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「忘れるな、深淵をのぞくものは等しく深淵に見返されているのだ」
『合流できたみたいだね』
パサラの声が頭に響きました。アキナさんの合流を見越して、わたしに逃げ回れと指示をしていたようです。
「パサラ、無茶させすぎだ。防御の能力しかないなら、合流してから行かせればいいのに」
『フォローがきく戦いだったからね。無茶ではないよ』
「ホントかよ……。初戦が一番危ないってのに」
アキナさんは不機嫌そうに肩をすくめました。わたしのために怒ってくれているのかな、と思うと少し胸が高鳴りました。悪い気にはなりません。「ため」と「せい」はまったく違うということぐらい、いくらわたしでもわきまえているのです。
「それで、次はどこだ?」
『「アンバー」と新人のコンビが一体撃破、新人二人の方に向かってる』
「あたしらもそっち合流か?」
『いや、「パール」が一人で戦ってる。こっちの方が近い。エメラルドが空を飛べるから、乗せてもらえばすぐさ』
パサラの話からして、「アンバー」と「パール」というのが残るベテラン「ディストキーパー」なのでしょう。
しかし、乗せて飛べというのは。どうしたらいいのかおろおろしていると、アキナさんがわたしの右手を取りました。
「手を繋いで引っ張ってもらう感じでいいのか?」
『いや、それだと左右のバランスが崩れるから……』
パサラの指示に、わたしは目を白黒させました。顔が熱くて、やっぱり赤くなっているらしく、アキナさんが笑いました。
「いやいいじゃん、女同士だろ?」
ほら、と手を引かれ、導かれるようにわたしはアキナさんの背中に抱きつきました。アキナさんはわたしより頭半分は背が高くて、こうして体を寄せていると妙に安心するというか何と言うか、もにょもにょなのです。
「よし、じゃあ飛んでくれ。しっかり抱えてくれよ」
抱きついた腕をアキナさんがしっかりつかんで、その温度にわたしの心臓はぎゅっと締まるようでした。
靴のかかとを三度鳴らして、背中に風を集め、わたしは地面を蹴りました。ふわりと二人の体は高く上昇し、アキナさんが歓声をあげました。
「おお、すごいな」
あの人がわたしを褒めている。一瞬だけそう思って、すぐにわたしはその思考を打ち消しました。「すごいな」というのは景色のことで、わたしのことではないのでしょうから。よしんば「空を飛ぶ能力」が「すごいな」なのだとしても、これもパサラからのもらいものです。わたし自身がアキナさんに褒められるようなところなど、どこにもないのです。そういう誤解をわたしの中に芽生えさせようとするのが、世界の卑劣な罠なのでした。
アキナさんの肩越しに見る灰色の町は、どんどん後ろに過ぎ去って行きました。同時に、肌に感じるあのぴりぴりした感覚が、強く近くなってきているようでした。これが恐らく、「ディスト」がいるという感覚なのでしょう。
「見つけたぞ」
アキナさんの言葉で、わたしは背中の布の風を調節し、ホバリングします。
地上に目をやると、大きな黒い蛇のようなものがのたくっているのが見えました。やっぱり輪郭がぶるぶるとぼやけていて、幼稚園児の落書きのようでした。あれも「ディスト」なのでしょう。
「降りる。手を離してくれ」
「え?」
「ほら、早く!」
怒られたような気がして、わたしは慌てて手を離します。空中に身を投げ出したアキナさんは両手のグローブに火を灯し、真っ逆さまに落ちていきました。
わたしも降下しようか、と思った時、蛇の「ディスト」の体に強烈な白い光が走りました。集合写真のいつまでも目の裏に残るあのフラッシュを、三倍くらいにしたような強烈な光でした。
目をぎゅっと閉じて何とかこらえました。一瞬墜落するかと思いましたが、耐えました。残像が残る視界を開くと、蛇の「ディスト」の姿は影も形もありませんでした。
アキナさんは? 慌ててその赤い頭を探すと、しっかりと近くの建物の屋上に着地していました。わたしのその後ろに降りました。
「何だ、片付く直前だったとはな」
気楽に言って、アキナさんはわたしに外国人みたいに両手を広げて見せました。
「遅い」
どこか不機嫌そうな、つっけんどんな口調の言葉が飛んできました。声のした方に目をやると、建物の下から一人の女の子がジャンプしてきました。
