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『つまり、葉山ミリカの思う通りに世界を変えていい、ってことなんだ』
わたしがそれと出会ったのは、学校のトイレで傷を抱えていた時でした。
個室の中でうずくまっていると、ふわりと漂ってきたのでした。
それはバレーボールくらいの大きさの白い毛玉で、上半分と下半分を分かつように、複雑な文様の刻まれた赤い首輪のようなものをしています。多分、これで体と頭を区別しているのでしょう。
上半分には、横に伸びた二本の長い耳と目鼻口がついていました。下半分からは黒く細長い尻尾が伸びていて、先端には肉球のついたネコの足の裏のようなものがくっついています。手足はなく、この尻尾がその代わりなのかもしれません。
子どもの落書きか、ゆるいキャラクターもののぬいぐるみのようでした。顔立ちもシンプルでかわいらしいのです。
それを見たわたしは、びくりと体を震わせました。得体の知らないものが浮いているからではなく、これは誰かの悪戯なのだろうと思ったのです。
わたしはすぐに毛玉の真上を見ました。誰かが糸か何かでこのぬいぐるみを釣っているとほとんど確信していました。わたしがつかんだら、即座に水を掛けたり、虫をまいたり、もしかしたら想像もできないような嫌なことをしてくるに違いありません。
けれど、糸は見えませんでした。毛玉は不思議そうに体を傾けます。多分、首を傾げたのでしょう。
『ここまで私も何人かの人間に現れてきたけれど』
毛玉の、口がもふもふと動きます。小学校低学年の男の子みたいな声でした。
『まず釣り糸を探したのは、君が初めてだよ』
君とか私とか、ずいぶんと気取った物言いをする毛玉だな、とわたしは思いました。顔文字みたいな顔に似合っていません。
『用心深いのかな? 声も上げないね。大抵しゃべると驚くんだけど』
毛玉の表情はよく分かりませんでしたが、何だかイラつかれているような気がしました。わたしがしゃべらないせいだと思って、必死に言葉を探します。
「あ、あの……」
大きな声は出ませんでした。毛玉は見かけによらず大人っぽいので、わたしがここまで出会ってきた多くの大人と同じように、「大きくはっきりしゃべらないか!」と怒鳴るに違いありません。何をしても失敗してしまうのがわたしだなと思い知らされました。
『まあいいさ。本題に入るよ』
毛玉は気にしていないようでした。本題ということの方が重要なようです。
こういう大事な話をさえぎってはいけないということは、わたしでも知っている常識なので、弁解を飲み込みます。そして、聞いているよということを示すためにうなずいておきました。
『私は「エクサラント」というところから来た、パサラという』
いきなり固有名詞が二つ出てきたので、頭の中で一度確認しました。「パサラ」がこの毛玉の名前で、「エクサラント」が出身地なのでしょう。
『「エクサラント」はこの「人間界」の「インガ」をコントロールしている場所だ』
「インガ」は「因果」でしょうか。それに「この『人間界』」と言いました。「エクサラント」は人間の世界ではなく、毛玉の世界なのかもしれません。
「因果」というのは原因と結果でしょう。それをコントロールというのがよく分かりませんでした。尋ねようかと思いましたが、怒られそうな気がして躊躇われます。それはわたしにとっては、よく知っている心の動きでした。
『「インガ」のコントロールというのは、平たく言えば世界の進む先を決めることさ』
尋ねるまでもなく説明してくれました。今日は運がいい、と一瞬思って、そうでもないことを思い出して、また胸の奥がざわつきました。
『私たちは多くの人間が望む方に舵を切ってはいるんだけど、最近は人間の数が増えて「インガ」が複雑になっているせいで、それだけだと過剰に不幸になってしまう人がいるんだ』
パサラが言うには、人間の幸福と不幸の総量は一定に決まっているそうでした。「原因」という同じ袋に幸福の宝石と不幸の石が同じ数だけ入っていて、中を見ずに引いて「結果」を得るようなイメージだそうです。
