6-1
(オリエがボクの、お母さんだったらよかったのに……)
葉山ミリカを見送った成田トウコの右手には、しかし拳銃は握られていなかった。本当は予備の拳銃などはなく、ミリカが見たと思ったのは改ざんされた視覚情報であった。
「いいのか、片方だけで?」
漆間アキナの疑念に、トウコは表情を変えずに応じる。
「あの子はわたしの弟子。師匠が弟子に施しをするのは当然」
「カッコつけすぎだ」
強敵だぞ大丈夫かよ。アキナは十字型の「ディスト」を見上げる。周囲の建物よりも遥かに大きな紫の無機質な怪物は、目を光らせては雷を無差別に降らせていた。
「問題はない。アキナ、あなたと一緒なら」
「照れるな、そいつは」
トウコの唇の両端が少しだけ上がっているのを見て、アキナも笑った。うなずき合い、拳銃とグローブを合わせる。
次の瞬間には二人は各々別方向に跳び、巨大な終末の十字架へ躍りかかっていった。
計画は最早止まることはない。
立花オリエの体に取り込まれた七〇の「インガの歯車」はしっかり噛み合い、手巻き式時計のように精密に、クォーツ式時計より正確に、終わりへの時を刻んでいく。
邪魔をするものはもういない。「最終深点」まで達した「ディストキーパー」が二人いても、あの「ディスト」は倒せない。よしんば倒せたとしても、相当な時間がかかるはずだ。
「ディスト」の強さは蓄積された「インガクズ」に比例する。それは体の大きさも同じで、つまり巨大で密度の高い「ディスト」ほど強力であると言える。二十数年の「ディストキーパー」経験を持つオリエも、あんな大きさの「ディスト」に遭遇したことはない。当然だ。この計画のために温め続けてきたのだから。
オリエがパサラと出会ったのは、今から二二年前、本当に一四歳だったころのことだ。
あの時パサラは、オリエとその妹――エリオの前に現れたのだ。
エリオは当時小学六年生で、パサラの『平たく言えばどんな願いでも叶えられるってことだよ』という説明を純粋に受け止め、簡単に承諾しようとした。
それをオリエは制止した。
(よく考えなさい、ずっと戦い続けるなんて割に合わないわ)
思えばこの時すでに、オリエはパサラへの不信感を抱いていたのかもしれない。
(妹はまだ幼くて危なっかしい。わたしがやります)
エリオをかばうような形で、オリエは「ディストキーパー」となった。
「最初の改変」は「世界を平和にする」こと。世界平和にどこまで本気だったか当時も今もよく分からない。中学二年生程度の精神では、それが「何となくよさそう」に思えたのだろう。自分の欲望をさらけ出してしまったら、足元をすくわれるような気がしたためでもある。
結局、『それが簡単にできないから「ディストキーパー」が必要なんだよ』とパサラに言われ、「オリエの周囲でトラブルが起きない」というものに変えられた。
トラブルが起きない。それはよっぽどわたしたちにぴったりで、いいかもしれないわね。当時のオリエは、ため息と共にそう独りごちたものだ。
パサラが現れた、つまり過剰に不幸と判断された姉妹に、その頃何があったのか。それはどこにでも転がっている不幸――両親の不仲であった。
ストレスを溜めこみやすい父は、酒に酔って母につらく当たることがあり、母はその度にヒステリックに泣き、その鬱憤を娘にぶつける。立花家でうんざりするほど繰り返された、日常であった。
それがなくなる。普通の家族になれる。オリエはそう考えていた。
だが、それは違った。確かに、オリエは母親から当たられることがなくなった。だが、あくまで改変の範囲はオリエ一人なのだ。姉妹二人で分かち合っていた不幸の石つぶては、妹一人に降り注ぐことになる。
中学に上がったエリオが非行に走ったのは、オリエには仕方のないことに映った。
この頃母親は、「お姉ちゃんはちゃんとしてるのに」とオリエを引き合いに出すようになっていた。エリオがそれに反感を抱いても、改変に守られているオリエには何も言えない。そのはけ口が外に向かったのは、自然なことに思えた。
