かと食事するのは好まない。
王宮では大抵は、乳母と彼女が一緒だった。後に彼女と二人だけになり、父王との会食は義務。食べ物の味がしなくて、不快だった。
木々に囲まれ、蔦に覆われたこの屋敷は、春には花々にも囲まれるらしい、あの子が好きそうな美しい外観をした屋敷はそれ程大きくないが、屋根裏を含む三階建て建築だ。
質素な部屋にフィリアの意向で徐々に色々な物が増えていく。
部屋の隅に移動させたテーブルに、運ばれた朝食のスープをすくう。向かいにも椅子が一脚ある。
スープは鳥と野菜を煮込んでクリームで味付けしたもののようだった。
彼女は宮廷は寒いという。だから暖かいものが好きだ。
「これ好きなのよね~。」
彼女が言って、スープをまたお代わりをするから呆れる。
「太るよ。」
ぐっとむせかけた彼女は、僕を睨んでからぶつくさ言う。
「その分動くからいいの。」
「しとやかにしてないと怒られない?」
「う~。こっそり。する。」
そう言ってお代わりを平らげる。その時はもう二人での食事が板についていた。
皇子だが自分個人に仕えているのは彼女くらいで、他は皆王の物。配膳を終えた侍女達は早々に去るのが日課。王は息子すら自分の地位を脅かす者と捕えている節がある。
王宮よりも質素で、しかし警戒しなくてよさそうなベッドに身体を横たえる。日が沈み星空が瞬くと一応そうする。目をつぶると冷たいシーツがいつ暖かくなるのかと慣れない気候に凍える。
彼女は僕の侍女として、隣の部屋を与えられていたが、さみしがり屋(自分で言っていた)なので、夜は僕のベットに転がり込む。
「怒られるよ?」
殆ど毎日なので、棒読みで言う。
「もう!そればっかり!アルベルト殿下がだま~ってて下さったらいいんですぅ。」
生意気な言い方。いつもどおり。
「僕に何かされるかもよ?」
彼女は虚を突かれたようにシンとだまり、多分無表情なままの僕にからかわれたと思って、赤くなった。手近にあった枕でぼふぼふ頭をはたかれた。痛くないのでほっておいた。
「馬鹿!アルの変態!」
「おやすみ・・・。」
僕は寝てしまったのでその先は知らない。起きてから、しばらく彼女が拗ねていたのだけは記憶にある。
一晩中うとうとする日が続く。逃げる為。野営していた時の方がぐっすり寝ていたのに。
その日の朝食に、パンに添えてあった蜂蜜を目にしたら、それを美味しそうに頬張る彼女が目に浮かんだ。ジリスの様に食べ物を詰め込んで、膨らんだほおが気になってつついたら、そっぽをむかれた。
数か月が過ぎ、僕はフィリアの養子になった。
エドガーも彼女の家督を継いで、エドガー・シードルとして爵位を賜った。元騎士から、王宮で職務を得て、総務次官補となった彼曰く、『ただの雑用係だよ』との事だか。最初から、彼はこちらの仕事の方が向いていたのかもしれない。
僕はと言えば、グランディフロラの王家が他の貴族ごと滅んだ事をフィリアから聞いた。家督を譲った彼女は今迄働いていた王宮の職を辞し、商都で商売を始めたらしい。そこで仕入れた情報を、僕に隠すことなく教えてくれる。
落としたはずの城は反乱を起こした人物の物にはならず。隣国の王制でない国がすぐに交渉と称して押しかけ、自国の政治基盤を敷いてしまったという。
反乱は誰が首謀したかなど、どうでもいい所は適当に相槌を打つ。どの道、僕も愚王になっただろうから。民にはこれがいいのだと思う。
「アルは私がいなくなっても大丈夫かな。」
