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深淵少女エメラルド  作者: 雨宮ヤスミ
[一]石ばかりの袋
3/31

1-3

『よろしく頼むよ、エメラルド』

 

 

 初めて「ディスト」と戦ったのは、その日の夜でした。


 頭の浅いところからパサラの声が聞こえて、わたしは進まない宿題から顔を上げました。


『「ディスト」が出た。場所は君の家の近くの――』


 恐る恐る窓から外を見ました。パサラの告げた地名は、わたしの家から目と鼻の先でしたが、どこにも異常はありません。あえて言うならば、どこかぴりぴりと空気が震えているような気がする、そんな程度でした。


『まだ「人間界」には出て来てないよ』


 パサラが言うには、「ディスト」が発生するのは、「インガの裏側」と呼ばれる場所だそうです。この「インガの裏側」から「ディスト」が出てくると、「人間界」の「インガ」に深刻なダメージが入るというのです。


『だから、「インガの裏側」で食い止めるのが、「ディストキーパー」の仕事なのさ』


 早く来てくれ、とパサラは急かします。


 わたしは鞄の中から「ホーキー」を取り出して、部屋の姿見の前に立ちました。


 よく言えばゆるくウェーブのかかった、言葉を飾らなければうねったくせ毛が肩まで伸びた、幼い顔の生き物が映っています。グレーのスウェットの上下で、たるみきった顔をしています。目は淀んでいて、焦点が定まっていません。


 いい印象とは言えず、今を時めく女子中学生には見えませんでした。あまり長く見つめていると死にたくなるので、ともかく変身することにしました。


 スウェットを膝までずらし、下着丸出しでちょっとがに股になって、腿の付け根に鍵を差し込んでいる様子は、お世辞にもかっこいいとは言えませんでしたが、「コーザリティ・サークル」はするりと鍵を飲み込んでくれました。


 ひねると「ホーキー」は中に吸い込まれ、体が光に包まれました。それが晴れると変身が完了していました。


 部屋着のスウェットの上下は白地に緑のラインが入った膝丈ワンピースに変わりました。柔らかくそれでいて丈夫な、光沢のある材質でできています。腕のカバーやブーツも同様でした。髪と目の色は緑に変わり、頭には羽のような飾りもついて、いくらか野暮ったさが緩和されましたが、奇抜すぎるのは嫌だなあと思いました。


 背中には、肩甲骨の辺りに二対の細長い布が大きなボタンのようなもので留められていました。表面にパサラの首輪と似たような文様が描かれています。布は床に先が着くくらいに長いのですが、垂れてしまうことはなくその形を保っていました。これに風を集めると飛べるのだ、そんな確信がありました。


 左腕には丸い盾がついていました。表面を見ると、透明なカバーの下に扇風機のような羽が収まっていました。手をかざすとカバーが開いて、羽を取り外すことができました。


 羽の縁は鋭利な刃物になっていて、これを投げつけて攻撃しろということのようです。武器らしいものは、それ以外には見当たりませんでした。


 「守りの風」。パサラにそう言われたことを思い出しました。守ってばっかりで勝てるのだろうか、と不安になり、受身がお前の人生だろうと言われている気になって、やっぱり暗い気持ちになりました。


『変身できたようだね。じゃあ、「インガの裏側」に入ってくれ』


 パサラに促されて、わたしは部屋のドアの前に立ちました。指示によると、どんな扉でも「ホーキー」をかざすと、「インガの裏側」への入り口になるのだそうです。


 胸元についていた「ホーキー」をかざすと、ドアノブの上に「コーザリティ・サークル」と同じ模様が浮かびました。鍵をさして回しドアを開きます。


 その向こうは灰色の世界でした。見知ったわたしの家なのですが、すべての色が剥げ落ちたようなねずみ色で、むき出しの何かに圧倒されるようでした。


 部屋のドアを閉めて、わたしは「インガの裏側」を走ります。灰色のわたしの家にはお母さんもお父さんもおらず、色の失せた両親を見ずに済んで、何だか少しホッとしました。わたしの衣装の緑色だけが、この世界の色彩でした。