家に寄り付かない娘のことで、父は母を怒鳴り、母はその苛立ちを娘にぶつけ、ますますエリオは家に帰ってこなくなる。
そんな肉親の繰り返す悪循環を、同じ家に住みながら、オリエはどこか遠くのことのように見ていた。家庭でも「インガの裏側」にいるかのようだった。自分だけが色彩を持っていて、後は灰色の世界。
(結局『インガ』を変えても、わたしは不幸なままなのね)
自分だけを切り離した罪悪感と共に、オリエはそんな思いを抱いていた。
パサラから中学生をループする話をされたのは、中学を卒業する間際だった。『家族ごとループすることはできない』と言うパサラに、オリエは「構わない」と答えた。
灰色の世界から離れたかった当時のオリエには、正に渡りに船の提案だったのである。
また、エリオがオリエと比べて「何で自分ばっかり」と思っているのなら、彼女は一人っ子になってみた方がいい、とも考えたのだ。
こうしてパサラの用意したマンションに移り住み、「家庭の事情で一人暮らししている中学生」を二十年以上演じることになる。
でも、あの選択は間違いだった。オリエは屋上に倒れたままのスミレを見下す。
スミレはあの「ディスト」を産み落として以降、死んだようにぴくりとも動かない。
「ディストキーパー」の死は、二つある。「ディスト」に殺されるか、「インガクズ」を孕み過ぎ、「ディスト」を産んで死ぬか。
オリエ自身は「インガクズ」を定期的に琥珀に封じ込めて外に排出してきたため、「ディスト」を孕む心配はなかった。これも『アンバー』の『ディストキーパー』の寿命が長い一因である。だが、その長い「ディストキーパー」人生の中で、「ディスト」を産んで死んだ者を何人か看取ってきた。出産の反動で衰弱し、数分で事切れるのが常であった。
(オリエがいいって言うから、いいんだよね。オリエが間違いって言うから、やっぱり間違ってるんだよね。ボクがおかしいんじゃないんだよね。そうだよ、そうだよね!)
昨日、興奮したスミレがそうまくしたてていたのが思い出される。屈託のない笑顔で、ようやく長い抑圧から解放されると信じて。本当に哀れな――
(オリエがボクの、お母さんだったらよかったのに……)
すぐに首を振って、オリエは脳裏に浮かんだ映像をかき消した。「あら、お姉さんよ」と冗談めかして言いながら、だけどオリエも――
オリエはスミレから背を向ける。校舎から離れても尚その威容を見せる、巨大な十字架に敢えて目を向けた。
家を離れてからも、エリオに注意を向けてはいたが、定時制高校を辞めて鱶ヶ渕を離れてしまってからは、足取りがつかめなくなった。どうやら当時付き合っていた男と二人で、駆け落ち同然に町を出て行ったようだった。
無論、パサラに調査を頼めば、エリオがどこで何をしているかは知れただろうが、そこまでして知る気もなかった。ただ、駆け落ち男の実家の動きは気にかけることにした。いつかエリオが帰ってくるのなら、憎い両親の下ではなく、こちらだろうから、と。
両親は、エリオが家を飛び出してから程なく離婚してしまっていた。元々合わなかった二人なのだろう。今となってはそう思う。こうして、かつての家族はバラバラになった。
みんな、変わっていく。かつての同級生たちも、進学や就職をし、自分の人生を歩み、進んでいる。結婚して家庭を持っている者もいる。それなのに、自分だけが同じ場所をぐるぐるぐるぐる回って。取り残されているような感覚が、日ごとにオリエを覆っていった。
大きな転機が訪れたのは、今から七年前のことだ。
エリオと駆け落ちした男の実家に、一人の少女が連れてこられた。
少女の顔を見た時、エリオの娘だとすぐに分かった。
何故なら彼女も、かつてのオリエやエリオと同じく、「過剰に不幸」な顔をしていたから。