彼女が言う。父王との会食の後だったか、それとも自分の誕生祝いの場だったか、どちらかだ。アルベルトがたくさんの作り笑いをした後、必ず心配そうにするその顔だったから。
「・・・が居なくてもやることは変わらない。」
彼女は深いため息をつく。
「アル~。私は淋しいよ。小っちゃい時から一緒のアルにそんな事言われたら。」
「じゃあ。大丈夫じゃないから。ずっと一緒に居れば?」
「アル・・・。」
彼女はじゃあって何よと大げさに嘆き。そうなると、良いのにね。と彼女にしたらやたらと大人びた笑みを返した。
雪を見ぬままに月日は流れ、花が咲き誇る
エドガーはこちらでの仕事に慣れる為、しばら忙しかったのだが、年を越してようやく落ち着き始めたらしい。
三人で何となく居間に集まる。今では慣れたそれぞれの定位置で、アルが読書とフィリアが編み物と(冬までには仕上げる!と意気込んでいた)、エドガーは久しぶりに剣の手入れをしていた。
「エドガー。それはもう使わないんじゃないこと?」
武骨な剣と花柄のソファが似合わない。と思いつつフィリアが問いかける。
「いいでしょう別に。手入れしていれば、いざ売りに出す時にいい値が付くし。」
「そういうこと。呆れた。貴方よくそれで騎士をしていたわよね。」
「腕はそこそこあるので。叔母・・フィリアこそソレ冬までに間に合いますか?」
「もちろんよ。最終的には得意な者に任せるという手段がありますから。」
「任せたら、意味ないでしょ。」
「心を籠めて糸を選びました。」
言い切るフィリア。
軽口をたたき合うのを眺めていたら、エドガーがアルを見て笑った。しようがない人でしょう。というように肩をすくめて。
「アル。待っていてね。きっと素敵なベストが出来上がるわ。」
話しかけられて、フィリアの手の中を見る。もけもけとした不思議な生物の様な緑色の毛玉がもりもり編みあがっている。
「それ!ベスト?俺はてっきりモップかと・・・。」
フィリアにぎろりと睨まれたエドガーは黙して目をそらした。
僕はフィリアに目を向けて笑みを作る。
「ありがとうございます。フィリア。僕は緑は好きです。」
そう。とほほ笑んだフィリア。
エドガーが気遣わしげにこちらを見ている気配がする。
眺めていたら。じわじわと頬が赤くなって俯かれたので、彼女の頬に手を伸ばして上向かせる。
「いい加減飽きない?」
上ずった声で言われる。
「全く飽きない。」
「そう。」
ため息をついた彼女と僕は、煌びやかな宝石に囲まれた部屋の中にいる。そして、向かい合い見詰め合っている。
「もうい~い?」
「まだ。」
先ほどからそんなやり取りをしているのは、ほんの少し前のやり取りの所為だ。
母が死んで沈みがちな彼女を、宝物庫に連れて行った。綺麗と言われる物があれば、少しは気がまぎれるかと思っての事で。彼女は僕の意図をすぐ理解したようだったが、彼女の求める綺麗は宝石とか財宝ではなかったようで、目がチカチカするわ!と笑った。
そういいつつも中を散策し、二人で宝物庫の中のエメラルドグリーン宝石の付いたティアラに目を留めた。彼女の瞳の色に似てると発言すれば、こんなに綺麗じゃないと彼女はいう。
「そうだね。」といったら睨まれた。最近の彼女はよく解らない。
「怒ったの?でも・・・の方が生きてるから綺麗だよ。」
彼女が無言になる。
「ずっと見ていたい。」
彼女が自分には思ったことを何でも言えというので、言ったのに。逃げ場を探すネズミの如く挙動不審になる。
「ダメなの?」
「うっ!」
唸るってどういう事だろう?