 玄関を出て、マンションの共用廊下に出ると、「人間界」で感じた時よりも一層空気が震えているようでした。


『飛んで行けばすぐだ。急いでくれ』


 パサラの声で、わたしは恐る恐る廊下の低い壁から身を乗り出しました。わたしの家は八階で、コの字型に囲まれた中庭を見下すとくらくらしました。


 バッと飛び降りるような真似は、わたしにはできません。できないのです。だから、お尻から外に降りて、壁からぶら下がるような格好になってから、両手を離しました。


 七階、六階、五階。落ちて行く中で背中の布が大きく広がります。四階、三階、二階、一階、地面に達する前に、布が大きくはためいて風を捕え、わたしの体は急上昇しました。


 ひどいめまいのような感覚の中で、わたしは大きく体をひねります。何とか、空の上に立つような姿勢になった時には、わたしのマンションは遥か足の下でした。


 灰色の街並みが一望できました。よく知っている公園や、商店街のアーケード、学校も、すべてが見渡せました。これが本当のわたしの町だったら、どれほど絶景だったでしょう。


 その中に、黒く大きな影が見えました。手振れのような輪郭の、手足が異様に長い巨人。頭には白目と黒目の色が反転した、大きな眼が一つ光っています。


『視認したね』


 パサラが呼びかけて来て、わたしはテレパシーなのにうなずいて応じました。


『緑色の「ディストキーパー」。君は今日から「エメラルド」と名乗るといい』


 エメラルド。人の名前風にしてやろうとか、そういうひねりのまったくない宝石の名前でした。ブロッコリーとか青虫とか、あまりいいイメージのない緑色でしたが、エメラルドと考えると好きになれそうでした。


『よろしく頼むよ、エメラルド』


 はい、とわたしは口に出して答えました。珍しく自分を奮い立たせようとしたのと、やはり空を飛んで気分も高くなっていたのでしょう。何でもできるような、そんな気持ちになっていました。


 ただそれは、いつも世の中がわたしに対して仕掛けてくる罠の一つで、わたしはそれをここまでの人生でよく知っていたのに、たった一人の人間を消しただけでもう変わったと思い込んで、調子に乗ってしまっていただけなのでした。


 間近で見る「ディスト」は、ちょうどわたしの住んでいる一二階建てのマンションと同じくらいの高さでした。幼稚園児がクレヨンで塗りたくったような、ぎざぎざとぶれる線で描かれた細長い体格で、鉄塔が暴れ回っているようなイメージでした。


 「ディスト」は胴体の三倍くらいの長さがある手足を振り回して、わたしは悲鳴を上げながらその間隙を涙目で逃げ回るしかできません。例の盾についている「羽カッター」を取り出して投げる暇なんてありませんでした。


 「ディスト」は荒れ狂う台風のようでした。わたしは風で緑の「ディストキーパー」ですが、それはそよ風程度のもので、せいぜい敵の薙ぎ払う長い腕の軌道を、自分が殴られないように受け流すのが精一杯でした。


『いいぞ、そのまま引きつけていてくれ!』


 パサラが無責任に言います。何だこの毛玉今度会ったら毛をむしってしまおうか、と思いましたが、話によればこの「ディスト」の細腕の力程度なら、わたしの風は押し負けないとのことでした。


 だからそれを利用して、這いずり回って逃げ回って、ともかくこの「インガの裏側」の建物を壊させないようにしないといけないのだそうでした。建物や道路――パサラは「オブジェクト」と呼んでいました――の破壊が一定以上に達すると、「人間界」へ通じる穴が開いてしまうというのです。


