3 十二月二十九日 完徹明け
クリスマスが過ぎ、めだったイベントもなく、あとは年末を迎えるだけのこの時期。
学校も会社も冬休みに入り、巷では帰省する家族連れが目立ちはじめる。
テレビやネットニュースではさまざまな形で今年のふりかえりがなされ、コメンテーターやコラムニストがもっともらしく今年の反省と来年の抱負を述べていた。
大みそかまであと二日の今日。
やはり俺は、職場で深夜残業にいそしんでいた。
上司の思いつきで決まった、某アプリゲームの新たな年越しイベントの立ち上げに、俺は忙殺されていた。
これまでも休日返上で働き続けていたが、そのせいで昨晩は結局、徹夜をしてしまった。
なんとか今日中にひととおりのシステムを構築しなければならない。だが、俺には睡魔が容赦なく襲ってきている。
もはやブラックコーヒーごときでどうにかなるレベルではない。
件の上司は「いや~、悪いね前島くん。君にばかり仕事をさせてしまって。これも会社の期待の表れだと思ってがんばってくれたまえ」などと慰めにもならない言葉を残し定時で去っていった。
俺を応援しているつもりなのか、帰る前に三本入りの栄養ドリンクをくれたが、これは「もっと働け。血ヘドをはくまでじゃない。血ヘドをはいても働け」といっているのと同じだということに本人はたぶん気づいていないだろう。
そんなことを思いつつ、俺は栄養ドリンクの最後の一本をあけた。午後十時。やらなければいけないことはてんこ盛りだが、俺の脳みそはまぶたというシャッターを下ろすことを強く望んでいる。
「眠い……」
暑いときに「暑い」というのと同じくらい意味のない言葉をくりかえす俺。
閉じかかるまぶたを開きなおし、ディスプレイにむかってキーを打つ。だが効率はすこぶる悪い。
遅々として進まない作業。俺の意識もしだいに薄れ、ついに――
『なんだよマエシマ、今日はひどくおつかれだね』
――それを打ち破る特効薬が願いもしないのにとつぜん現れた。
いつのまにか右肩に腰かけていたキツネの少年に、俺の眠気はふきとぶ。
「おわっ!?」
俺が身をよじると、少年はふわふわと宙に浮かび、腹の立つくらい無邪気な笑顔をむけてきた。
『やっほー、マエシマ。今日もきてやったよ! と思ったら、生気がないね。どうしたの?』
「…………見たらわかるだろ」
『あ、わかった。元旦の初もうでが楽しみでしかたなくて、昨日は眠れなかったんだね!』
「おまえの底抜けにポジティブな思考形態だけは尊敬に値するよ……」
つかれた精神をさらにすりへらしながらつぶやく俺に、少年は首をかしげる。
『じゃあ、なんで眠そうにしてるの?』
「昨日完徹して、ろくに寝てないからだよ。察しろよ……」
俺の言葉に、少年はなぜか困ったような顔をする。
『へえ、そうなの……。ボクは寝ないから、その気持ちはわからないや』
「ねない――寝ない!?」
『ボクは眷属だからね。大神さまだって寝ないよ』
そういうものなのか――いや、それはそうだろうな。なぜなら、彼らは世界中の万物をつねに見守っている尊い存在なのだから。
…………まてまて。何を納得しているんだ俺。思考能力が著しく低下しているぞ。
「まあ、おまえが寝るか寝ないかしらないけど、とにかく俺は眠いの」
『じゃあ家で寝ればいいじゃん。なんでまだ働いてるの?』
「このシステムを明日の午後一で出さないと、年越しイベントの立ち上げに間にあわないからだよ」
『そうか、仕事をかたづけて元旦に初もうでをするためだね!』
「人の話きけよ! 初もうでとか意識の隅からも消えてるわ!」
『ホントに? じゃあとなりのコのこともずっと忘れてたってこと?』
「箱崎さんはとなりだし、視界に入るし、忘れるわけないだろ」
『“箱崎さんのこと、忘れるわけないだろ”なんて、マエシマカッコいいじゃん!』
「おまえのいいように言葉を組み合わせるな! ……ってか、おまえのせいで箱崎さん、あれから俺に対してよそよそしいんだぞ」
『えっ、なんで?』
「胸に手をあてて考えろ」
少年は胸に右手をあてて両目をとじた。
『大神さま、ボクはなにかマエシマに悪いことをしたでしょうか。――うん、うん。うん……うん。はい、わかりました大神さま。畜生であるマエシマのたわごとなど耳をかたむける価値はない、ですね。ボクもそう思います!』
「ひどいな神社の大神さま! ってかおまえも結局ぜんぜん理解してないだろ!」
『うん。なんであのコがよそよそしくなったの? ボクわからない』
