2 十二月二十八日 箱崎さんの秘密
師走の寒さが押しよせる夜。
冷たい風が吹きすさび、首をちぢませて歩く人たちが会社の外をいそがしく往来している。
大みそか三日前。明日から冬期休暇という社会人も多いことだろう。仕事納めと称し打ち上げに興じる人、里帰りを計画し早めに帰る人などが、町にあふれているはずだ。
だが俺にとっては、いつもと変わらない平日。
やはりというべきか、俺は当然のごとく会社で残業をしていた。今日は某アプリゲームの年末年始イベントの保守担当だ。
十一月からこれで二か月間、休みなし。
さすがにここまでくると、毎日働くほうがあたりまえで、むしろ休むほうに罪悪感をいだくようにもなってくる。
――俺の心は徐々にブラック企業色に染まりつつあるらしい。
「ダメだ、だまされるな俺。このままでいいはずがない」
首をふり、だがらといってどうするわけでもなく、俺はまたパソコンにむかう。
『――だれにだまされるの?』
ふいに、デスクのむこう側から声が聞こえた。聞き覚えのある、子どもの声。
俺は顔をこわばらせつつ、声のしたほうに視線をむける。ブックエンドで立ておいた紙ファイルの横からひょっこりでてきたのは、あのキツネの少年だった。
『やあ、マエシマ。元気だった?』
――幻覚が始まった。俺はおもわず頭をかかえた。
『あれ。どうしたの。頭痛? こめかみのツボを押すと痛みがやわらぐよ。押してあげようか?』
「結構です」
俺はうんざりしつつ顔をあげる。やはり見える。目をこすって見直しても見えてしまう。キツネの尾をもつ、宙に浮いた小さな少年の姿が。
「やっぱ幻覚――じゃ、ないよな」
『そろそろ現実を認めたほうがいいよ。いい大人なんだからさー』
「おまえに言われたくない……。だいたい、おまえと話してたら――」
そこまで言ってふと気づき、俺はあたりを見まわす。
――大丈夫。職場には俺以外、だれもいない。俺はすこし声をおさえつつ、キツネの少年にきいた。
「――おまえの声は、ほかの人には聞こえないのか?」
『もちろん。声も姿も、ボクの自由自在さ。マエシマは貴重な体験をしてるんだよ。なんてったって大神さまのつかいであるボクのことが見えるし、話もできるんだから。それだけでも感謝してほしいな』
「おしつけがましい……。んで、今日はなんの用だよ」
『もちろん、マエシマを初もうでに連れていこうと、わざわざやってきたのさ』
「わざわざやってこなくてもいいから、さっさとお帰り願えませんかね。俺は仕事でいそがしいの」
『なんだよ、冷たいなマエシマ。いつからそんな冷血人間になったの?』
「冷たいのと冷血なのはちがうだろ。とにかく仕事のじゃますんな」
俺はディスプレイの前に居すわる少年をどけようとする。だが少年は俺の手のひらをかわし、空中にうかんで目の前までとんでくる。
『マーエーシーマー。初もうでにいこうよー。いかないとマエシマの家のベッドに大量のあぶらあげをぶちまけるぞ~』
「神のつかいとは思えない卑怯なイヤガラセやめろ。だから俺はいそがしいんだって」
『でも元旦に仕事するって決まったわけじゃないんでしょ? じゃあ初もうでにいけるよう今からでも仕事がんばろうよ!』
「それをじゃましてるのがおまえだってことに気づけよ……」
俺のつぶやきを無視して、少年はひらひらと宙を舞いながら身を乗りだしてくる。
『あ、そうそう。初もうで、いっしょにいく人、みつかった?』
「いや、そんなのいないし――って、初もうでにいく前提で話すすめんな!」
『じゃあさー、となりのコなんかいいんじゃない? このあいだ、マエシマをみて顔が青ざめていたコ。どうしてあんなに驚いていたんだろうね』
「全部おまえのせいだろ!」
『マエシマ。あんまり怒ると血圧が上がって体によくないよ? 毎日コンビニ弁当なんてろくでもないものしか食べてないんだろうから、怒りっぽくなるのもわかるけどさ』
「弁当は関係ないっつーの! おまえが怒らせてるだけだろ!」
『でもさ、同じくらいの歳でしょ、あのコ。なら誘いやすいじゃん』
ぬかにクギ。このキツネに怒っても疲労がたまるだけだと俺は悟った。
「…………でもまあ無理だろ」
『え、なんで?』
「箱崎さん、性格いいし、見た目もかわいいから、ぜったい彼氏とかいるって。このあいだのクリスマスイブのときだって、退社時間になったらあわてて帰っていったし。たぶんデートでもしてたんじゃないかな」
『なんでよりにもよってクリスマスイブなんかにデートするんだろうね』
「イブだからこそだ! 一年でいちばんカップルがデートすべき日だろ!」
『みんなサンタにへりぐだりすぎなんだよね。あんなヒゲ男のかついだアヤシイ白袋の中になにを期待してるんだろう』