 避けたり風で受け流したりすることで、余計に破壊が広がるような気がしましたが、とりあえず逃げていればいいのなら得意分野ではあるので、わたしは指示に従いました。伊達に、ドッヂボールで何もできないのにいつも最後まで残ってしまって気まずい思いをしてきたわけではありません。


 耐えて引きつけて、それでどうするのだろうと思った頃、上から「伏せろ!」という声が降ってきました。反射的に身をかがめると、わたし背をかすめて炎の塊が通り過ぎ「ディスト」の大きな体をなぎ倒しました。


 顔を上げると、赤いショートカットの女の子がわたしに背を向けて立っていました。胸に装甲のついたタンクトップ、下にはショートパンツを履いていました。両手に大げさな手袋をはめています。


 「ディストキーパー」だ、とわたしはすぐに理解しました。白地に赤いラインのデザインがわたしのものと似通っていました。


 「ディスト」が人や動物では決して出せないようなうなりを上げながら上体を起こします。似ている音を上げるなら、電車が急ブレーキをかけた時に車輪とレールがこすれる、あの耳をひっかくような音を野太くした感じでした。


 その未知の奇声に、わたしは身を固くしました。しかし巨人型が立ち上がる前に、その顎を赤い「ディストキーパー」の炎をまとった拳が捉えました。


「邪ッ!」


 掛け声と共に放たれた炎の拳が「ディスト」の白い単眼の中心を貫き、そこから真っ二つに割れて発火、燃え落ちて行きました。


「大丈夫か?」


 灰色の町に咲いた鮮烈な炎の赤。降り注ぐ火の粉を背景に振り向いた女の子の顔に、見覚えがありました。わたしの通う「鱶ヶ渕中学」の有名人でした。


「新人だろ? あたしは『ルビー』の漆間アキナ」


 ごくごく自然に伸べられた手を、わたしは思わずつかんでいました。同時に、こういうことがさらっとできてしまうこの人は、やっぱりわたしとは違う次元の人間なんだな、と思い知らされました。嬉しい半分、申し訳ないような気持ちでした。


「ご、ごめんなさい!」


「何謝ってんだよ」


「ごめんなさい……」


 変な奴だなあ、と笑われました。快活な笑いだったので、さすがのわたしも嫌な気にはなりませんでした。ただ、どうしたらいいのかは分かりませんでした。


「『エメラルド』の葉山ミリカだろ? それもパサラから聞いてる。ミリカって呼んでいい? あたしもアキナでいいから」


「はい、アキナさん……」


 呼び捨てにはとてもできませんでした。大体わたしのような身分のものが言葉を交わしていい人ではないのです。しっかりした意志を感じさせる眼をした、孤独ではなく孤高の人。一人でいても誰にも文句を言われない、強くまぶしいお方なのです。


 アキナさんが、その名を街中に知らしめたのは、小学校六年生の時でした。元々スポーツの世界では、「天才空手少女」として有名だったそうですが、わたしのような人間にもその名が知れたのがこの時でした。


 その頃、この鱶ヶ渕では、変質者の被害が相次いでいました。わたしの小学校でも、図書館の近くで声を掛けられたとか、塾の帰りに男性の下半身を見せつけられたとか、そういう目に遭った子が何人もいました。


 それを退治したのがアキナさんでした。正拳をまともに顎に受けて、今の「ディスト」よろしく変質者のおじさんはあえなくノックダウンしたそうです。


 このことは「お手柄! 空手少女」という見出しで、新聞の地方欄をにぎわせました。もちろん、記事に名前は載っていませんでしたが、地元ではどこの誰のことかは、すぐに噂になるものです。


 同時に、こんな噂も流れました。アキナさんはたまたま変質者と出くわしたのではなく、被害に遭った友達のために退治しようとして見回っていたのだ、と。


 そんな正義感の強い立派な女の子と同じ中学になるのか。六年生だったわたしは、少しこの漆間アキナという女の子に憧れたのでした。


 ただ、中学に上がってからの現実は惨憺たるものでしたが。

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