3-6
「ちょっとおかしいくらいじゃなけりゃ、『ディストキーパー』になれないのかもね」
それは今から五か月ほど前のことでした。アキナさんは、空手の道場の帰りに男に襲われたのだそうです。
「スタンガンか何かを使われたらしいわ」
成人男性をノックアウトしたこともある天才空手少女でしたが、武器で先制攻撃されてしまうと、後は陸に上がった魚のようなものでした。
「襲ったのは、かつてアキナが警察に突き出した男だそうよ」
「そんな……! だってあいつは……」
「責任能力がない、ということで送検もされなかったとか。元々軽犯罪でもあるし」
オリエ先輩は悲しげな口調でした。
「暴行されたアキナの目の前に現れたのが、パサラだった」
そこでアキナさんが選んだ「最初の改変」は、暴行の事実を抹消することだったそうです。
「アキナは犯人を焼き殺し、パサラはアキナの受けた凌辱をなかったことにした」
記憶を残したのはアキナさんの意地だったのかもしれません。何となく分かるな、と水島の横顔を見ながら思いました。
「まあ、パサラがサービスでトラウマにならない程度に薄めたそうだけど」
人の気持ちが分からないくせに、パサラにこういう気の利くところがあるのは、多くの「ディストキーパー」を作り出してきたノウハウが蓄積されているお陰でしょうか。
「アキナには強い怒りだけが残ったわ。社会はきちんと裁いてくれない。そのせいで自分のように泣く者が他にもいる。そんな怒りを元に、素行のよくない人たちに『ディストキーパー』としての力を振るうようになったの」
最初は脅すだけだったのだそうです。それが徐々にエスカレートしたのでした。パサラが積極的に咎めずにいたことも大きかったようです。
「だけど、それから三か月ぐらいで当時のメンバー全員に知れて、今日みたいに大きな問題になった。メンバー間での意見が真っ二つに分かれたの」
「それでオリエ先輩は、賛成派に回ったんですか」
「ええ、消極的賛成だけどね。多少は、事情も知っていたから……」
とりわけ当時の「サファイア」と「エメラルド」からの糾弾は激しかったのだそうです。
「仲のよかった二人でね。二人がかりで、今日のキミちゃん以上に厳しく詰め寄ったの」
「お前は間違っている」「殺人者だ」「その性犯罪者と変わらない、いやそれ以上だ」などと散々な言いようだったそうです。最初は責められるだけだったアキナさんでしたが、「そんなに文句があるなら拳で語れ」と、結果戦闘に発展しました。
「だけど、相手の『サファイア』と『エメラルド』は水と風の名コンビでね」
どこか皮肉のように思えました。今のわたしと水島からは考えられません。水と風の能力をうまく合わせると、吹雪を起こしたりもできるそうですが、わたしたちでは絶対に見られないでしょう。
「そこへ、トウコが割って入ったの」
壊れたビルの上へ目をやると、自分の名前が出たのを知ってか知らずか、トウコさんはいつもの無表情で灰色の空を見上げていました。
トウコさんは当時も一匹狼のような態度で、アキナさんの世直しについては「賛成」とも「反対」とも表明していなかったそうです。
「トウコはそのころから強くてね。『最初の改変』が大きなものであればあるほど、『ディストキーパー』の強さは増すのよ」
そんな仕組みもあったのか、とわたしは驚きながらも納得していました。キミちゃんの改変はこの子らしい良いものでしたが、能力が微妙なのはそのせいなのでしょう。ただ、オリエ先輩の話によると、「最初の改変」で決まるのは言わば「初期値」であって、後からの経験で成長するのはパサラの説明通りだそうです。
「トウコの乱入によって、戦いは互角になった。私闘を止めろ、ってパサラが今日みたいに命令して、当時の『トパーズ』ともう一人、『モリオン』も戦闘に加わったわ」
その頃いたのは「アメジスト」ではなかったそうです。この二人はオリエ先輩の丁度逆で、「消極的反対」みたいな立場だったそうです。
「乱戦の末、アキナとトウコがさっきの『最終進展』に覚醒して、『モリオン』組と『サファイア』組を殺して戦いは終わったわ」
「その時、オリエ先輩は何を?」
「一人で『ディスト』と戦っていたわ」
内輪揉めの間に出現したそうです。この頃からオリエ先輩は苦労をしょい込む性質だったようでした。
「わたしが駆け付けた時には、もう戦いは終わっていたわ。黒焦げの『サファイア』と『エメラルド』、『モリオン』と『トパーズ』の死体が転がっていた」
自分の使っている名前で言われると、背筋が冷える思いでした。もしかしたらわたしたちも、今日そうなっていたかもしれないのですから。
「トウコは平然としていたけれど、アキナは大きくショックを受けたようね」
放心した様子で座り込み、何を言っても返事がなかったそうです。
「いくら犯罪者を裁いていても、仲間を殺してしまうのは、あの子の精神には重たすぎたのね。それが意見の対立する相手であったとしても」
だから、とオリエ先輩は背中の輪っかから琥珀を一つ取り外しました。
「わたしがアキナの記憶を奪ったの。その『インガ』を取り出して、この琥珀の中に封じ込めた」
死んだ「ディストキーパー」はパサラがいなかったことにしていました。初めからいないことになったのなら、とオリエ先輩は考えたのです。