しばらくして、折れたのは彼女で、そうして、彼女が音を上げるまで僕は緑の瞳を見つめていた。
窓の外の雪を眺める。初めて見る雪。白い世界。
暖かい室内だが、僕はフィリアのくれた緑のモップもどきマフラー(エドガー命名)を首に巻いている。結局それは、フィリアが最後まで編み上げ、マフラーとしてアルにプレゼントされた。お返しがしたいというと、「アルが幸せに笑って下さる事が私の願いですわ」と言われた。いつも笑っているつもりなのに。
夜は吹雪くらしく、早い内に屋敷に帰ってきたエドガー。毛皮を内に張った分厚い黒いコートを着ていた。立ち襟の官服と同じく事務方用の支給品らしい。
「さみぃ!久しぶりでこの寒さを忘れてた。」
「お帰りなさい。エドガー。軟弱ですね。」
「おかえり。兄上。熊みたいに着込んでますね。」
「ただいま。アル。フィリアに感化されるなよ。」
夜。使用人を帰らせるのはいつもの事なので、二人で出迎える。エドガーは僕の頭を撫でると、フィリアの マフラーをつんつん引っ張った。ほどけそうなのでやめて欲しい。
フィリアが見とがめて、さり気なくエドガーの手をつねった。これから三人で夕食を取る。
そんな三人での夕食も、もうすぐなくなることを僕はまだ知らなかった。
雪解けは待ち遠しいと思っていたのに、くれば、まだ雪に触れていたいと思う。白い冷たい雪。掌で溶ける感触。フィリアに手がかじかむと怒られて室内に入った日が遠くなった。
その日。エドガーは見知らぬ女性を連れて来た。
「伯母上のフィリアブランと弟のアルだ。彼女はアンジェラ。」
亜麻色の髪はあの子の母と同じだった。愛らしい仕草で僕に挨拶をする。
結婚。という言葉を使っていた気がする。
僕はこの屋敷を出るべきなのだろう。この家の主人はエドガーで、奥方は四六時中僕と顔を突き合わせるのは辛いだろう。どこにいけばいいのか。解らないのでフィリアに後で聞こう。
フィリアに問うた僕の言葉は、たちまちエドガーに伝わったらしい。
式の準備と仕事に忙しい筈の彼がその日早くに帰って来て、二人で話したいと言った。僕はエドガーの部屋に赴いた。
「どうして、今更出ていくなんて言ったんだ?」
彼の部屋で向かい合って座る。居心地のいい部屋。静かな青。小さな机を挟んで一人掛けのソファが二脚。
「そろそろ。僕も隠居した方がいいかと思った。」
エドガーが眉を寄せる。王国を失った皇子は、蟄居とか幽閉とか、それが相応しいと考えている。
「アルベルト様。ここにいるのは本意ではないですか?」
あらたまり、座る僕の横に跪くエドガー。
「ここは穏やかで住みよい。」
「ならアルベルト様。何処かに去るとか言わないで下さい。」
「アルでいいよ。」
「言いましたね。では。アル。君は俺の弟だ。弟は兄に頭が上がらないんだよ。ここに居ろ。な。」
よしよしと頭を撫でられて、首を傾げる。
「エドガー・・・。兄上は結婚する。家族の中に僕が居るのは不自然だと。」
「ああ。そんな事を心配してくれていたのか。」
エドガーは嬉しそうに笑った。
「俺は王宮が用意してくれる家に移るよ。職場に近いし、煩い小姑のフィ何とかもいないし。」
そうか。エドガーはこの屋敷を出るのか。
「アル?」
僕の沈黙をどう思ったのか、エドガーは顔を覗きこんでくる。
「大丈夫だぞ。しょっちゅうという訳には行かないけど、必ず会いにくるから。」
ハッキリと力強くそういって、彼は僕の頭をかきまわした。ぐちゃぐちゃになった頭にエドガーは笑う。その明るい笑顔があの子も好きだったのだろうか。
あの日あの場所に居なければ、エドガーは、どうしただろう。
王宮の廊下で、見知らぬ騎士と二人で居るキャラメル色の髪を見かけて、立ち止まってしまう。そのまま去ろうとしたのに、彼女は気付いた。騎士は僕が誰か解って、深く頭を垂れる。
「顔を上げていいよ。」
彼女がいたので、いつもの口調になる。
彼の事を彼女は僕に紹介する。
「この人ね。婚約者のエドガー・マロウ。」
婚約者?
「・・・は結婚するの?」
「いつかはね。」
その時にさよならをするのだと。
僕は「解った。」と返した。
話を終えたと思ったエドガーが立ち上がり、一旦離れようとした。その背に僕自身思いもしない言葉をかける。
「あの子の事はもう忘れた?」
肩が震える。強張った雰囲気に「すまない」と聞こえないぐらいの声しか出なかった。
「・・・の事は好きでした。」
背を向けていたせいか名前が聴き取れなかった。
「そうか。僕は忘れそうだよ。」
声も顔もいつかは消えてしまいそうだ。
「そんな嘘を言わないでください。」
「嘘?」
振り返ったエドガーは痛みを堪えるような顔をしている。思いださせて申し訳ない。
「アル。あなたは自分の感情を知るのが下手ですね。」
そんな事は無い。
「・・・が言ってましたよ。だれよりも優しい皇子様だと。」
褒められるのは嬉しいが、思い違いだ。僕には彼女の様な豊かな感情が無い。
今も彼女の名前すら思い出せない薄情者だ。
「貴方はあれから、ちゃんと笑っていない。」
「僕は、いつもこんな感じだけど?」
いいえ。と彼は子供にするように目線を合わせる。
「彼女といる時のアルは違った。俺にも解るくらいに。」
「見てた?」
「一応。婚約者の周りをうろちょろしてる男が居れば気になりますので。」
苦笑したエドガーに何と言っていいか解らない。
「俺は彼女の婚約者だったけど、助けてやれなかった。」
後悔の滲む声でエドガーは愛おしい者を思いだし笑う。
「彼女はお転婆でしたね。」
「うん。」
エドガーも知っていたのか。
「そして、アルの事が好きだった。」
「え?」
婚約者がいるのに?僕から離れてこの国で暮らす気持ちだったのに?
