もし、俺が――
部屋には、二人の男が居た。
田上総一は、この1LDKの家主だ。背にしたキッチンで調理をして、テーブルに料理を並べたのも彼である。その斜に座るのは、矢田部樹生。総一の友人だ。
二人は食事をしながら、談笑をしていた。二人は、十年来の仲である。高校時代を共に過ごし、進路は違えど、今でもこうして定期的に、会う仲だった。
「にしても……またウマくなったなぁ」
樹生が、眼前のパスタをするすると平らげながらいう。総一の方は見ず、ぶっきらぼうな言い方であるが、それはそれだけ、気遣いをしなくたって居られる仲であることの証拠だった。
「そうかなぁ」
総一がいう。彼は一口食べるごとに、赤ワインを一口飲んだ。よって、頬は仄かに紅潮していて、パスタは半分以上残っている。
樹生がこどものように、一心不乱にパスタをすする姿を、総一はぼぅっ、と眺めていて、やがて「ふっ」と、軽く笑った。
「……なんだよ」
樹生は少しだけ、ちらりと総一を上目遣いに見ていう。
「べつに」
そういうと、総一はサイコロ状のチーズに手を伸ばした。
樹生は無言で、半分以上空いた総一のグラスにワインを注いでやる。総一がそれを視界の端で捉えながらも何もいわないのは、それが『いつものこと』であるからだった。
「ん」
総一はそれだけいうと、自分のパスタの皿を樹生の方に差し出した。さも、ワインを注いでもらったお礼のように。
本当はただ、総一はあまり腹を空かしておらず、逆に樹生はまだ食い足りなかったのであった。二人はお互いに、お互いが食べることのできる量を把握している。また、先ほどの会話で、今現在の体調も理解し合っている。樹生は黙って総一の皿を引き寄せると、続きを食べた。
「リカの作った料理なんかより全然うめー」
樹生がもごもごといった。リカとは、三日前に樹生が別れたガールフレンドである。樹生はそれを、半分『元カノ』の話として――半分『まだ好きな人』の話としてした。
「そうだろう、そうだろう」
総一はウンウンと、満足気にいった。
樹生は全て食べ終えると、フゥと息を吐いて、話し始めた。
「なんだかなぁ……。いつまで経っても緊張しちゃうんだよ。童貞みてーに。あんなに可愛いとさぁ……。なんつーか、自分を飾っちまう。カッコよく見せようとしてる、自分がいる。それが一番ダセェっつうのに……。わかっちゃいるんだけどなぁ」
総一は相槌を打ちながら聞いていた。そして、ワインを一口飲んで、それを舌に染み込ませるように、味わった。
飲み込むと、舌に渋みが残った。
「こんな感じで会話してぇのよ。これが理想。飾らない、ホントの俺。楽だし、楽しいしでよぉ」
お前が彼女だったら良かったのになぁ。
樹生は冗談をいって、笑った。
悪気もなく。
総一も笑った。
「どっか連れてくとかもメンドクセェーしよぉ。金もかかるし……。お前とだったらそこら辺散歩してるだけで楽しいのにな」
何気なく、樹生はいう。総一が、その一言一言で心を揺さぶられていることなどには、全く気がつくことなど無く。
どうしようか――。もう、いってしまおうか。
今まで何度ともなく思ったことが、また総一の頭に浮かんでは消える。しかし、今日はいつもとは少し様子が違った。アルコールで熱くなった頭の中では、いつもより、その言葉は長く残った。
酔った勢い。
「もし、俺が――」
小さな声だったが――深夜一時の部屋の中で、他に誰もいない空間で――樹生の耳に届くには、十分すぎる大きさの声だった。
「お前のことすきだ、っていったら…………お前、どうする?」
樹生の「えっ?」という声がして――しばらく沈黙。
遠くで電車が、走っていた。
「お前が、俺を?」
ははっ、冗談だろ。樹生は少し笑いながら、いう。
ちらと目だけ動かして見た総一は、顔を赤らめて、でも真剣な顔で、右手のグラスの、ワインの水面を眺めていた。
それは、波打つことをやめない。総一がそれを、テーブルには置かず、持ち上げているからだ。いつまでも、ふるふると震えた。
いつだったか話した、話。クラスメートに、『腐女子』がいる。おおっぴらに、ボーイズラブの話をしてる。きもちわりぃな、アイツら。男同士がいちゃいちゃしてんの見て、喜んでやんの。でも実際、どこまでできる? 手ェ繋げる? まァ、それくらいはできるけどぉ――
『じゃあ、キスは?』
総一は、取り返しのつかないことをしてしまったのだということを知って、震えていた。後戻りのできない道を、歩み出してしまったのだ。
時間を巻き戻すことは、もうできない。もう今さら、冗談だとはいえない。樹生の方が、見れない。友達だったのに。大事な、友達だったのに。すきだったのに。
これは一生内緒にしたまま、生きるのだと、死ぬのだと、決めたのに。
どうしたかったのだろう。もしかしたら、とでも、思ったのだろうか? それとも、秘密を通し続けることが、辛かったのだろうか?
自問自答は尽きず、ただ時間だけが、沈黙とともに流れた。
「ごめん」
樹生が、やがていった。(俺の方こそ)。総一の頭の中に浮かんだが、彼は発せなかった。
総一は、まっすぐ前を向いた。視界の端に、樹生が居るも、そちらを直視することができなかった。謝らなくては。もう、会えない? 総一は、まだ何も発することができない。
いわなくてはいけない、と思うことは、たくさんあった。
だが、総一がようやく発した言葉は――
じゃあ、
もし、俺が――
「女だったら、付き合ってた?」
目鼻の奥が、熱くなって、やがて瞳に、膜が張った。
瞬きをしたら、もう零れてしまいそうだった。
樹生は、なんと応えてやれば良いのか、考えていた。
総一のことをすきか、と問われれば、すきだった。苦楽を共にした、大事な友人であることは疑いようもなく、今後もそうして、一生付き合ってゆくのだろうと、思っていた。
もしも、総一が女だったら?
「女のお前なんて、いねぇだろ」
総一は。ただ黙って、前を見た。
「お前は、お前だろ」
堪えきれず、総一は静かに泣いた。顔を必死に緊張させて、歪めることなく涙を流した。
『キスかぁ……』
樹生は立ち上がると、バッグと椅子にかけたコートを手にした。
総一の後ろを通って、真っ直ぐ行くと、玄関がある。
『キスは……』
樹生は総一の近くで立ち止まると、左手を総一の額に添えて傾かせ、
『ムリだろ』
キスをした。
一瞬、後離れて、そのまま黙って、部屋を出た。
総一はそのまましばらく、ただ天井を、見つめていた。