白々しくのたまう少年に、俺は人生ではじめて、他人を一発なぐりたい衝動にかられた。
「箱崎さんにはおまえの姿も声もわからないから、ここに戻ってきたとき、残業してる俺がだれもいない職場でひとりでさけんだり暴れたりしてると思われてるんだよ。こうして俺がおまえと話してるのだって――」
そこまでいって、俺は後ろをふりかえった。
――大丈夫。箱崎さんはきていない。俺は少し声をおさえた。
「――だから箱崎さんに、俺が仕事のやりすぎで精神的に危なくなってるんじゃないかって、誤解されているんだよ」
『でも実際、マエシマ危ないよね。初もうでにも来てくれないくらいだもん』
「初もうでがどれほどのものだよ! ってか俺のことはそろそろあきらめて、ほかのやつをあたったほうがいいんじゃないか?」
俺の言葉に、少年はなぜか首を横にふった。
『マエシマじゃないとダメなんだよ。――マエシマに来てほしいんだ』
「だから、それはなんでだって――」
言おうとして、俺はいつになく真剣になっている少年の顔つきを認めた。
じっと俺のことを凝視する少年。なにか大事な理由を胸に秘めているのか。緊張の糸が少年とのあいだに張りつめる。
少年は、やや躊躇しつつ、ゆっくりと口をひらいた。
『……マエシマってイジりがいがあるから、こうしてると楽しいんだよねー』
俺は緊張の糸をたたき切った。
「そんな理由かよ……」
『でもマエシマ、本当に初もうで、来てくれないの~?』
少年の言葉が聞こえるも、俺の睡魔がいよいよ本腰を入れて襲いかかってきた。
眠い。いまにもデスクに崩れ落ちそうだ。
『あれ? どうしたのマエシマ。急につっぷしちゃって』
肩をぐいぐい押してくる少年。だが俺は机においた両腕の中に顔をうずめながら、力なくつぶやくことしかできなかった。
「眠い……。いったん仮眠……」
『お~い、マエシマ~。いま落ちちゃうと、永遠に目ざめなくなるよ~』
「物騒なこというなよ……。とにかくまぶたが重いんだ……」
『マエシマ~。根性み・せ・ろ・よ~』
「無理。もう無理。みせる根性はつきはてた……」
視界は真っ暗。このままなら、数秒で眠りにおちるだろう。
少しの休けいだ。ちょっとだけ。俺の睡眠欲を満足させるだけの軽い仮眠。
『む~。マエシマ、初もうでにいく約束をしてくれないなら、ボクの術法でむりやり目ざめさせてやる。いくよ~。――稲荷豊穣術奥義・冷華置岩!』
そんな声が、聞こえたような気がした。
「ッッッッッッッッッッッッめてえぇぇぇぇ!?」
俺は反射的に机から飛び上がり、目を覚ました。
首の後ろに悪寒が走る。――正確には、物理的な冷たさが俺の首筋を流れる。
『みたか、ボクの術法!』
「ただ冷凍庫の氷を俺の背中に入れただけだろうが!!」
会社の冷凍庫からひとつの氷を失敬し、少年は机につっぷす俺の首元にころんとおいたのだった。
俺は服の中に入った氷をとりだそうと必死にもがく。十秒ほど格闘して、ようやく背中に近いすその先から溶けかけた四角い氷をとりだし、床へ投げすてた。
『でも目は覚めたでしょ?』
「あたりまえだ! こんなイヤガラセされて眠り続けられるやつの顔がみたいっての!」
『マエシマなら、きっと耐えられると思ったんだけどなぁ』
「おまえは俺を起こしたいのか眠らせたいのかどっちなんだよ!」
『起こしたいにきまってるでしょ。ああ、でも氷の件は、ボクの純粋な好奇心』
「結局、俺は実験体か!」
そのとき――。
俺の背後に、なにものかの気配がした。
デスクの前で立ち上がっていた俺は、おそるおそる後ろをふりかえる。
そこには、青ざめるのを通りすぎ、もはや蒼白となった顔の箱崎さんがいた。
「箱崎、さん……!」
まただ。またこのパターンだ。
俺は横目で少年のいた空間を見る。やっぱりいない。やっぱりだ。
視線を戻しつつ、俺はおそるおそるきいてみた。
「え、と、その……箱崎さん、いつから……?」
すると箱崎さんは、首を横にふりながら、なにも言わずにただ後ずさる。
その瞳には「深夜にひとりで叫んで暴れる前島くん」への恐怖の色が濃くうかんでいた。
俺が一歩近づく。箱崎さんは二歩下がる。俺がもう一歩近づく。箱崎さんはもう四歩下がる。俺がさらに一歩近づく。
箱崎さんは逃げだした。
「え!? ちょ、ちょっと箱崎さん! せめてなにか言って……」
俺の声は、職場の出入り口からとび出していく箱崎さんの背中に、ただむなしく響くばかりだった。
――終わった。箱崎さんとの関係が、いろいろと。