「アルは皇子だから・・アは諦めた。そして、俺の国で幸せになるのだと決意してくれて、嬉しかったな。叶わなかったけど。」
エドガーがアルの顔を優しく見下ろす。
「・・アの一番はアルベルトだ。」
めまいがする。彼女の名を聞いてはいけない。
虚ろになったアルに根気よく話しかけるエドガー。アルの背を優しく包みこんだ。
「泣いていいんだ。無理に笑えとは思ってない。」
エドガーの声はしっかりしていた。もう既に泣いて、悲しんで、折り合いをつけたのだろうか。
「俺は。彼女の願いを叶えたから、それで良しとしてる。」
エドガーは僕の背をあやすようにたたく。彼女の願いってなんだろう。
「だからアル、もう忘れなくてもいいんだ。」
エドガーはあの日。彼女の遺体を抱えた皇子の、表情が抜け落ちたかのような、無機質な彼を連れて逃げた。生活を共にし、王子が噂の様に冷血で無い事を知る。彼女の言う優しいアルは、旅の間。毎晩。彼女の名を呼んで飛び起きる。なのに、起きてしまうと全て忘れたように口に出さない。
旅では戦火が周りに及んでいないことにほっとしたようで、初めての外に、ぎこちない笑みを作る。本当に弟の様に思うようになったエドガーは、彼女の願い通り、彼を救えて良かったと思う。
どうか、彼が悲しみを表に現せる日が来るように。そう祈るしかない。
少ししか変わらないアルベルトの表情を、彼女が的確に読んでいたようには自分はなれないから、ただ願う。
泣いてそして自由になってくれればいい。幸せに。彼女が願ったのはアルの幸せ。それを叶えたいと心から思うのだ。
エドガーはきょとんとした顔のアルにため息と笑顔を向けて、一年を待たずに新居へ移った。
冬が過ぎ、雪の後に緑の芝草が生え、花が咲く。
晴れた日に、フィリアの提案で庭でお茶をした。キャラメル色のミルクティ。それは彼女の髪の色だ。甘い香り。テーブルの上のアップルパイは彼女の好物。
僕は頭をふるりと振った。
小鳥のさえずりと暖かな陽気と。
「緑が鮮やかになってきましたわね。」
「はい。」
「それね。今度はアルの色と、お好きな緑をつかってセーターを編みますわ。」
多分。黒と緑の禍々しいもけもけが出来上がる気がする。僕は瞳も髪も漆黒の闇色なんだから。
「今年はミュオソの花が綺麗に咲きましたわ。」
楽しげなフィリアの声が示すその花の咲く方を見る
屋敷から使用人が出てきてフィリアを呼ぶ。すこし行ってきますわと、律儀に声をかけて退席する彼女。
一人で庭先で寛いでいるなんて初めての事だ。この国では僕に護衛はついていない。もしかすると何処かに隠れて警護している可能性はあるが、姿は見えない。
久しぶりの一人の時間だ。
庭の花を見ると、昔あの子と見た花が咲いていた。小さな雑草にも見える青い花。
彼女の・・・。
ミリアの『綺麗』と言った花。
ミリアが笑う。僕に向かって。君の方が綺麗だ。
掌に雨粒が落ちてきて。こんなに晴れているのにおかしいと、天を仰ぐ。
ミリア。もう呼んでも答える人はいない。ミリアは最後まで笑っていた。
こめかみが痛い。・・・顔に触れると、濡れていた。どうも目から溢れるものがある。
・・・僕は
「よかった。」
ミリアの声が聞こえた気がした。
悲しかったのか・・・。
そして、恋しい。ミリア。君に逢いたい。