『多数派の方向にコントロールするたびに、少数派の袋に「不幸の石」が入り込んでしまう。このことはずっと繰り返されてきたんだけど、最近は人間の数が増えてね。「少数派」と言えども、数が多くなっちゃったんだ』
そのように、袋に石だけをどかどかと入れられ、引いても引いても石ばかり出てくる人間を、パサラたち毛玉は「過剰に不幸な人」と呼んでいるということです。
『だから袋に入る前に、取り出してやらなくちゃいけないんだ。「過剰に不幸な人」の宝石と石の比率が正常に戻るようにね』
いいことだ、と思いました。百円を拾って交番に届けた向かいの家の男の子を褒めるぐらいの気持ちでした。
『ところが、その取り出した石が問題でね。私たちは「インガクズ」と呼んでいるけれど、これが放っておくと寄り集まって暴れ出すんだよ』
それが「ディスト」という怪物になる、とパサラは言います。「歪んでいる」とか「ゴミ」とか、そういう印象のある響きでした。
『「ディスト」は数も多くてね。しかも「インガ」から外れた存在だから、「エクサラント」では対処できない』
「インガ」の中だけが、「エクサラント」が手を出せる範囲なのだそうです。「自分たちでコントロールしている」なんて言っておきながら、ちょっと無責任なように思えました。
『それで、『ディスト』と戦い、掃除する『ディストキーパー』を募集しているんだ』
察しのいい人間ならば、ここで自分がこの後「ディストキーパー」とやらに誘われることは分かるのでしょう。しかし、わたしは、まったくそんなことを想定せず「はあ」とうなずいているばかりでした。
『え? やってくれるの?』
なので、ここでそう迫られておののく羽目になります。そこでようやく、わたしが相槌のようにうなずいたことが、大切な決断だったのだと気付きました。
パサラの口調は意外そうでした。わたしは「違う」と言いたかったのですが、空気がぱくぱく口の中を通り過ぎるばかりで、二の句が継げませんでした。
『ん? 違うのかな? どうなのか……えーと……』
パサラは困っていました。困らせるということは、つまり次はわたしにイラ立つということです。少なくともわたしはそう考えていて、誰かにイラつかれるのは好きではありませんでした。
「そ、その……ごめんなさい!」
口をついて出たのは、慣れ親しんだ謝りの言葉でした。親しみ過ぎてくしゃくしゃで、味のないガムを吐きつけるのと同じようなものでした。
『いや、まあそりゃそうだよね。ほら、そんなに青い顔しないで』
パサラはそう言いましたが、わたしは胸がいっぱいでした。感極まって、という意味ではなく、文字通り何かが満たしているという意味で。その何かとは、二目見られないぐらいに醜いものです。
『うん、不安だと思うんだ。当たり前だよね。お金は出ないし。危険だし。無茶を言ってるのは分かってる。まず、条件を説明してないし。断って当然だ』
わたしのために気を使ってくれているようでした。「何人かの人に会った」とパサラはこの段階で言っていましたが、きっとその中の最底辺のクソッタレがわたしという人間なのでしょう。もっと最底辺らしく縮こまることにしました。
『だから、ちゃんと対価は用意してるんだ。とりあえずそれを聞いてくれないか? その上で、受けてくれるなら私もうれしいし、もちろん断ったって構わない』
わたしはがくがくとうなずきました。勢いのついた水飲み人形のような挙動を見て、パサラは左右に一回ずつ大きく揺れました。咳払いのような意味なのでしょう。
『葉山ミリカ』
パサラは名乗ってもいないわたしの名前を知っていました。
『もし「ディストキーパー」になってくれるなら、君のために一つだけ「インガ」をいじくってもかまわない。そういうことになっている』
わたしの理解の中で、「インガ」は宝石の袋でした。その中の宝石の個数をたくさんにしていい、ということなのでしょうか。それとも、袋にキャラクターの刺繍をつけてくれる程度のことなのでしょうか。
『つまり、葉山ミリカの思う通りに世界を変えていい、ってことなんだ』
宝石の数の話でした。ぞくりとして、わたしは二の腕を抱きました。それこそ、背中に冷たい宝石を入れられたようでした。