「だから、アキナは前の子たちのこと、何も覚えていないの。自分が『ディストキーパー』になってから、ずっとわたしとトウコと三人でやってきたと思い込んで――いえ、違うわね、アキナにとってはそれが真実なのだから」
キミちゃんは、眉をしかめて大きく息をつきました。
「だから見逃せって、そう言うんですね?」
「わたしとしては」
「それも、素敵だからですか?」
やっぱりキミちゃんにしてはトゲのある言い方でした。スミレの「最初の改変」についてオリエ先輩が言っていたことを揶揄したのでしょう。確かに「誰かを殺してしまうより、自分を変えることの方が素敵」だと評価していました。その矛盾を突いたようです。
「そうね。一つは、無為に『オブジェクト』を壊すのはよくないということ。もう一つは、仲間内で戦うのはよくないということ。キミちゃん、また戦う気でしょ?」
「それは……」
目を伏せたキミちゃんを見て、オリエ先輩は悲しそうに眉を下げて笑いました。
「そして最後は、生き方の問題ね」
オリエ先輩が言うには、生きる方法は二つしかないのだそうです。
「自分を世界に合わせるか、世界を自分に合わせるか。そのどちらを選ぶかの話であって、最早何が正しいとか間違いだとか、そんな話ではないの。
もっとも、普通の人間には世界を自分の思う通りにするほどの力はないのだけれどね」
けれど、わたしたちにはそれができる。はっきりとは言いませんでしたが、オリエ先輩の言おうとしているのはそういうことでしょう。アキナさんも「力があるものがしなければ誰がするのか」みたいなことを言っていましたから。
否が応にも、「最初の改変」の時にパサラから言われた言葉が思い出されます。「ディストキーパー」になってしまえば、「変えられること」は最早一つではないのかもしれません。
「せいぜい、自分が何をするべきなのか、考えなさい」
オリエ先輩はそこで話を打ち切って帰ってしまいました。
むくれたようにキミちゃんは道路に座り込み、わたしは何と声をかけていいのか分かりませんでした。
「力、ねえ……」
水島は何だか深刻な顔で自分の手の平を見つめて、そんなことをつぶやいています。
「そう難しい話でもない」
ようやく降りてきたトウコさんは、誰ともなしにそう言いました。
「オリエは『最初の改変』で、真顔で『世界平和』を願うような人間」
「そんなのできるの?」
水島の問いに、トウコさんは小さくかぶりを振りました。
「結局、『オリエの周りで永久にトラブルが起きないようにする』ということで、手打ちになったらしい」
「そんなのも有りなの!?」
目を丸くしたのはキミちゃんでした。
「それがありなんだったら、『父さんの会社をずっと黒字』とかにすればよかった」
「あたしも、『一生人間関係のポジション取りで苦労しない』にしといたら……」
キミちゃんはどこまでいってもお父さんの会社が心配なようです。水島もある意味で一貫しています。わたしだったら――三人まとめて消してもらうのが関の山でしょう。常時何かしてもらえたら、と願うのはわたしなんかにはもったいないような気がするのです。
「そう言えば、成田さんは何を願ったの?」
わたしも少し気になっていました。さっきのオリエ先輩の話では、トウコさんは最初から強くて、それは「最初の改変」の改変度合いが大きいからと説明されていました。一体どんなことを願ったのでしょう。あるいは――呪ったのでしょう。
「スミレと似たようなこと。自分をこういう風に変えてほしい、と」
意外な返答でした。ということは、スミレも同じように強いのでしょうか。あまりそんなイメージはないのですが。
「もっとも、スミレとは違って、ほとんど人格を上書きしたようなものだけど」
「上書きって……?」
「大したことではない。ただ、わたしは『ディストキーパー』になる以前と今では、人間そのものが違うというだけ。記憶を除いた一切合財、名前も顔貌も、この町に来るまでの来歴も、それに伴って親や親戚も。すべてなかったことにして、わたしはここにいる」
それだけのこと、と重ねてトウコさんは言いました。自分に言い聞かせているようで、念を押しているようで、何となく触れがたい雰囲気を感じました。
「あんた、親までなかったことにしたって言うの?」
親がいなかったことになったらトウコさん自身もいなくなるのでは、と考えて、わたしはなるほどと納得しました。その矛盾をどうにか成立させてしまったからこそ、「大幅な改変」になったのでしょう。
「それがあんたの望みだったの?」
「今となっては分からない。親子だとかそういう関係も、なかったことになったから」
淡々としているのが逆に悲しげに見えて、キミちゃんもそれ以上言うことを失ったようでした。ただ一言だけこぼしました。
「みんな、ちょっとおかしいよ……」
「ちょっとおかしいくらいじゃなけりゃ、『ディストキーパー』になれないのかもね」
珍しく、水島は賛成できる意見を言ったように思います。パサラは確かに言っていました、「過剰に不幸な人間に声をかける」と。
世界に対して「ちょっとおかしい」のが、わたしたちの「不幸」の始まりなのかもしれません。だからこそパサラに言われるまま、思う通りに世界を変えたくなるのでしょう。
「わたしの『最初の改変』は、わたしに合わせて世界を変えたのだと思う? 世界に合わせてわたしを変えたのだと思う?」
もうそれも分からないのだけれど。それは誰にも答えられない問いでした。