「わたし一人で倒してしまったわ」
光沢のある白のロングヘアの少女でした。黒地に白いラインの入ったスカートをはき、頭に四角いゴーグルを載せて、両手には拳銃が握られていました。この人が「パール」なのでしょう。
「よく一人であんなでかい蛇を倒せたな」
「龍よ。角があった」
訂正して、パールは拳銃を腰のホルスターに仕舞うと、左手の人差し指をアキナさんに突き付けました。
「あなたとは年季が違う」
「年季って、三日しか違わないじゃないか」
処置なし、といった具合にアキナさんは首を振りました。
アキナさんのような人にこんな口を利けるなんて一体何者なのか。わたしは「パール」の顔をまじまじと見つめました。どこかで見たような気もしますが、思い当たる人間はいませんでした。
「ああ、そうだ。こいつが『パール』の成田トウコだ」
名前を紹介されてもピンとは来ませんでしたが、ともかくわたしは会釈しました。当のトウコさんはわたしにちらりと視線を送っただけで、興味なさげに見えました。
「新人の『エメラルド』の……」
「葉山ミリカでしょ? 知っているわ」
「パサラに……」
「聞く前から」
ぴしゃりぴしゃりとかぶせて、ようやくトウコさんはわたしの方を向きました。つかつかと歩み寄ってきて、無遠慮にわたしのことを頭の先からつま先までじろじろと見回します。たじろいでわたしが数歩後ずさると、追うように進み出てきました。
「あなたのような人畜無害なタイプが『ディストキーパー』になるとはね」
本当にわたしのことを知っているような口調でした。
「知り合いだったのか?」
「去年隣のクラスで、体育が同じだった」
そういうことか、とずっこけそうになりました。道理で見たことがあるはずです。
「マラソンで最下位だったから、よく覚えてる。葉山さんが来るまで待ちましょう、って言っていたから」
嫌なことを思い出させるものです。体育の無神経なオバサン先生が先導した、冬の風の中でも生ぬるい拍手が耳によみがえってきました。この一言だけで、わたしはもうトウコさんが苦手になりました。マラソンは最下位でも、人を苦手になる速さはトップクラスだと自負しています。
『そちらも終わったみたいだね。「アンバー」たちの方も終わったよ』
唐突なパサラのテレパシーが、救いの声のように聞こえました。
『どうする? このまま合流して残りのメンバーと面通しするかい?』
アキナさんはわたしとトウコさんの顔を見比べました。
面通し、と言われて、わたしはあの生き残った三分の一が「ディストキーパー」になっているかもしれないことを思い出しました。
わたしは人見知りなので、そういう自己紹介大会は苦手でした。加えてあの女もいるとなると、二の足どころか十は踏んでしまうところです。
「必要ない。いつか必ず会う相手なんだから。それに慣れ合ってもいいことないし」
トウコさんはそう言って首を横に振りました。アキナさんはやれやれ、と言うようなため息をついて、「だそうだ」と短いテレパシーを送りました。
『了解。じゃあ、今日は解散ということで。お疲れ様』
ああお疲れ、とアキナさんが応じて、交信は終了しました。
「じゃ、帰るわ。あたしここ近くだし」
「インガの裏側」と「人間界」は、地理的に同じなのだそうです。
「ミリカも、また頼りにさせてもらうよ」
「あ、はい……!」
ちょっと寂しそうな顔で笑って、アキナさんは手を振って建物を降りていきました。
「葉山」
アキナさんの姿を見送ってから、トウコさんはわたしの苗字を呼びました。
「な、なんですか?」
「忘れるな、深淵をのぞくものは等しく深淵に見返されているのだ」
突然で、意味がよく分かりませんでした。後で調べて、有名な哲学書の一節なのだと知りました。多分トウコさんは、マンガか何かで知ったのだろうと思います。よく引用されている箇所のようでしたから。
この時わたしは、単に新人に対してかっこいいことを言ってみたかっただけなのかな、と思っていました。どこか得意げな顔をしていましたし。
今、わたしはよくこの言葉を噛みしめます。トウコさんは、思えば不思議な人でした。いつも無表情な割に、感情が読みやすい。複雑なようで単純で、でも一筋縄ではいかない。苦手だけれど、どこかわたしと通じるところがあるような。
あの人には、何か予感めいたものがあったのかもしれません。