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「いいです。やります。死にそうなのも痛いのも、今と同じですから」
『まあ、一つだけなんだけどね。そうそう、どこまでが「一つ」というくくりになるのかは、こちらで判断させてもらうよ』
パサラは先回りしてそう釘を刺しました。この毛玉の言っていることはつまり「ディスト」という怪物との戦い――それがどれくらい続くかは分かりませんが――それに関わる対価を、全部ここで先払いしてしまうということに他なりません。
「最初にお前のためにやってやっただろう」ということを人質にして、人をこき使おうという思考でしょうか。「産んでくれた親には無条件で感謝」みたいな考え方で、わたしが馴染めない世界の一端でした。
『質問があるなら受け付けるよ。どうぞ』
こう言われたことは、今までの人生で何度もありましたが、いつもわたしは「特にないです」と答えていました。しかし、この時初めて、わたしは尋ねてみようという気になっていました。それだけ、パサラの言う「世界を思う通りに変える」ことに興味があったのかもしれません。
「『ディスト』とは、どれくらいの期間、戦わないといけないんですか?」
『死ぬまで』
淀みなくパサラは答えました。
「その戦いは、どれくらい危険なものなんですか?」
『規模にもよるけど、すごく痛かったり、死んじゃうかもしれない』
「戦いで死んだ場合は……」
『私たちが「インガ」をいじって、この世に最初からいなかったことになるよ』
「ディスト」に壊されたものは、基本的に修正がきかないのだとパサラは言いました。ただ、その壊されたものが「最初から存在しなかったこと」にはできるのだそうです。
「『ディストキーパー』ってわたしだけなんですか?」
『私の担当区域には三人。近日中にあと四人増やそうということになってる』
わたしの住んでいる鱶ヶ渕≪ふかがぶち≫とその周辺の区割りは、ちょうど公立中学校の学区域と重なっているそうでした。
「どうして、わたしに声をかけたんですか?」
『君が「過剰に不幸な人間」で、たまたまこの場所にいたから』
確かに、わたしの袋には、石の数が多いように感じます。今日は特に、大きな石を引いてしまいました。久しぶりに手に入れた宝石が、このパサラなのでしょうか。
「『世界を変える』って、どれくらいのことができるんですか?」
ん? とパサラは意外そうに黒い目を見開きました。
『やる気なの?』
断られると思っていたよ、とパサラは目を瞬かせました。目蓋にまで毛が生えていて、ああだからまつ毛がないんだ、と妙なことばかりに目が行きました。
『大抵は死ぬとか痛いとかで、断られるんだけどね』
今日も君で五人目なんだよ、とパサラの口調はどこか疲れたようでした。
だったらそういう危険なところを隠しておけばいいのに、とわたしはよからぬことを思いました。けれど「黙っていれば分からない」をしないのは、誠実にやっているのだろうなと、この耳の生えた毛玉を少し見直しました。
『断られると「インガ」を改変して、私の存在を忘れてもらわなきゃならない。でも、そうするとまた「ディスト」が生まれる。不毛な堂々巡りさ』
皮肉なものだろう、と毛玉は風に吹かれた風船のように揺れました。
「その人たちも、『過剰に不幸な人間』なんですか?」
『程度の差はあるけどね。……まあ、みんな君ほどじゃない』
何故か安心しました。生まれて初めて、お前は特別だと言われた気になりました。
『それで、「世界を変える」件だけど……そうだね、今まであったものだと、「誰かの存在をなかったことにする」とか、他の地域だと「好きなマンガの連載を終わらせない」とか』
「誰かの存在を――なくす?」
『できるよ。改変としてはメジャーなやつだし、私も楽でいい』
背中を押された気分でした。何よりそれがわたしの一番の望みでしたし、あまり面倒なことを頼んで、嫌な顔をされたくありませんでしたから。
『本当にいいのかい?』
「いいです。やります。死にそうなのも痛いのも、今と同じですから」
世界を変えて、もし「アレ」がいなくなるのなら。それは今よりよっぽどマシになるということだから。この時のわたしは自棄になっていて、今より少しでもよくなるならば、地獄でもなんでも行ける気持ちだったのです。
そういう部分は、今でもあまり変わっていないのかもしれません。
『そうかい、そう思うのかい。今と同じ、と……』
つぶやきながら揺れるパサラは何だか悲しげに見えて、わたしは何故かひどく胸が痛むようでした。
『君に声をかけたことを後悔したよ』
どうして、という問いにパサラは結局答えてくれませんでした。
『まあいいさ。それで、誰を消すんだい?』
わたしは「アレ」の、あの女の名前を告げました。本当は三人いたのですが、わたしという人間の精一杯は、一人を消すことだけでした。パサラに言っていれば、もしかしたら三人まとめて消してくれたかもしれません。ただ、それに気づいたのは翌日だったので、後の祭りも大盛況と言っても言い過ぎではない感じでした。
『ちょっと待ってね……うん、よし、消えたよ』
迷惑メールを消すぐらいの気楽さでした。特に呪文とか作業が必要なわけではないようです。わけもない様子で、パサラは言いました。
『×××××は、この世界に最初からいなかった。そうなった』
とても信じられなかったので、わたしはトイレの個室を出て、自分の教室へ向かいました。廊下は暗く、空は赤くて、もう遅い時間なのだなと今更ながらに思いました。