「箱崎さんは成人だからサンタからのプレゼントはもう卒業してると思うけどね!」
『でもさ、もし箱崎さんに彼氏がいなかったら、初もうでに誘うでしょ?』
「まあそれなら誘うかも――ってやべっ! あやうく誘導されるところだった!」
『ほら、隠さなくていいんだよマエシマ。自分に素直になりなよ。じつはあのコのこと、気になってるんでしょ?』
キツネの少年はニヤニヤした表情で近づいてくると、「ほら、ほらあ」と小さなひじで俺のほおをグイグイ押してくる。ああ、うっとうしい……。
「べつに気になってなんか……。だいたい、箱崎さんをみたら、世の中の男性十人中十人がいい子だって言うと思うぞ。だれに対しても愛想がいいし、やさしいし、おしとやかだし」
『へえ、そうなの。でもあのコの秘密、マエシマは知らないでしょ』
「秘密?」
『うん。あのコって、じつは極度の“は虫類好き”なんだよ』
「はちゅうるい……?」
思いもよらない単語がとびだし、俺は目を丸くした。
「は虫類って……いやいやいや。どこ情報だよそれ」
『ボクは大神さまにつかえる眷属だからね。そのコの家に忍びこんで生活を調べることくらい朝めし前さ』
「忍びこんだのかよ!」
『それもこれもマエシマを初もうでにつれていくためさ。あ~あ、マエシマがおとなしく初もうでにいくっていえば、あのコも自分のプライベートをばらされずにすんだのに。マエシマはひどい人間だよね』
「ひどいのはおまえだ!!」
『でも箱崎さんのプライベートの秘密、知りたくないの?」
「し、知りたくなんか、ねーよ……」
『ほらほらマエシマ。言葉に自信がないよ~。ほんとは知りたいんでしょ? ねえ、知りたいんでしょ?』
「だ、だから知りたくなんかねえって!」
『だよね。じゃあ話すけど』
俺の言葉は無視か……。
『あのコ、は虫類が好きすぎて、家で“アムールトカゲ”っていうのを飼ってるんだよ。それも二匹。会社から帰ったら自分のあげたネズミの生き餌をトカゲが食べるさまをみるのが、ここ最近の一番幸せな時間なんだって』
「……いや、そんなわけないだろ。まさか箱崎さんが、そんな……はは……」
『今朝だって、トカゲを両手にもってほおずりしながら“いってくるね~♪”って言って、幸せそうに家を出ていってたよ』
「…………マジで?」
『うっそー』
…………。
表情がかたまる俺をみて、少年が悪びれる様子もなくケタケタと笑い出す。
『アハハハハッ。マエシマ、いま本気でうろたえてたよ~。ほんとにあのコのこと、好きなんだね~。これはぜったい、初もうでに誘わなきゃだね』
「おまえ……人をなめるのもいいかげんにしろよ……!」
『マエシマ、あんまり怒ると血圧が上がって体によくないよ? 毎日コンビニ弁当なんてろくでもないものしか食べてないんだろうから、怒りっぽくなるのもわかるけどさ』
「全部おまえのせいだろぉぉぉぉがぁぁぁぁぁぁ!!」
俺はさけんだ。疲れなどいっぺんに吹きとぶほどに。
『うわー、マエシマが怒ったー!』
「あたりまえだろ! 俺だけじゃなく箱崎さんまでおとしめやがってぇぇぇ!」
俺はイスから立ち上がり、身長十センチの少年に全力でとびかかる。だがこにくらしいほど優雅な動きで少年は俺の手をするりとかわす。どこか楽しそうな顔をしているのがよけいにムカつく。
「まてこら! 逃げんな!!」
『マエシマ、落ち着いて! あんまり暴れてると、よくないことが起きると思うよ?』
「うるせえ! 人間を小バカにするのもいまのうちだ! おしおきしてやるからおとなしくしてろ!」
「前島くん……?」
そのとき、俺の背後から小さな声が聞こえた。
驚いた俺がふり返ると、そこにはスーツを着た女性の姿があった。
箱崎さんだった。
「あっ……」
それだけ言ったまま固まる俺。
箱崎さんは俺のほうを見て、あきらかに戸惑って――というより、怖がっていた。
二の句が継げず、気まずい時間が流れる。
ちらりと横目で少年のいたところを見る。やはりいない。
俺はあえぐように、なんとか口を動かした。
「あ、あの……箱崎さん、どうして……?」
「また机にカギを忘れたから……とりにきたん……だけど」
「いつからいたの……?」
「は虫類が、どうとかっていうところから……」
かなり前だった。全然気づかなかった。
「前島くん……ひとりで腕をふりまわして……私の名前も呼んでたけど……なにしてたの……?」
心配を通りこしてやや警戒するような目つきの箱崎さんに、俺はとっさにいいつくろった。
「し、深夜の、体操、かな。はは……」
翌日、俺に対する箱崎さんの警戒はしばらくのあいだ、解かれることはなかった。