教室は施錠されていたので、引き戸の窓から机の数を数えます。わたしのクラスは三二人。机の数は、三一でした。
『ほら、消えているだろう?』
「名前、見ないと……確認……」
パサラは引き戸の鍵穴に、尻尾の先で触れました。カチャリと音がして鍵が外れ、わたしは教室の中に入れました。
教室の後ろにあるロッカーの名札を見て行くと、×××××の名前はありませんでした。
教卓の上に放置されている座席表にも、×××××の名前はありませんでした。
出席番号は×××××を飛ばして一つ詰めていました。
『納得したかな?』
わたしはコクリとうなずきました。わたしが笑ったのを見て、パサラはまたふわふわと揺れました。
『では、次はこちらの用事だね。お腹を出してくれるかな?』
夕陽の差す教室の真ん中で、少し恥ずかしいな、と思いながらわたしは制服の裾をめくりました。パサラはそこにおでこをくっつけます。
「あ、や……!」
ふさふさした体がくすぐったいなと思った時、パサラの赤い首輪が緑色に光りました。
『君の気質は「守りの風」だ』
パサラはわたしから体を離すと、尻尾を曲げてわたしの鼻先に突き付けました。ネコの手のようなそこには、一本の鍵が握られていました。
『今、君の気質から精製した。「ホーキー」という。有体に言って、変身アイテムだね。なくしちゃダメだよ?』
わたしは右手でそれを受け取って、まじまじと見つめました。鍵山が四角くてレトロな印象でした。大体シャープペンシルぐらいの大きさで、お尻の方には緑色の宝石と、羽箒がついていました。箒とキーを引っ掛けて「ホーキー」なのでしょうか。
わたしは手の平に食い込んで痛いくらいに、ぎゅっと鍵を握りました。なくしちゃダメと渡されている鍵ほど、なくしてしまうわたしですから、落としてしまわないように。
『変身するには、体のどこかに浮かぶ「コーザリティ・サークル」にそれを差し込むんだ』
「痛い?」
『いや、「サークル」は概念的なものだから、肉体に痛みはないよ』
鍵を握っていると、左足の付け根がうずくようでした。わたしはパサラに背を向けて、制服のスカートをめくってみました。
すると、腿の内側に円の中に「太」という字が入ったような模様が浮かんでいました。牛乳瓶のキャップぐらいの大きさでした。さっきまでは確かになかったものです。
「太」という字の「丶」の部分は「○」になっていて、この中に「ホーキー」を差し込むんだな、と何故かすぐ理解できました。
「何でこんな変なところに……」
『どうかしたの?』
「な、なんでもないです」
パサラがのぞきこんでこようとするので、わたしはサッとスカートを押さえました。パサラが男なのか、それ以前に性別があるのか。今でも分かりませんが、どちらにしろ気恥ずかしかったのです。
『ともかく、これで君も「ディストキーパー」だ。改めてよろしく、葉山ミリカ』
差し出された尻尾を、わたしは握り返しました。柔らかくて、ぬいぐるみのようで。だから現実感がありませんでした。夕陽の差す教室というのも、何となく夢の中のようで。
わたしにとっては、それはいつも通りである、ということでもありました。
その日はそれで別れました。何せパサラは、後三人の「ディストキーパー」を勧誘しないといけないのです。
方針としては、「インガ」の微調整の対象になるような、「過剰に不幸な人間」を誘うのだそうです。噂で聞く、水商売のお姉さんの勧誘と同じなのかもしれません。「買い物袋を持っていても満足していない顔の人を誘う」とテレビか何かでやっていました。さしずめ、「自分の宝石袋に満足していない人を誘う」のでしょう。
わたしも手伝わないといけないような気がしたのですが、どうにも人としゃべるのが苦手なので、きっと戦力にならないだろうと思い、そのまま帰ることにしました。
『何かあったらテレパシーで連絡して』とのことでした。「ホーキー」を握り締めて念じたら、着信するそうです。
その夜、こっそり変身してみようかと思いましたが、ちょうどそのテレパシーが着信してきたので、見咎められたような気がして、慌ててやめました。内容は、七人の「ディストキーパー」がそろった、という旨でした。
パサラはよく頑張ったんだなあ、と感心する一方で、それだけ「不幸な人間」が多いのか、とわたしと何の関係もないところで暗い気持ちになりました。
翌日、登校して驚きました。わたしが消したかった三人、一人は首尾よく消してもらえましたが、後二人残っています。その二人の内一人が、死んだというのです。
教室中の女子が泣いていました。わたしに流す涙は一滴もないのですが、何だか気まずくなって、わたしも机に突っ伏して、泣いているふりをしました。
死んだ女の机には、花が置かれました。かつてわたしの机に置かれた時よりも、重い意味があるようにみんな振舞っていて、ここにいる全員を消し去ってもらえばよかったと、わたしを後悔させました。
恐らくきっと、わたしのようにもう一人を殺して。生き残った方が「ディストキーパー」になったのではないでしょうか。タイミング的にその確率は高いでしょう。少なくとも、わたしはそう確信していました。別の誰かである可能性は考えられませんでした。
泣いたふりをしている生き残った女が、余計に醜く見えました。何が「親友だったのに。また遊ぼうって言ってたのに」だ。わたしも同じことをしたのですが、向こうの方が仲間のように振舞っていた分、罪は重いんだとわたしはわたしの裁量で決めました。
もしあの女と肩を並べて戦うことになったら。嫌だなあ、とただ当たり前の感想を抱きました。